第22話
「おっ、今日はよく食べるじゃないか、優希くん」
「まあまあ、年頃の男の子ですから。お代わり、あるわよ」
「はひ」
僕は口内のものを飲み込んでから、
「どうもありがとうございます」
と伯父さん・伯母さんに告げた。
クリニックからの帰り、僕は一人で『二件目の』実家に帰って来ていた。
一年生の頃の家路というのは、いつも一人きりで歩むものだった。帰りは天文部の活動もあって、帰宅が九時頃になっていたからだ。しかし、ここ数日はエリがそばにいてくれた。
そういう理由もあって、僕は今までにない種類の寂しさ、虚しさを覚えていた。伯父さん・伯母さんが笑顔で迎えてくれたお陰で、大方持ち直したけれど。
僕は食事と入浴、着替えと歯磨きと明日の準備を終え、自室のベッドに横たわっていた。掛け布団の上から、仰向けに倒れ込む。腕を後頭部で組んで、枕代わりにする。
僕は天井を縦に走る木目を追いながら、ドクターとの会話を思い返していた。
教わったことは二つ。
一つ目は、人の話をよく聞き、観察しながら慎重に行動すること。要は、下手に口を挟んで他人を傷つけることのないように、というわけだ。
二つ目は、正直に人に接すること。相手がどこまで僕のことを尋ねてくるかは分からないが、確かな真実だけを、最低限の言葉で喋るように、と。
しかし、
「どうしろってんだよ……」
僕は呟いた。いつの間にか口から出ていた言葉だ。
今、何をどうすべきなのか。それはドクターが教えてくれたし、後は実践あるのみ。当たって砕けろだ。
そこまで考えた僕が、何を分からないでいるのか。それは、自分が今、何を考えているのかということだ。
いろんな人の顔が脳裏に去来する。エリ、石塚先生、嵐山先輩、風間先輩、親父、お袋、そしてエリに戻る。
こういう時、大人は酒でも飲むんだろうな。『勤勉・健全』な僕には無関係な話だけれど。
もちろん、皮肉なことだとは思っている。その『勤勉さ』『健全さ』をあまりにも求められすぎたがために、僕は心を病んだのだから。
それでプラス・マイナスがゼロだと思う人がいるかもしれない。
それは大きな間違いだ。
最近はよく精神疾患のことが、老若男女取り上げられている。しかし患者、否、『被害者』の視点でなければ分からないことは多分にある。
まあ、どんな人間でも、多かれ少なかれ『不安』や『不満』といった負の感情を持っている。それゆえ、誰かの助言を『お前なんかに分かるものか! 被害者でもないくせに!』と一蹴するのは無理がある。それは理解しているつもりだ。
「そうは言ってもな……」
僕はごろり、と横倒れ状態になりながら考える。
世の中に『鬱病』やら何やらという病名がある以上、『健康な人』『病気の人』という区分もまた存在する。人間に区分があるということは、分かり合える範囲にも被っている部分とそうでない部分、すなわち分かり合えない範囲があるということに違いない。
石塚先生や先輩方がどれほど勉強し、僕の思考に追随を試みたとて、追いついてはくれないだろう。両親などもっての外だ。
その時、ドクン、と心臓が跳ね上がる感覚を覚えた。思わず左胸を押さえる。
落ち着け。落ち着くんだ、春島優希。
「くっ!!」
咄嗟に僕はベッドから跳ね起きた。
鞄の中から精神安定剤を取り出し、薄いアルミ製のパックを破って口に含む。
携帯しているペットボトルの蓋を、震える手で開ける。
その勢いで、ぐびり、と音を立てながら水を安定剤ごと飲み込む。
「だはっ!!」
僕は大きく息をついた。空になったペットボトルが音もなく畳に落ちる。唇の端から水がつつっ、と垂れたが、構ってはいられない。
額に手を遣ると、脂汗が浮かんでいた。
危ない。一気に自己嫌悪に陥るところだった。
『自己嫌悪してしまうことほど、悲しいことはないんだ』
過去のドクターの言葉が脳内再生される。
『自分で自分を否定してしまったら、誰かに救いを求めることもできなくなるだろう?』
「はあ……」
