第23話

「おはよう、優希くん。目、どうかしたのかい?」

「ああ、順二……」


 僕は泣きはらした目を擦りながら、順二に振り向いた。


「どうやら花粉症になっちゃったみたいでね……。目がかゆいんだ」

「こまめに目薬を差しておいた方がいいよ? あんまり擦ると目を傷つけちゃうから」

「ああ、そうするよ」


 僕が涙した理由は言うべくもない。エリのあまりの優しさに、心打たれてしまったからだ。

 その時、僕には一つの覚悟ができていた。


 今までは、僕がエリを助ける立場にいた。少なくとも周囲からはそう認識されていた。

 しかし、僕は気づいてしまったのだ。


 僕はエリが好きだ。彼女のことをもっと知りたいし、守ってあげたいとも思う。要は、恋の告白をしたいと思った。この気持ちを伝えたかった。今の胸の高鳴りを鎮めるには、それしかない。


 石塚先生は相変わらず、といっても最近のキレのない調子でホームルームを終え、さっさと教室を後にした。それからずっと、丸一日の授業時間がどろどろと流れていった。

 どろどろ、というのも奇妙な表現だ。しかし、あっという間に過ぎたり、なかなか進まなかったりしたので、そんな時間の進み方は決して気分よくはない。


 僕は休み時間のうちに、エリに話を持ちかけた。放課後、教室で待機してほしいと。

 もはやすぐにでも告白しなければ、僕の心臓は爆散してしまいそうだった。そして帰りのホームルームが終わってから、


「エリさん、ちょっと待ってて」

「うん。待ってる」


 僕は敢えて順二の方を見ないようにしながら、教室を後にした。


「どはっ!」


 大きく息をつきながら入ったのは、誰も使っていない空き教室だ。机と椅子は全て教室後方に押しやられている。

 僕は精神安定剤を飲み、入り口反対側に近づいた。がらりと窓を開け、窓枠に手をついて再び息をつく。嘔吐しているわけではない。

 視線を上げ、二階からの風景を眺める。風景といっても、こちら側は桜の木に遮られている。まあ、綺麗ではあるけれど。

 振り返って廊下に誰もいないことを確かめてから、


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 天井を見上げ、わざと音を立てて息をする。その方が、自分の呼吸を整えやすい。

 僕は窓側の柱に背をつけて、もたれながら腕を組んだ。


 エリはいつまで待ってくれているだろう。スマホを起動して見たところ、先輩たちからの連絡はまだない。今日の部活をどうするか、二人で話し合っているのだろう。

 僕はスマホをポケットに突っ込み、左胸に手を当てた。この胸の高鳴りだけが、僕がこの世に生きているという唯一の証左に思われた。

 気の利いた言葉は思い浮かばない。素直に、それこそ当たって砕けるしかない。

 いつの間にか外は西日になって、橙色が、澄んだ青空を染め変えていく。


 ――よし、行こう。


 僕は教室に取って帰した。偶然にも、残っていたのはエリだけだった。机の上に肘をつき、その上で手を組んで顎を載せている。机上には、今日配布された宿題と思しき勉強道具が広がっていた。


「あの、エリさん」

「あ、優希くん」


 ただ呼びかけただけなのに、どうしてこうも無邪気な笑みを見せてくれるのだろう。

 嬉しい。けれど疑問でもあった。しかし、今はそのことをどうこう言っている場合ではない。


「ちょっと、いいかな。そこの空き教室で」

「今日の活動は教室でやるの?」

「あ、えっと、そういうわけじゃなくて……」


 今ここで告白してしまおうか。しかし、空き教室の方が邪魔が入る可能性は低い。


「部活じゃないんだ。話したいことがあってね」

「うん、分かった」


 エリは素直に従ってくれた。教科書をパタンと閉じ、貴重品をブレザーのポケットに入れる。そして僕の元へ近づいてくる。

 こっちだよ、と手招きをして、僕はエリをいざなった。

 

