第18話

 翌日。


「おはよー、春島」

「優希、ういーっす」

「春島くん、お疲れー」

「……」


 皆が声をかけてくれる。ありがたいことだ。しかし、僕は俯いたまま沈黙していた。


「おい、体調悪いのか、春島?」

「え? ああいや。大丈夫だよ。ちょっと考え事をね……」


『あんまり一人で抱え込むなよ』とはクラスメートがくれた一言。これまたありがたいお話ではあるが、まさかエリの自傷行為のことを打ち明けるわけにはいくまい。

 これは僕と、エリの問題だ。互いの両親ですら、介入の余地はない。

 下手をすれば、命を懸けてでも臨まなければならない『戦い』なのかもしれないな……。


「……くん」

「……」

「優希くん?」

「お、おう!?」


 僕は慌てて顔を上げた。すると目の前に、順二の顔があった。じっと覗き込まれていたらしい。


「ああ、順二……」

「おはよう、優希くん。何かあったのかい?」

「な、何かって?」


 どこか探求心を含んだ順二の視線に、僕はたじろいだ。


「だって優希くん、本も読まずに予習もせずに、ずっとぼんやりしてるから」


 流石、幼馴染みだけあってよく僕を観察している。

『何でもない』と門前払いを喰わせるのも抵抗があったので、エリのことには触れずに、かいつまんで昨日のことを説明した。要は、やけっぱちになって午後の授業をサボったということだ。


「まあ、そういう日もあるよね。僕だって、部活に行きたくないな、って思うことはあるもの。特に朝練のある日はね」


 自分の席に座りながら、語りかける順二。僕の言動に驚いたり、まして非難したりするわけでもない。納得と同情を示してくれている。順二にしかできない芸当だと言ってもいい。


「それがさ、あの……」


 僕は声のボリュームを落とした。


「屋上のフェンスを壊しちゃってね」

「え? 誰が?」

「僕が」

「ほう?」


 これには順二も驚いたらしく、両眉を吊り上げた。


「蹴りつけていたみたいなんだ。あんまり記憶にないんだけど」

「ああ、そういうこともあるよね」


 再び同感の意を表する順二。彼は僕の病気のことを知っているから、『記憶にない』という僕の言葉に納得してくれた。怒りに駆られていると、僕は記憶があやふやになってしまうのだ。

 額を突き合わせ、僕と順二が語り合っていると、


「おはよう、優希くん。おはようございます、小河くん」

「やあ、エリさん!」


 順二はぱっと目を逸らし、立ち上がってエリを迎えた。分かり易い奴だ。


「もう学校には慣れた?」

「うん。優希くんがこの前案内してくれたから」

「あ。そ、そうか……。うん、それならよかった」


 見上げると、順二は僅かに頬を引きつらせていた。確かにショックだったのかもしれない。こうもあからさまに、エリに僕との親密度を示されてしまっては。

 しかし、順二もただ惚れっぽいだけではない。根は真面目で冷静な奴だ。『僕も優希くんと一緒に、エリさんのお世話をさせてくれ!』などとは言わない。


「あ、そうだ。優希くん」


 教科書を自分の机に仕舞ったエリが、振り返って僕を見た。

 

「さっき廊下で、風間先輩に会ったの。今日から本格的に部活をやるから、是非来てくれって。優希くんも来るよね?」

「うん。嵐山先輩が暴走しないようにね」


 エリは口元に手を遣って、くすくすと笑みを漏らした。

 ちょうどその時、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。皆が三々五々、自席に着く。しかし、


「おっと、今日は清美ちゃん遅刻かな?」

「へー。珍しいことがあるもんだ」

「あれ? さっきは職員室で見かけたけど」


 軽くざわつく教室。しかし、それも一分ほどのことだった。

 がらり、とドアがスライドし、石塚先生が入ってきたのだ。が。


「おはようございます、皆さん。朝のホームルームを始めます」


 冷たいざわつきが、先生を中心にぶわっと広がり、消えた。

 今の石塚先生は、いつもの活気ある態度ではなかった。目の下には隈ができ、声はやや掠れ、顔も俯きがちだ。

 すると、教室の窓側からガタン、と音がした。ムードメーカーの男子が、周囲のクラスメートに羽交い絞めにされている。ああ、きっとまた何か先生をおちょくろうとしたのだろう。

