第19話

「優希、くん?」


 僕ははっと我に返った。僅かに顔を近づけてくるエリの甘い香りに。

 今目の前にいるエリは、一転して不安げに口元を歪めている。


「ごめん、ちょっと寝不足でぼーっとしてたんだ」

「なあんだ、そっか」


 再び笑顔を見せるエリ。考えてみれば、よくもこれほどコロコロと表情を変える人間は少ないのではないか。飽くまで『日本人にしては』という条件はつくけれど。


「じゃあ、更衣室まで案内するから。ついてきて」


         ※


 階段を下りながら、僕は天文部の活動に着いて説明をした。


「普通の部活動は午後六時くらいに終わるんだ。運動部でも七時くらい」

「でも、まだ明るい時間帯だよね。私たちの活動は?」

「本格的には、七時半くらいからかな。だから帰りは一番遅くなっちゃうけど」

「だから放課後は、他の部の活動を手伝う。そうだったよね?」

「そうそう」


 などなど話す間に、僕たちはグラウンドに出た。外周を回るようにして、あるプレハブ小屋の前で立ち止まる。

 女子更衣室のドアの前でノックをしてみたが、


「あれ? 風間先輩?」


 まだ来ていないのだろうか。そっと把手に手をかけてみたが、鍵はかけられたままだ。

 僕は隣のプレハブの前で、


「嵐山先輩?」


 と何度か呼んでみたが、こちらも反応はない。施錠もされたまま。

 どうなってるんだ?


 すると背後から、


「おーい、優希! エリちゃん!」

「あ、嵐山先輩!」


 僕は大きく手を振った。


「どうしたんだよ、電話にも出ねえで何やってる?」

「帰りのホームルームが終わるまでは、スマホの電源切ってるんですよ」

「たった今電話したってのに!」

「すいません、マナーモードで」

「あーったく!」


 嵐山先輩はガシガシと頭を掻いた。一昨日の金髪は見事に黒髪に戻されている。


「こんにちは、嵐山先輩」


 会話の合間を縫うように、エリが頭を下げた。


「やあエリちゃん! ごめんねえ、優希のアホが電話に出ねえもんだからさあ」

「あ、いえ。私は優希くんにくっついていくだけですから」


 瞬間、冷たい風が僕と嵐山先輩の間を吹き抜けた。


「お、お前ら、いっ、いつの間にそんな仲に……! この俺を差し置いてっ! 俺は明日からどうやって生きていけばいいんだあーーーっ!」

「先輩、誤解しすぎです! 僕たちは石塚先生の指示にしたがっているだけで……!」


 嵐山先輩は、喚いたり叫んだりしながらゴロゴロ転がった。


「大丈夫ですか、嵐山先輩! 制服が砂だらけですよ!」


 すると、一歩引いて見ていたエリは先輩に手を差し伸べた。


「ぐすっ……。あ、ありがとう、エリちゃん……。俺も涙もろくなっちまってなあ……」


 と言いつつも、嵐山先輩は悪ふざけすることなく、そっとエリの手を取った。


「日本では、男子は学ランっていう制服を着てるんですよね? 一着しかないんでしょう? こんなに汚したら、ご両親に叱られますよ」


 的を射たことを言いながらも、やはりエリはマイペースだ。パンパンと先輩の学ランを軽く叩き始める。

 僕はちょっとした嫉妬感を覚えた。単純に、僕が懇意にしている女子の注目を浴びている先輩が羨ましかったのだ。まあ、これは好きな女子がいる時はよくあることだろう。ジト目で先輩を睨みつけるくらいで、僕は我慢した。


