第25話
エリと順二はレストラン前ですぐに別れた。そのレストランというのも、近所では有名なイタリアンレストランで、五年ほど前にできた店だ。ピザが美味しいと評判で、しかし高校生が利用するにはなかなか手の届かない値段を誇っている。
利用するにはそう――デート、だろうな。
僕は足から根っこが生えたかのように、その場に固まってしまった。
「……」
エリも順二も、僕がいるのとは全く別々な方向に歩いて行ってくれたのは幸いだった。咄嗟に身を隠すなど、そんな理性的な行動を取ることはできない。
できるはずがないのだ。あの、純真なブルーの瞳の魅力を知ってしまった以上は。そこから溢れる優しさ、慈愛の念に心打たれてしまった今となっては。
僕の脳は、完全に思考を放棄していた。しかしそれは、理性を失って暴力衝動に駆られた、というわけではない。
身体が動かなかった。心が空であった。
よろよろと、僕は電柱に半ば抱き着くようにしてもたれかかった。
竹園エリ。僕の護衛対象であるエリ。僕と同じく、辛い過去を抱えたエリ。にもかかわらず、僕を抱きしめてくれたエリ――。
「お、おい君、大丈夫かい?」
穏やかな男性の声がする。
「気分が悪いのか?」
やっとのことで振り返ると、僕はいつの間にか、その場にしゃがみ込んでいた。
男性と散歩中だったのだろう、気遣わしげな様子で犬がお座りをしている。
さらに気づいたところでは、僕の視界はひどくぼやけていた。
涙、なのか。
僕は『どうもすみません』と言いたかったけれど、とてもそれを言葉にできる状態ではなかった。
手遅れだとは思いつつも、僕は右腕で両目をごしごし摩りながら立ち上がり、男性が来たのと反対側へ駆け出した。
信号など見もしない。人を避けるのも二の次だ。僕は多くの罵声やクラクションを浴びながら、ひたすら走りに走った。
※
どこをどう走ったのか、さっぱり見当がつかない。気づいた時には、僕は街を一周して伯父夫婦の家の前に立っていた。
荒い息をつきながら、玄関ドアに両腕をつく。そのまま膝をつき、ずるずると僕は膝立ちになった。
「畜生! 畜生! 畜生!」
僕はドアを殴りつけながら、何度も悪態をつき続けた。
夕日が真横から僕の姿を捉え、長く影を伸ばす。
何度目かの拳を叩きつけようとした、その時だった。
「うわっ!?」
内側から開かれたドアに、僕は勢いよく跳ね飛ばされた。
「何者だ!! 警察を呼ぶぞ!!」
尻餅をついた僕の眼前に現れたのは、伯父さんだった。手には箒を握っている。
「おう、優希! 今ここで暴れていた奴、どこへ行った!?」
「あ、すみません、僕です」
すると、伯父さんは目を瞬かせた。
「お、そ、そうか。何かあったのか?」
「えっと……」
「いやいや! そんなことを訊いてはいかんのだったな。それにしても、服も身体もボロボロだぞ」
「え?」
僕は立ち上がるのも忘れて、自分の姿を見下ろした。
真っ白だったシャツは土にまみれ、スラックスはところどころ破れている。
「母さん、風呂を沸かしてくれ! さあ、上がるんだ優希……って鼻血が出てるじゃないか!」
僕は手先で、鼻の頭から口元へそっと触れてみた。触り心地の悪い液体が、じとっと指紋に染み込んでくるような感じがする。
「とにかく入れ! 母さん、絆創膏!」
「お風呂とどっちが先なのよ、あなた!」
伯母さんも玄関に出てきたが、僕の姿を見てはっとした様子だった。
「優希くん、気分は悪くない? お腹や頭は痛くない?」
「あ、はい」
「救急車は必要なさそうね。さ、とりあえずリビングへ。あなた、優希くんの手を引いてあげて」
「お、おう」
伯母さんは誰よりも冷静に状況を分析し、僕の傷の処置を施してくれた。
その後、僕は勧められてシャワーを浴びた。
夕ご飯の席は、やたらと冷え冷えとしたものになった。
僕に接する上で、何らかのトラブルがあった場合、下手に尋ねないようにとのお達しがドクターから出ていた。伯父さんも伯母さんも、それを忠実に守ってくれている。
