第17話

 結局、エリが伯父夫婦の家にいた時間は三十分にも満たなかった。

 伯父さんも伯母さんも、エリの来訪が遅くだったこともあり、これ以上引き留めようとはしない。僕は伯父さんに言われた通り、エリを送るべく外に出た。


「うっ、寒いな……」


 僕が白い息を自分の掌に当てていると、エリは


「ごめんね、優希くん」

「あ、ああ……」


 確かに、エリの挙動によって僕が狼狽したのは事実だ。しかし、それが何故謝ってもらう理由になるのかよく分からなかった。

 エリは、リストカットをしたことがある。否、現在進行形で『している』のかもしれない。

 一人暮らしということもあり、ご両親と上手くいっていないのだろうかと僕は想像した。

 仮にそうだとすれば、思ったよりも僕の境遇と似ている。しかし、それを尋ねるにはまだ早いだろう。エリにはまだ分からないかもしれないけれど、それが日本人の『察し』みたいなものだ。


「今日はありがとう。プリント持ってきてくれて」

「どういたしまして」


 僕の謝辞に、エリは少し落ち着きを取り戻したらしい。

 二人で街灯の下を歩いていく。


「お陰で明日……じゃなくて日付が変わったから今日か。三時間目の社会で指名されても大丈夫だ」

「ふふっ」


 軽く笑みを浮かべるエリ。その左腕には、既にスカーフが巻き直されている。


「ところでエリさんは会ったのかい?」

「誰に?」

「いや、その……」


 僕が想定していたのは、エリがプリントを届けに僕の『一軒目の』実家に出向いたということだ。そこで、恐らく出会っただろう。僕の、両親に。


 僕が思案顔をしていると、


「ああ、優希くんのお父さんとお母さん? いい人たちだね」


 やっぱりな。僕は無意識のうちに、皮肉な笑みを浮かべていた。


「ど、どうしたの、優希くん?」

「ああ、いや。親父もお袋も上手いこと取り繕ったな、と思ってね」


 エリは『親父』が父親を指す俗語だと知っていたが、『お袋』は知らなかった。


「母親のことだよ。不良がよく使うんだ」

「そうなの?」


 ちょうど街灯の真下に、エリは佇んだ。


「優希くんは、不良なんかじゃないよ」

「さあ、どうだか」


 僕は影の中で肩を竦めた。

 君は僕の本性を知らない。僕が何をしていたのか分からない。何を思っているのかも、考えているのかも。

 そう言いたいのは山々だったが、エリに妙なギャップを見せつけるような真似はしたくなかった。


「僕は普通の高校生でもなければ、まともな人間でもない。どこか頭のネジが狂ってるんだ」

「そんな! 優希くんはいい人だよ!」

「!?」


 その言葉に、僕ははっとして顔を上げた。


「だって、私の面倒をずっと見てくれたじゃない! 優希くんはいい人だよ!」


 繰り返された『春島優希善人説』。

 しかし僕は、それを肯定する自信も、否定する根拠も持ち合わせてはいなかった。


 そこまで考えてから、僕は一つの疑問にぶち当たった。


「エリさん、どうしてこんな遅い時間にプリントを持ってきてくれたの? 僕の両親に会ったのなら、教えてもらえばよかったのに」

「探したんだよ、優希くん」


 今度は僕が立ち止まった。


「探した? 僕を?」

「うん。ご両親に『まだ帰ってない』って言われたから」


 何てこった。僕がジュース片手に読書をしたり、映画館でカーチェイスを満喫したりしている間に、エリはこの街をずっと一人で歩き回っていたというのか。

 いや、待てよ。


「親父もお袋も言わなかったのか? プリントは預かっておくから、後で僕に渡すって。だから君は帰っても構わない、って」

「ううん、言われなかったよ。それに、どこか困っている様子だったから、私の方から『優希くんに渡してください』って言いづらくて。慌てて出かける用意もしているようだったし」

「出かける用意?」


 親父もお袋も、どこに行こうとしていたんだ?


