第16話
「誰かしら、こんな時間に……」
来客があったらしい。僕にはインターフォンは聞こえなかったが、パタパタと伯母さんがリビングを出ていく足音がした。
パジャマの上着から頭を出し、脱衣所の時計を見る。もう午後十時半だ。
「待て待て、わしが出る」
「どうかしたの?」
「こんな時間に、物盗りかもしれん。お前は下がっていろ」
伯父さんの慎重さは前から知っていた。だが、万が一にも本物の強盗の類だったら大変だ。
僕はそばにあったモップを手に取り、素早く廊下に出た。ちょうど伯父さんがインターフォンに向かうところだった。
「夜分に何用かね?」
油断ない口調で、伯父さんが受話器に吹き込む。すると向こうから聞こえてきた声に、僕は驚いた。
《わ、私、春島くんの友達の竹園エリといいます! 授業のプリントを届けに来ました!》
「そ、そうでしたか! これは失礼!」
伯父さんは一気に緊張感を解いた。
「こんな遅くに誰かと思って、心配してしまってね。優希の友達なら安心だ。今鍵を開けるから、ひとまずお上がりなさい」
「ちょっとあなた、こんな遅い時間に……」
伯母さんがそばに寄って来て、伯父さんに異を唱える。
しかしエリは、いわゆる日本人の『察し』というものが苦手だ。
《ありがとうございます! お邪魔します!》
と、何の躊躇いもなく、声に喜色を浮かべてそう言った。
「あ、伯父さん、僕が出ます」
「うむ」
「優希くんにガールフレンドがいたなんてねえ……」
「伯母さん、勘違いを招くような言い方は止めてもらえます?」
先ほどまでの警戒心はどこへやら。伯母さんもエリを招き入れるのに抵抗がなくなったらしい。まあ、正直僕も安心はしたのだけれど。
自分のスリッパをつっかけ、玄関へ。ドアを開けると、
「こんばんは。優希くん」
「や、やあ、エリさん」
「まあまあ、画面で見るよりずっと美人さんじゃない!」
相変わらず伯母さんは茶々を入れてくる。けれども、僕には意外とそれが不快ではなかった。
エリは『お邪魔します』と綺麗に頭を下げて玄関をくぐった。来客用スリッパを出してくれた伯母さんに礼を述べることも忘れない。それでも、ところどころ謙遜や遠慮をしないところを見ると、確かに純粋な日本人ではないのだな、と思わされる。
「申し訳ないのだけれど、二階の優希くんの部屋に上がってもらえます? 一階ではもう主人が――」
「いや、これはどうも!」
リビングから顔を出した伯父さんは、既に晩酌モードに入っていた。これでは確かに一階は使えない。
「ええと、竹園さん?」
「はい」
「あんたのお父さんやお母さんは? 心配してるんでねえのかい?」
酔うと田舎弁が出るのが伯父さんの癖だ。
「大丈夫です。私、今一人暮らしをしているので」
「そうかい! まあ、帰りは優希に送らせるから、ゆっくりしていったらええ」
「ありがとうございます」
また綺麗なお辞儀をするエリ。
もしかしたら、僕のことを気遣ってのことだろうか? 自分が粗暴な振る舞いをすると、友達としての僕の立場がなくなると思ってのことか? いや、それはないか。そこまで考えるほど、エリは日本人らしくはない。
「こっちだよ、エリさん」
「うん。お邪魔します」
にこやかに僕たちの背中を見送る伯母さん。伯父さんはすでに引っ込んで、『母さん、おめえも一杯どうだ?』と声をかけている。
「はいはい。すぐにお茶持っていくからね」
「ああ、僕が取りに来ます」
そう言って、僕は制服姿のエリを二階に案内した。
※
「お待たせ、エリさん」
僕はほうじ茶と煎餅を何枚か載せた盆を持って、エリの待つ自室に戻ってきていた。
しかし、エリからの返答はない。エリは、部屋の左右の棚に並んだ書籍に目を奪われていたのだ。
「すごい量の本だね、春島くん!」
「そう?」
「そうだよ!」
僕に振り返るエリ。その顔は、軽い興奮のためか少しだけ紅潮していた。
「本って言ってもなあ……」
