第24話

 僕は自室の勉強机に向かって、数学の問題集と取っ組み合いをしていた。表紙には、難関校と言われる高校の名前が連ねられている。

 ふと机上の時計を見ると、もうじき日付が変わるところだった。睡魔は先ほどからジリジリと僕の集中力を削ぎ落としにかかっている。しかし、今引き下がるわけにはいかなかった。

 ノックもなく、ドアが開けられる。振り返らなくとも、入ってきたのが母であることは察しがついた。


「……」

「……」


 僕も母も、何も言わない。僕は勉強のこと、母は僕の『将来』のことばかりに注意が向いている。互いに交わすべき言葉を探すほど、脳みそに余地は残っていない。無論、心にも。

 母は熱い紅茶の入ったカップを机に置き、そそくさと出て行った。

 紅茶と反対に、僕と母との関係は冷めきっていた。だが、それがどうしたというんだ。僕から勉強をとったら、何も残らないではないか。


 次に気づいた時には、僕の眼前には理科の教科書が展開され、時計は午前二時を指していた。カップは空になっている。紅茶のカフェインで眠気を相殺する予定だったが、流石に限界が来たらしい。


「ふっ……」


 僕は両手を組み、思いっきり伸びをした。まさにその瞬間だった。

 再びドアが開く気配。バン、と勢いよくドアが音を立てる。ほぼ同時に、


「何をやっとるんだ、優希!!」


 怒号を上げたのは、父だった。


「集中力を絶やしてはならんといったはずだろう!!」


 バシン、と僕は後頭部を張り倒された。危うく鼻先が机にぶつかるところだった。


『何しやがるんだ、この野郎!!』と、反論したいのは山々だった。しかし、それは許されないことだ。

 一つには、春島家の教育方針や躾け方が厳しいものだった、という理由がある。

 しかし重要なのは、二つ目の理由。それはすなわち、『両親の言うことは絶対正しい』ということだ。

 

 父は医師で、母は弁護士。何というエリート夫婦であろう。父親は人体のことを知り尽くし、母親は人の心を熟知している。

 二人の視野は高見にあった。他人よりも多くの稼ぎを上げ、立派な生活環境を築き、社会貢献にも一役買っている。立派なものだ。

 しかし、皮肉なものだ。視野が高く広いがゆえに、灯台下暗しであったのだ。灯台の下には、優希という名の『家族』がいたはずなのに。自分たちは優希を守るべき『大人』であったはずなのに。優希は――僕は必死に、両親からの『心ある何か』を求めていたはずなのに。


 だが、そんな『何か』には、論理性が全く欠けていた。愛だとか情だとか、そんな数値化できないものが、どうして年収一千万を超える両親の心を動かせるものか。簡単に数値化できる『金銭』というものに敵うものか。

 最初から諦めていたのではない。実感させられてきたのだ。


 これこそが、僕が『両親は正しい』と思う理由、ひいては『両親に反論することはできない』と考える元凶だった。

 