「ちょっと迷ったんだけど、どうしたんですか、って訊いてみたの。そうしたら、お母さんが『優希に関わるな』なんて突然言い出して……」


 何だって? せっかく息子のためにプリントを持ってきたクラスメートに『関わるな』だと?


「でもさっき言ったじゃないか、エリさん。僕の両親はいい人だったって」

「ごめんなさい、ご両親のことを悪く言ったら、優希くんに申し訳ないと思って……」


 つまり、エリは僕の両親に適当にあしらわれた、ということか。

 あいつらめ。エリをこんな目に遭わせて……。

 恐らく、僕が屋上のフェンスを破壊したことについて、学校から呼び出しを喰ったのだろう。僕が精神疾患を抱えているとはいえ、いや、だからこそ器物損壊が問題視されたのかもしれない。

 反省した。しかし、後悔はない。あの時、屋上に座り込んでいた僕に『暴力を振るうな』とは、僕自身も言えない。誰にも言われる筋合いはない。

 だが、それが両親の外出に関わり、挙句エリに課せられた『僕にプリントを届ける』という仕事を妨害したのは事実であるらしい。


「僕の両親は言わなかったのか? 僕が伯父さんの家にいるってことを?」

「うん。プリントくらい、明日学校で渡せばいいだろうって」


 カチン。


 僕の脳内で、何かが打ちつけられた。それはあたかも、石をぶつけ合って火を起こす感覚に似ていた。


「優希くん?」

「エリさん、悪いけどここで別れよう。僕は両親に話がある。それじゃ」

「え、待って、優希くん!」


 許せなかった。エリの努力と善意を踏みにじった両親が。今なら流石に帰宅しているだろう。一言言ってやる。いや、一言で足りるとは思えない。最悪、殴り合いにしてでも謝罪の言葉を吐かせてやる。


「待って、優希くん!」

「何だ、エリ!!」


 僕は勢いよく振り返った。咄嗟に彼女を呼び捨てにしてしまったが、今は些末なことだ。

 黙っていろ。邪魔をするな。僕は、僕は……!

 言いたいことはたくさんある――はずだった。


しかし、僕がエリと目を合わせた瞬間、その『たくさんのこと』は一斉に鳴りを潜めてしまった。


「止めてよ、優希くん!」


 その時、エリの瞳には、なんとしてでも僕を引き留めようという強い意志が見て取れた。

 簡単に言えば、そのエリの芯の強さに押され、僕は『家庭内暴力』ということを思いとどまったのだ。


「暴力で物事を解決しようとするなんて、優希くんらしくない!」

「君に僕の何が分かる?」

「優希くんは、私に優しくしてくれた。だから暴力なんて低俗な手段に頼ることなんてないんだよ!」


 そんな理論、滅茶苦茶だ。相手によって態度を変えるのは、人間として当然のこと。誰に優しく接し、誰に手を上げるか。それは僕にしか決められないはずだ。

 それでも、エリは強かった。その潤んだ瞳が。ぎゅっと結ばれた唇が。爪が食い込みそうなほどに握りしめられた拳が。


「……参ったな」

「え?」

「やっぱりちゃんと送るよ、エリさん。そうしたら、僕は伯父さんの家に帰るから」

「本当?」

「エリさんに嘘はつかないよ」


 自然と零れた言葉だった。だがその時には、僕にとっての竹園エリは『ただの友達』ではなかった。


「もしかしたら――」


 そう。もしかしたら、彼女は僕の悪夢を終わらせる希望のようにすら思われたのだ。


「どうかしたの?」


 急速に冷静さを取り戻していく僕の姿が、エリには不可解なものに見えたらしい。


「それより、こんなに寒いと湯冷めしそうだ。早く行こうか、エリさん」


 エリはしばらくぼんやりと僕を眺めていたが、


「うん。うん!」


 エリは笑顔を浮かべた。僕にはそれが、随分久しぶりに見た向日葵のように見えた。季節外れ甚だしいけれど。

 自分がどんな顔をしていたかは分からないけれど、素直な表情ではあったのだろうと思う。僕はエリをマンションのエントランスまで送り、駆け足で伯父さん宅へ向かった。

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