僕は無造作に手を伸ばし、棚から一冊の文庫本を手に取った。偶然にも、これから習うと言われている夏目漱石の『こころ』だった。
試しにエリに見せてみると、
「あ、これなら読んだことある!」
「本当に?」
僕は少しばかり驚いた。六年間も渡英していたエリが、日本の古典的な文学を嗜んでいたということが意外だったのだ。
「随分古い本だけど……」
僕の手の中にあるのはもちろん復刻版だが。
「昔の本の方が読みやすいよ。片仮名があんまり使われてないから」
「ああ、そうか」
エリのような帰国子女にとって、片仮名が厄介者であるということは聞いた覚えがある。
「じゃあこれは?」
「えっと……走れ、ム……あれ? メ?」
「これは『走れメロス』だよ。太宰治の」
「あー、そっかあ!」
僕たちはしばらく本棚を漁って楽しんだ。いわゆる『古典』が好きだという僕の趣向が、エリには馴染みやすかったようだ。ライトノベルは片仮名多いからなあ。
「それでね、エリさん。僕がすごいと思ったのは、芥川龍之介がこの時代に――」
と言いかけて、
「ど、どうしたの?」
ほんの今まで棚を見上げていたエリが、何故か俯いている。ぐっと息を飲む動作に僕が注目していると、エリはキッと目を上げて
「優希くん、見てもらいたいものがあるんだけど」
と、告げた。それは丁寧に頼み事をするようでいて、しかし緊張感溢れる様子だった。
空気の読み方は分かる。しかし、それからどうしたらいいのかは分からない。僕は黙って彼女を見つめた。左手首のスカーフを外す、竹園エリを。
止めろ。止めてくれ。
心の底から、僕は叫んだ。
そんなことを察するはずもなく、エリはするするとスカーフを外していく。
見たくない。そんなものは、もう見たくないんだ。
そんな挙動に走るのは――そんな過去を抱くのは、僕だけでいい。
それでもエリは手を止めなかった。僕に至っては、言葉で訴えることも、目を逸らすこともできなかった。
「ッ!!」
「きゃっ!!」
僕は咄嗟にエリの左腕に飛びついた。これ以上、彼女に見せられるわけにはいかない。左腕に、文字通り『刻まれた』ものを。
「離して! あなたには……優希くんには知っておいてもらいたいの!」
「もう十分分かったよ! だからもう……もう僕に、自分のことを思い出させるのは止めてくれ!!」
本棚にエリの背がぶつかる。
同時にスカーフがひらり、と床に落ちる。
エリの頭上から文庫本が数冊降ってくる。
それを防ぐため、僕はいわゆる壁ドンの要領でエリの頭部を守る。
僕はばらばらと落ちてくる文庫本から、エリを守りきった。
理由は分からない。しかし、僕もエリも息を切らしていた。
エリは呆然と僕を見上げ、左手首にかけた自分の右手を止めていた。それを見た僕は、ぱっと自分の右手でエリの左手を握り締めた。
「もういいんだ、エリさん」
「優希くん……?」
もう見下ろす必要もなかった。
僕の右の掌には、包帯の柔らかな感触が伝わってくる。
つまり、彼女は左手首を怪我しているということだ。それをわざと、二人っきりの場で見せようとしている。
ということは、つまり――。
「……自傷行為の痕なんて、僕は見たくない」
エリは目を丸くして僕を見つめていた。しかし僕は、そのサファイアのような瞳を一瞥した瞬間、目頭が急に熱くなってくるのを感じた。慌てて顔を逸らしたが、エリには気づかれてしまっただろうか? 涙を見せまいと必死だったのだけれど。
「優希くん、どうしてあなたにそんなことが分かったの……?」
「石塚先生から伝えられてはいたんだよ。君が精神疾患を患っているということは」
「だから優希くんは、私に優しくしてくれたの?」
優しかったかどうか自信はないが、僕は頷いた。
「マンションまで送っていくよ。もう日付も変わる頃だし、今日のことは忘れよう」
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