しかしそれが原因で、夕ご飯の場が静まり返っている。その事実は、僕の胸を締めつけた――と言いたいところだが、僕にはもはや気力も体力も残っていない。締めつけられようがないのだ。
「ごちそうさま」
「おや? 優希、もういいのか?」
「あなた、今はそっとしておいてあげましょう。いいのよ、無理しなくても」
「すみません」
僕は椅子から立ち上がり、軽く頭を下げた。階段を上り、自室に踏み入る。
勉強机の上に置いていたスマホのランプが点滅している。着信があったのか。
ボタン一つで起動させ、着信履歴に目を走らせる。しかし、それには及ばなかった。
一番上に、『小河順二』の名前が刻まれていたのだ。着信時刻は、今から三時間ほど前。僕の記憶が欠落している時間帯、つまりは僕が街中を駆けずり回っていた時だ。
僕は極めて無意識的に、機械的な所作で順二に電話した。
五度目のコールの後、
《はい、小河です。優希くん?》
「……」
《どうしたの? もしもし?》
「ああ。夜遅くに悪いね」
《それほどの時間でもないよ。どうしたの? ってごめん、僕の方からさっき電話したんだよね。昨日から今日は、すごくいいことがあってね、まずは優希くんに報告したかったんだ!》
僕は黙り込んだが、順二は会話の続きが促されているものと解釈したらしい。
《昨日、思い切ってエリさんを食事に誘ったんだ。そうしたら、OKが貰えたんだよ! まあ、告白したわけじゃないけどね》
「……」
《今日のお昼に、食事に行っていろんな話をしてきたんだ。ほら、僕ってあんまり人と話すのって苦手じゃない?》
「……」
《でも、自然と話せたんだ。イギリスの写真もたくさん見せてもらって、すごく盛り上がったよ。僕も陸上部の話とかしてね、エリさんも興味を持ってくれたようなんだ》
「……」
《今度の大会、応援に来てくれるって! 僕はリレーでアンカーなんだけど、一番目立つポジションだよね。いやー、今から緊張しちゃってさ》
「……」
《結構大事なことだから、優希くんには絶対伝えておかなくちゃいけないな、と思ったんだ。親友って呼べる人って、僕には優希くんしかいないから》
「……」
《あれ? もしもし? 優希くん? 電話、繋がってるのかな……? あ、通話中だ。通じてるみたいだ。もしもし? もしもーし》
次の瞬間、
「エリは僕のものだ!!」
僕は喉が掻き切られるほどの勢いで叫んだ。その瞬間、確かにミシリ、とスマホが手の中で悲鳴を上げた。
《うわっ! ど、どうしたんだい、優希くん!?》
僕は答えることなく、通話終了のボタンも押さずにスマホを放り投げた――というより、投げつけた。その先にあったのがベッドの掛け布団だったのは、不幸中の幸いだというべきだろう。
エリは僕にとっての華だ。砂漠のオアシスに添えられた、一輪の可憐な向日葵なのだ。誰にも渡してなるものか。
その時僕は気づいていなかったけれど、ここまで感情的になったのは産まれて初めてのことだった。
エリさえ。彼女さえいてくれたら、僕はもうそれで構わない。ただし、邪魔者は絶対に許さない。たとえそれが順二だったとしても。
それにしても、どうしてエリは僕を裏切ったんだ? 僕は告白するところまでいったのだ。きちんと気持ちを伝えたのだ。それなのに……!
僕はダン、と音が立つほどの勢いで畳に膝をついた。
「エリ……!」
僕は自分の両肩に腕を回した。自分以外に抱きしめるものがなかったのだ。
涙がドクドクと、質量を伴って僕の頬を流れ落ちた。もう流れきってしまったと思っていたのに。
「優希くん……」
「……」
「優希、くん?」
その瞬間、はっとして僕は顔を上げた。
馬鹿な。ここにいるはずがない。どうしてここにいるんだ、君は?
「エリ……」
「優希くん」
そこに立っていたのは、紛れもない僕の向日葵だった。
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