 空き教室の前。僕は緊張をほぐそうと、執事よろしく『どうぞ』と言ってエリを先に教室へ入れた。そんな僕の滑稽な姿を見て、エリはくすくす笑っている。

 扉を閉めて、僕は振り返った。そしてその光景の眩しさに、微かに目を細めた。

 穏やかな西日の逆光、未だに満開を誇っている桜、そしてその中心に立っているエリ。

 世界中のどんな絶景も、いかなる芸術も、この光景には及ばない。きっとそうだ。

 僕の胸中ではいつの間にか、何かを崇拝するような、感銘を受けるような、そんな圧倒的な気持ちが、緊張感を押し潰していた。


「エリさん、僕はあなたのことが、好きです」


 その瞬間、僕は自分がどこを見ていたのか分からない。エリを真っ直ぐに見つめていたのか、俯いていたのか、それとも明後日の方向を向いていたのか。

 しかし気づいた時には、僕の中での緊張感は、再びその勢いを取り戻していた。

 自分は言ってしまったから構わない。次はエリが語る番だ。

 僕はじっと、エリのシューズを見つめながら黙り込んだ。


 しかし、


「あの……その『好き』って、どういう意味?」


 僕には答えようがなかった。答えられるものか。僕はその、エリが理解しかねるところの『好き』という感情をぶつけるところまでしか、想定していなかったのだから。


 僕は、ぶわっと全身から滝のような汗が湧いてくるのを感じた。

 こんな時、どうすればいい? 会話のキャッチボールのルールに則れば、次は僕が口を利く番だ。

ふわふわした心持ちだったのが、いつの間にかぎこちない、歪な心境へと変化してしまっていた。


それから十秒? 一分? 十分? よく分からないが、そこそこの時間、気まずい沈黙が続いた果てにあったのは、スマホの着信音、正確には振動音だった。


「あっ、僕だ」


 慌ててスマホをポケットから取り出し、メールの文面を見る。風間先輩からだ。


「今日はひとまず、ボランティア部の手伝い――」


 読み上げてみると、エリは


「じゃあ、昨日と同じだね。まずグラウンドの更衣室に行くんでしょう?」

「うん、そ、そういうことになるね」

「それじゃ、行きましょう」


         ※


 実際、その日伯父夫婦の家に帰りつくまで、僕にははっきりとした記憶がない。エリと一緒にゴミ拾いをして、後片付けを済ませ、一緒に帰って来たというのに。

 一体僕は何を話していたのだろう? それとも、何も話さなかったのか。


「お帰りなさい、優希くん」

「……」

「優希くん?」

「あっ、ただいま帰りました」


 その時、僕はどんな顔で伯母さんの出迎えに応じたのだろう。取り敢えず僕は、晩ご飯までの間は自室にこもることにした。


 昨日の風呂上りと同じように、しかし制服のままで、僕はベッドに横になった。

 

 エリは僕を抱きしめてくれたのだ。僕は嫌われているわけではない。それなのに何故、エリはYESともNOとも答えてくれなかったのだろう。やはり、出会ってからの日数が短すぎて判断に困ったのか。


 いいや、違う。

 エリは『好きとはどういう意味か』と尋ね返してきたのだ。つまり、その言葉の意味自体を解していない。日本とイギリスでは、環境が違いすぎるのか。

 それでもやはり、抱きしめてくれた、というのは一つの転機であるはずだ。恋人に相応しいと認めてくれた証拠ではあるまいか。


 ……分からない。

 いっそ今から電話してみようか。いや、きっとまた僕は沈黙という地獄を見る、否、聞くことになる。

 結局確かなのは、僕はエリのことが好きだということ、そして僕のせいで天体観測ができなくなっているということ、この二点だけだ。


「はあっ!」


 僕はわざとため息をつきながら、ベッドの上を転がった。そしてその吐息の中に、あまりにも多くの苛立ちが含まれていることに我ながら驚いた。

 取り敢えず今は、エリがくよくよすることなく、明日も学校でまた会えると信じるしかなかった。互いに気まずい思いをすることなしに。


 伯母さんが、階下から晩ご飯の支度ができたことを伝えてくれる。僕は短く返事をして、のっそりと起き上がった。

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