僕はしばし、ベッド横で呆けたまま突っ立っていた。
※
翌日。
「おはよう、優希くん」
「やあ、エリさん」
「おはよう、竹園さん。今日も優希と仲良くしてやってくださいね」
「はい、伯母さん。それでは、行ってまいります」
エリのお辞儀は相変わらず綺麗だった。
僕たちが今いるのは、僕の伯父夫婦の家の前。昨日エリからメールがあり、よかったら一緒に登校しないか、と誘ってくれたのだ。
部屋の隅、ベッドわきで突っ立って呆然としているしかなかった僕を正気に戻してくれたのは、まさにそのメールだった。
文面を読んだ瞬間、僕は有頂天になった。あまりに精神的なアップダウンが激しいが、嬉しいものは嬉しいのだ。意中の異性から誘いを受けるということは。
しかし僕は一晩考えて、腹を括ることにした。自分が屋上の事故、すなわちフェンスの破壊をしたのだと、エリに告げようと思ったのだ。
エリがどこまで知っているか――昨日、石塚先生と何を話していたのか――は分からない。だが、これ以上エリに黙ってはいられなかった。『天体観測をしたい』と思っている彼女の希望を打ち砕いたのは、他ならぬ僕なのだと。
「それじゃ行こうか、エリさん」
「うん」
今は朝の七時ちょうど。僕が通常家を出るより、ずっと早い。なんだか今朝は冷え込みが厳しく、うっすらと霧がかかっていた。人通りは少なく、何かを『告白』するには申し分ない。
「エリさん」
「なあに?」
エリはさも楽し気に、鞄を後ろ手に握ってくるりと振り返ってみせた。
「あのっ、えっと……」
僕は息が詰まるのを感じた。先ほど決意を固めたばかりだというのに。
「どうしたの?」
日本人、というか日本にずっと住んでいる人間なら、ここで根掘り葉掘り訊きだそうとはしないだろう。だがエリは興味津々で、そして無邪気な瞳でこちらを見つめてくる。
何て言えばいいんだ? こればっかりは、ドクターも教えてはくれないし、教えられることでもないだろう。
僕は目をぎゅっとつぶり、
「ごめん」
「何が?」
それからすーっ、と息を吸い込み、わざと視線を空に向けた。
「天文部の活動ができないのは、僕のせいだ」
「どうして?」
エリは相変わらず純粋だ。僕の視界の下方で、パチパチと瞬きを繰り返す。
ここから先が、最も言いづらい部分になる。僕は学ランのポケットに両手を突っ込み、足の向きを変えてエリの正面を避けた。
「……僕が、壊したんだ。フェンスを」
はっと、エリが息を飲む気配がする。
そうだな。そうだよな。僕は自分の感情を制御できない、暴力的な人間なんだ。そんな男を前にして、ドン引きするよな。
エリ、君は僕のそばにいるべきじゃない。君にはもっと、適任者がいるはずなんだ。こんな疾患を背負ったクラスメートよりも。
僕は、音がするのを待った。エリが狼狽えるなり、走り去るなり、最悪悲鳴を上げるなり、何かしら音がするはずなのだ。
しかし、その予想は大きく外されることになった。僕の片手を包み込んだ、温もりによって。
「辛かったんだね」
「え?」
「優希くん、大変な目に遭ってきたんだね」
エリは両手で、僕の拳を握っている。
「エリさん、君は――」
僕が何かを問いかけようとした瞬間、エリは手を放し、腕を僕の両肩に回した。
突然のことに、僕は今何が起こっているのか理解できなかった。ただ認識できるのは、エリの身体が僕と密着しているということだ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
そう言って、エリは僕の背中を摩った。
「誰もあなたを傷つけたりしないから」
「……エリ……」
「心配しないで、優希」
暖かい風が、僕の胸を吹き抜けていく。
『ありがとう』と言いたかったけれど、今の僕には無理な注文だ。歯を食いしばらなければ、嗚咽が漏れてしまうだろうから。
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