第21話

「完治した人間が相手になるなら分かる。だが、同じ精神疾患の人間が、病み上がりのまま相手をしてしまうとな……。分かるだろう?」


 言われてみれば。


「それって、『僕はこういうことが辛いんだ』とか、『分かる、そうだよな、本当にやってられないよな』みたいな感じで……?」

「そうだ」


 先輩は大きく首肯した。

 その時、僕ははっとした。今自分が口にした台詞は――。


『僕はこういうことが辛いんだ』

『分かる、そうだよな、本当にやってられないよな』


 こうもスラスラ言葉が出てくるところを見ると、やはり僕は精神疾患の経験者だ、ということなのだろう。問題は、その『経験』が過去形なのか、現在進行形なのかということだ。


「やっぱり先輩の言う通りかもしれませんね……。僕、現在進行形で病んでますから」

「自覚、あるんだな」

「はい」


 先輩は頭をガシガシ掻きながら、


「全く、清美ちゃんも苦労するよな。姉さんのことがあるとはいえ、このままじゃ自分も鬱病喰らっちまうぜ」


 なんとも呑気な言い様だが、先輩が真剣に事態を捉えているのは確かだ。この一年間のつき合いでようやく分かったことだけれど。


「それは困りますね。僕が一番信頼できる先生は、やっぱり石塚先生ですから」

「だろうなあ。それだけ清美ちゃんも苦労した、ってことなんだろうけど」

「ですね……」


 そうか、石塚先生も苦しい過去を経験していたんだよな……。

 

 今の僕に攻撃衝動はなかった。怒りや悔しさといった感情すらなかった。昨日から今日にかけて、感情エネルギーが切れてしまったらしい。

 逆に、先生への同情や哀れみといった感情が、胸にぽっかりと浮かんできた。

 石塚先生を頼れなくなった時、僕は誰に頼ればいいのだろう。先生が病欠したり、そうでなくともテンションが落ちてしまったりしたら、僕の心の安定に大打撃だ。


 僕は石塚先生と話し合うべきかもしれない。昨日屋上で暴れたのは飽くまで一過性の症状で、先生やクラスメートたちに責任がないことをきちんと説明すべきかもしれない。


「僕、ちょっと職員室に行ってきます。先生が心配です」

「お、おう」


 嵐山先輩は、少しばかり驚いたようだ。


「お前は大丈夫なのか、優希?」

「はい。平気です」


 逆に、今先生に精神的に倒れられたら困る。先生の不在は、僕の信頼できる数少ない大人の消滅を意味する。それは、何としてでも防がなければ。


 僕はグラウンドから昇降口へと上がる階段。一段飛ばしで駆け上がり、自分の下駄箱へ。シューズの踵を潰しながら、職員室へと向かう。

 僕は勢いそのままに廊下を駆け、ノックするのも忘れて


「石塚先生! いらっしゃいますか!!」


 と息を切らしながら突入した。

 職員室中の視線が自分に向けられるのを感じたが、知ったことではない。


「石塚先生!」


 ずかずかと踏み込んでいく。石塚先生のデスクは部屋の中央あたりだ。が、先客がいた。


「あれ? 風間先輩……」

「優希くん? どうしてここに……」


 風間先輩は、石塚先生のデスクのすぐそばに立っていた。しかし、その席には今誰も就いていない。


「石塚先生にお会いしたくて。どこにいらっしゃるんですか?」

「どういう用件で?」

「え?」


 まさかこのタイミングで、逆質問をされるとは思わなかった。先輩からは、どこか僕に対する警戒心のようなものが漂ってくる。


「僕は、その……」

「今のあなたは、石塚先生に会うべきじゃないと思う」


 先輩は気の毒気に、しかし一抹の冷たさを込めてそう言った。


「もしあなたが、石塚先生をこれからも頼りにしていたいのなら、ね」


 僕は心の中で手を打ち合わせた。

 やはり、そういうことだったか。僕の扱いに困っていた石塚先生が、僕に近い人物と話をすべく、風間先輩とエリを呼び出したと。


「先輩、僕、石塚先生に伝えたいんです。僕はもう大丈夫だって。だから、僕の親が何を言おうが、気にしないでほしいって」

「それ、本当なの?」


 僕は目を細めた。


「本当って……。どういう意味ですか」

「あたしだって馬鹿じゃないのよ。亮介にはよく、人の心の働きの話、随分聞かされたわ。それによればね――」


 風間先輩曰く、人間の心には『波』がある。要は、調子がいい時と悪い時があるということだ。そんなことは、僕だって身をもって知っている。

 