 そんな空気を読まない言動は、少なくとも今はまずい。周囲が察して、彼を取り押さえたようだ。


 石塚先生は、ごく淡々とホームルームを行った。特別な連絡事項もなく、チャイム前に終わってしまった。いつもなら、生徒と一緒になって場を盛り立て、『お前ら今日も気を抜くなよー』とか言い残すものだが。


 先生の退出後、二年B組はわっと沸いた。やはり先生に何かあったらしいということは、皆が理解するのに十分だった。

 心配の声が、あちらこちらから聞こえてくる。だが、僕はその原因を知っている。

 昨日、僕が器物損壊行為に走ったからだ。エリから聞いたように、両親が慌てて外出しようとしていたこととも辻褄が合う。石塚先生は、僕の両親を呼び出して話をしたいと思ったのだろう。が、僕の両親のことだ。きっとモンスター・ペアレントのような振る舞いをしたのではないか。

 そして先生の精神力が、ごっそり削られてしまった。想像には難くない。


 僕は両の掌を開いたり閉じたりして、それから額に手を遣った。

 最近、ため息をついてばかりだな。我ながら、僕は呆れてしまった。


         ※


 今日は、石塚先生の担当する地学の授業がなかった。これで帰りのホームルームまで、先生と顔を合わせずに済む。

 と言うと何だか失礼な気もするが、僕としても良心の呵責というものがある。僕のせいで先生が精神的に参ってしまったとなれば、責任を感じずにはいられない。

 だからこそ、僕は『自分を責めすぎる』などと言われたりするわけだが。


 エリはいつも通り振る舞っていた。『いつも通り』といってもまだ転校してきて一週間と経っていないけれど。まあ、あまり細かいことを気にし過ぎないところが彼女の順応性を上げているのだろう。


 そんなこんなで、帰りのホームルームはあっという間にやって来た。先生の顔色も、朝よりはまだマシになったように見える。

 先生は、特に連絡事項はないと告げて早々にホームルームを終わらせた。外はまだ明るい。


 帰りの挨拶が済んでから、僕はエリに声をかけた。


「エリさん、今日は夜も晴れるみたいなんだ。天文部、来るかい?」

「うん! その前に、今日はどんな部活の手伝いをするの?」

「えーっとね、確か……」


 僕はスマホを取り出し、スケジュールに目を通した。


「ボランティア部のゴミ拾いの手伝いだね。ジャージに着替えた方がいいと思う」

「え?」

「あ、もちろん教室で、じゃないよ!」


 僕は慌てて左右に首を振った。人が散ってきているとはいえ、いつ誰が来るか分からない教室で『着替えろ!』というわけにはいかない。


「ボランティア部の更衣室があるんだ。案内するよ。風間先輩も来てるだろうし」

「ありがとう」


 エリは見慣れた、しかし見飽きることのない穏やかな笑みを浮かべた。

 それを見て、僕はごくりと唾を飲み込んだ。

 

「じゃ、じゃあ、まずは、えっと、一階に下りようか。わ、忘れ物は、ない?」

「大丈夫だよ」


 するとエリは軽く首を傾げた。僕が緊張し、どもっているのが気になったのかもしれない。


 待てよ。何故僕が緊張しなければならないんだ?

 昨日いろいろあって、疲れたとかだるいとか、そういう心境なら分かる。

 それが、緊張だって? しかもこれは、かつて僕が一度味わったことのない類の緊張だった。


 恋愛経験がないわけではない。エリは美人だし、仮に僕が微かな恋心を抱いても不思議ではない。だが、そんな簡単に説明できる緊張ではないのだ。


 強いて言えば――砂漠の真ん中、大海原、無限に広がる宇宙空間、とにかくどこでもいいが――、広大な場所で唯一の『仲間』を見つけた、という切なる希望だ。だから嫌われないようにしなくてはならない、という逼迫した想いだ。さらに言えば、自分が死んでもこの『仲間』は守らなければならないという使命感だ。

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