 しかしその夜、僕は『何か』が違っていた。また現れた『何か』という実態のない存在。

 俯いたままの僕に対し、父は


「おい、返事をせんか!!」


 と口調を荒げる。もう一度、今度は拳で僕は殴られた。同時に椅子が蹴りつけられる。

 他人の命は救えても、我が子の命はどうでもいいらしい。


 そうか。僕など、こんな大人たちにとってはどうでもいいのだ。

 何かがカチャリ、と音を立てた。

 それは、スイッチが切り替わる音だったのかもしれない。

 ダムが崩壊する手前で生じた、ひびの入る音だったのかもしれない。

 いずれにせよ、それは僕の脳内で発生した『何か』によるものだった。


 椅子が倒され、身体が傾く。

 その勢いを活かし、机上の電気スタンドを手に取る。

 そのまま一回転して、僕は思いっきり電気スタンドを振りかぶった。

 ガシャリ、という蛍光灯の破砕音と、何かがぶつかり合う鈍い音がした。続けて、ドッという音を立てて、父はフローリングに倒れ込んだ。


 慌てて入って来た母が、鼻と唇から出血した父を見て短い悲鳴を上げた。口元に両手を当て、壁に背を当てながらずるずるとへたり込む。

 その視線はゆっくりと上がり、やがて微かに返り血を浴びた僕を捉えた。

 今さらながら、母は震えだした。これではまともに会話も成り立たないだろう。

 僕は電気スタンドを部屋の奥へと放り投げ、


「救急車を呼んでくる」


 とだけ告げて、スマホを手に取りながら部屋を出た。


         ※


 僕はぱっと目を開き、がばりと上半身を跳ね上げた。カーテンの隙間から、眩い朝日が差し込んでくる。

 今日は土曜日で、学校は休みだった。


 夢、か。

 夢といっても、これはまごうことなく過去にあった実際の出来事だ。


 この事件のあった翌日、僕と両親は三人で、当時僕が通っていた中学校に赴いた。

 僕は制服姿――といっても七月のことだったので、学ランは羽織っていない――で、両親はスーツを着込んでいた。父は鼻の骨が折れたことと唇を切ったことで、マスクで顔を隠さなければならなかった。

 生徒指導室に行き、担任、保健、それにスクールカウンセラーの各先生と向かい合う。


 春島家の三人と学校側の三人は、テーブルを挟んで長いソファに腰かけ、互いに緊張感を発していた。両親はそれこそモンスターペアレントの見本のようで、一体優希に何を吹き込んだんだと訴えた。

 学校側は対応に苦慮した。それはそうだ。僕の攻撃対象は学校にはなかったのだから。

 逆に言えば、学校にいれば誰かに攻撃される恐れはなかった。憎んだり妬んだり怒りを覚えたりする相手がいなかったために。


 その日の話し合いの結果、僕は原田ドクターの元への通院を勧められた。まあ、父が一方的に罵声を浴びせかけていただけの会合だ。学校側は、より高度で第三者的立場の専門家に任せる以外になかったのだろう。


 原田ドクターの元へも、最初は僕と両親の三人で赴いた。父も、場所が変わったからといって、その傲慢な態度に変わりはなかった。

 しかし、一つだけ大きな違いがあった。原田ドクターは、強かったのだ。

 何も口論や殴り合いをしたわけではない。否、ドクターはそこまで至る隙を両親に与えなかった。これがプロの心療内科医なのかと、僕は驚嘆したものだ。

 これには両親も歯が立たず、僕の治療はドクターに一任された。半ば丸投げだった。中学三年生の夏休みという極めて重要な時期に、『勉強を休ませろ』というのだから。

 その後、両親は僕が実家近くの『そこそこの』進学校である瀧山高校への入学を認め、僕はさしたる苦労もなく高校進学を決めたのだ。


 僕は努めて冷静に自らの過去を振り返った。

 薬を飲んだ方がいいか? いや、頓服の薬は先ほど飲んだばかりだ。今日は食後に飲む抗不安剤と、睡眠導入剤で耐えるしかない。自信はないが。

 では、気分転換をしてはどうだろう? この前、屋上のフェンスを壊した日の午後のように。そうだ。一人で自室にこもっていないで、また喫茶店に行って読書をしよう。

 僕はさっさと着替えを終え、朝ご飯を頂いてから、よく晴れた空の元へと歩み出た。


         ※


 午後一時。

 僕は昼ご飯を確保すべく、喫茶店を出て街をうろついた。幹線道路の反対側とは打って変わって、ファーストフード店に洋食チェーン店、あるいは東南アジア食品の専門店まである。

 さて、どこで何にありつくか。僕が思案し始めた、その時だった。


「美味しかったね、エリさん」

「ありがとう、順二くん。わざわざいいお店を教えてくれて」

「こちらこそ。楽しかったよ」


 僕の足はその場所、ちょうど電柱の陰で強制停止した。慌てて上半身を後方に倒すようにして、何とか転倒を防ぐ。滑稽な姿だっただろうが、もっと滑稽なのは、きっと僕の表情だろう。

 何故? どうしてエリが順二と一緒にいるんだ? エリは僕の気持ちを知っているはずなのに。順二は僕の親友のはずなのに。


 一体、何が起こっているんだ――?

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