 すると、校舎の方から誰かの駆けてくる音がした。言い換えれば、音がするほどの勢いで誰かが駆け寄ってきた。


「あ、風間せんぱ――」


 と言いかけた僕の前で、嵐山先輩に強烈な跳び蹴りが浴びせられかけた。


「ぐおはぁ!!」

「あ、また砂だらけになっちゃった……」


 ぼんやり呟くエリを無視して、風間先輩は


「こんの馬鹿亮介!!」


 と、グラウンド中に響くような声で怒鳴った。


「石塚先生に呼ばれて、あんたが優希くんたちに直接伝えに行くって言い出したんじゃない! いつまでかかってんのよ!」


 嵐山先輩の胸倉を掴み、風間先輩は揺さぶりをかけた。

 ガクガクと揺れる嵐山先輩の頭部。


「き、京子、し、死ぬ……」

「本気で殺すわよ!?」

「うげ……」


 嵐山先輩が気を失いかけているのを見て、


「す、すみません、風間先輩……」

「あん?」


 ギロリ、と眼球を動かす風間先輩。


「僕がスマホの電源切ってたのが悪いんですよ、嵐山先輩は何度も連絡してくれたのに……」

「でも呼びに行ってから十五分もかかってるのよ? これは亮介がふざけてるってことじゃない!」


 うーむ、反論できないなあ。


「優希、俺を哀れむ暇があるなら、京子を説得してくれ……」

「遠慮しておきます。僕も風間先輩の蹴りは怖いので」

「よろしい!」


 風間先輩は腕を組み、恥じることなくうんうんと頷いた。


 しかし、この中で唯一真面目に状況を見つめている人物がいた。


「優希くん、今日は星、見られないの?」

「え?」


 そういえば、先輩たちが僕たちに何を知らせに来たのかを聞いていない。


「ちょっと、風間先輩! コントはそのくらいにしておいてください! 今日は星、見るんでしょう?」

「あ、ごめん、まだ言ってなかったわね」


 風間先輩は、嵐山先輩をポイと投げ捨てた。


「ぶは!」

「まあ、この馬鹿には少し眠っててもらって……。で、今日の話だけど」


 風間先輩はエリを真っ直ぐに見て、顔をしかめた。と言っても、それは不快さを表すのではなく、謝罪の念を素直に打ち出したものだ。


「ごめんね、エリちゃん。今日からしばらく、屋上は使えないのよ」

「えっ……」


 エリは一歩、風間先輩に歩み寄って、


「どうしてですか? 屋上で何かあったんですか?」

「事故があったみたいなの。ちょっとね」


 僕は風間先輩に目配せしたが、先輩は気づかなかった。どうやら、僕がフェンスを半壊させたことを、エリに伝えるつもりはないようだ。


「で、でも!」


 僕はエリを援護すべく、口を挟もうとしたが、


「校庭じゃできないわよ、天体観測なんて」


 先輩にバッサリ言われてしまった。


「あんな重い天体望遠鏡、持ち運びは難しいわよ。屋上のロッカーから出してそばにセットするだけ、ってわけにはいかないんだから」

「は、はい……」

「それに、こんな埃っぽいグラウンドじゃね……。どうしようもないわ」


 そこまで言われてしまっては、また反論のしようがない。

 しかし、僕にはどこか、『誰かの意図が働いている』感じが拭いきれなかった。

 石塚先生か? あるいは、先生に働きかけた僕の両親か? はたまた、昨日の僕の暴力行為を隠そうとしている風間先輩か?


「エリさん、ちょっと」


 僕は手招きしながら、エリを呼びつけた。


「待てっ、優希! エリちゃんは皆のアイドル――」

「あんたは寝てろ!」

「げふっ!」


 嵐山先輩は、風間先輩に背中を踏みにじられた。

 その光景を僕が呆然と眺めていると、


「私、地獄耳じゃないから。何かあるんだったらこの馬鹿が起きないうちに行ってきて、優希くん。エリちゃんと話があるんでしょ」

「あ、ありがとうございます……」


 僕が頬を引きつらせて頷く横で、エリは


「ありがとうございます!」


 と曇りのない笑顔で頭を下げた。


「じゃ、じゃあ行ってきます……」

「ごゆっくり~」


 僕はなんとか笑顔を取り繕った。


         ※


 僕たちはサッカー部のロッカーの後ろにやって来た。


「で、どうしたの、優希くん?」

「エリさん、石塚先生から聞いてると思うけど」


 僕は制服のズボンで手汗を拭きながら、


「僕はエリさんをサポートするように言われているんだ。だから僕と同じ、天文部に入るようにと先生に促されたんだよね?」

「うん」

「そこで一つ質問なんだけど、エリさん自身はどう? 天体観測に興味があるの?」

「そうだね……」


 エリは顎の下に指先を当てて考えた。


「石塚先生の勧めで、興味を持ったの」

「じゃあ、今は星を見たいと思ってるんだね?」

「うん!」


 今度は元気よく、エリは頷いた。


 同時にチクリと、僕の胸に鋭い痛みが走った。

 僕があんな暴力に走らなければ、今日から天体観測ができたはずなのだ。


「ごめん、エリさん」

「どうして優希くんが謝るの?」


 彼女の丸い、大きな瞳を前に、僕は何も答えられなくなった。

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