「優希くん、あなた、屋上の件でうざ晴らしができて今は調子がいいんでしょ?」


 僕は黙り込んだ。先輩を相手に盾突くのは、少なくとも今は賢明ではない。


「そんな時に『自分は元気です、治りました』って言われても、あなたの調子が悪くなった時はどうすればいいの? 落ち込む『波』が来てしまったら? 石塚先生はそこまで計算してあなたに接していたのよ?」


 それには少しばかり驚いた。石塚先生が、そこまで僕のことを気にかけてくれていたとは。


「それを風間先輩に伝えるために、さっきの呼び出し放送があったわけですか」

「ええ。でもそれだけじゃない」


 だろうな。今、ここにはエリがいない。もっと繊細さを要する話し合いに臨んでいるということか。

 いつものざわめきを取り戻した職員室の真ん中で、僕はただ、佇んでいた。

 周囲の声やプリントの印刷音、キーボードをたたく音。

 聞こえてくるが、頭には入ってこない。無音状態の空間にいるのと変わらない。そんな錯覚を、僕は覚えた。


 僕は顔を上げ、風間先輩を正面から見据えた。


「いかにも通せん坊、って風情ですね、先輩」

「ええ。優希くんには悪いけど、今は石塚先生もエリちゃんも、そっとしておいてあげて」

「分かりました」


 僕は素直に回れ右をした。


         ※


 嵐山先輩は、僕を――もしかしたら風間先輩やエリのことを――待って、ずっとベンチで待機してくれていた。しかし僕は、どうやらそれは望めないということを告げ、結局二人共帰ることになった。


 校門で先輩と別れた僕は、その足で精神科へ向かった。

『原田メンタルクリニック』――隣街、すなわち都会の方の街路に入り、少し駅の方へ歩くとその看板が見えてくる。

 今日は平日ということもあって、だいぶ空いていた。


「春島優希様~」

「はい」


 穏やかな原田ドクターの声に吸い寄せられるようにして、僕は診察室の扉へ向かった。


「やあ、春島くん」

「こんにちは、原田ドクター」


 僕は慣れた挙動で鞄を隅の籠に置き、そっと丸椅子に腰かけた。


 原田雄一ドクター。浅黒い顔に、人好きのする大きな目と白い歯が眩しい。直接尋ねたことはないけれど、四十代前半といったところか。

 そうか、もう二年近い付き合いになるのか。診察室奥のカレンダーを見ながらぼんやりしていると、


「まだお薬は切れていないはず、だね?」

「あっ、はい」

「ということは、何か相談事があって来てくれたわけだ」

「ええ。結構複雑な話なんですけど――」


 僕は自分が知りうる限りのことを話した。

 竹園エリとの出会い。

 周囲の人の気配り。

 しかしそれでもこじれてしまった人間関係。

 そして――学校屋上でのフェンス損壊事件。


「よく話してくれたね。特に、学校のフェンスの件については」

「大丈夫です。僕がドクターにこんな話をするのって、初めてじゃありませんから」

「それでも度胸の要ることだよ。いや、本当によく話してくれた」


 僕は少しばかり恥ずかしくなって俯いた。

 

「これは投薬よりも、考え方や心の在り方を話した方がいいね。今日はカウンセリングに時間を使おう。幸い空いているしね」


 そう言って、ドクターは小さくウィンクした。

 それからしばらく、と言っても十五分ほどだったと思うが、僕とドクターはじっくりと話を詰めた。


「お大事にどうぞ~」


 受付のお姉さんの声に軽く背を押されるようにして、僕はクリニックを後にした。

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