第15話
風間先輩から鞄を受け取った僕は、誰とも目を合わさずに昇降口を出た。『失礼しました』を何回か言ったかもしれないが。
学校のある緩やかな丘を下り、しばらく歩くと川沿いに出る。ガードレールを挟んで桜並木が続く、美しい通学路だ。
僕は冷却処理中の脳内メモリを気にしながら、何とはなしに桜を眺める。少しばかり心が楽になったような気がした。雲一つない青空に、白桃色の花弁がよく映える。
深呼吸をして、自分に暗示をかける。僕は大丈夫だ。落ち着いて、一歩一歩アスファルトを踏みしめていけばいい。
しかし僕は、投薬治療によって暴力衝動を抑えていたのだ。それなのに、さっきの僕は一体何をしていたのだろう? 屋上のフェンスを破壊し、心理的にとはいえ先生や先輩たちを責めたてた。せっかく気分障害が――嗜虐的傾向がマシになってきたと思ったのに。
自己嫌悪に駆られて再び何かに暴力を振るうのは簡単だ。けれど、今の僕の嗜虐心は落ち着いてきていたし、先生や先輩に申し訳ないという気持ちすら芽生え始めていた。それに、何かを破壊するような精神力は残っていない。
複雑な感情が、よく言えば相殺し合い、悪く言えばごちゃ混ぜになっている。ひどく混乱しているのだ。白いキャンパスに、バケツでいろんな色を出鱈目にぶちまけたように。まあ、自覚できているという点が救いではあるが。
ふと、僕の視界に黄色いものが入ってきた。列を成して、道路の反対側を向こう側からやって来る。幼稚園児の遠足のようだ。黄色い帽子に、水色の貫頭衣のような服を身に着けている。
「はい、線からはみ出さないようにね」
「ちゃんとおててを繋いでね」
「はーい、信号渡りますよー」
考えてみた。
僕にもあんな時期があったのだろうか? 自然に触れたり、空を見上げたり、興味のままに空想をしたり。
否だ。僕の心が叫ぶ。僕には、そんな自由が、権利が、幸せがなかった。
そりゃあストレートで私立の高校、それも進学校に現役で通えているのだから、幸せには見えるだろう。だが、それがいかに表面的な見方で、大人の都合に過ぎないことを、僕は実感している。
「くっ……」
思わず顔をしかめてしまった。慌てて顔を幼稚園児の列から逸らす。そして、この田舎には珍しいメインストリートへと足を向けた。少し贅沢をしてから帰宅しようと思う。
この街の雰囲気の切り替わりには、毎回驚かされてしまう。田んぼと畑の広がるアスファルトの道をしばらく歩くと、幹線道路に行き当たる。その向こう側には、近代的な街が広がっているのだ。
厳密には、その幹線道路が市の境目になっていて、地理的にも『同じ街』ではない。この街と隣街の政策方針が全く違うのだから仕方がないとも言える。
『向こう側』へ渡った僕は、まず一件の喫茶店の前に立った。『いらっしゃいませ』という上品な店員さんの声に導かれ、香味豊かな空間へと足を踏み入れる。一番奥の円形テーブルに陣取り、六〇〇円するフルーツティーを注文。すぐに鞄から読みかけだった文庫本を取り出し、僕はしばし時間の経過を忘れた。
※
ふらふらと映画館に入り、軽い目眩を覚えながら出てきた時には、既に月が煌々と輝いていた。腕時計を見下ろすと、午後の九時を指している。まあ、気分転換にはちょうどいいアクション映画だった。
シアタールームから出る。その時、僕は自分が制服姿であることに気づいた。平日に高校生が映画を見に来るというのも奇妙だと思ったが、今さらだ。
映画を観たことには満足していた。が、とにかく爽快感と迫力があったというだけで、中身はない。正直、一番考えさせられたのはエンドロールだった。
監督。キャスト。脚本。音楽。CG。撮影。特機。まあいろいろあるものだ。
規模の大きなアメリカ映画だったということもあり、エンドロールには数百人の名前が上がっていたが、彼らには一つ共通点がある。
彼らも僕と同じ『人間』であるということだ。極めて当然のことだけれど。
問題なのは、彼らも心の中に荒んだ『何か』を抱いているのではないか、という疑念。彼らは他の演出家や作家やカメラマンや俳優より優れ、他者を蹴落としてこの映画に携わったのだ。
考えてみれば、家で、学校で、さらには社会で、そんなことが起こっている。荒んだ『何か』を抱えながら皆が生きている。
そんな思いに至った瞬間、僕はくらり、と身体の重心が傾くのを感じた。慌てて壁に手をつこうとしたが、その先には若い男性がいた。彼の肩を突き飛ばすような形になってしまう。
「おい、何しやがる!」
「あ、す、すみません」
僕ははっとして謝った。
「ちゃんと前見て歩け、馬鹿野郎!」
僕は――酒を飲んだことはないけれど――、酔っぱらって千鳥足になったかのように、クラクラしながら家路に着いた。『二軒目の』実家へと。
※
インターフォンを押し込み、相手を呼び出す。
《はい。春島です》
聞こえてきたのは初老の女性の声だ。
「優希です。遅くなってすみません」
《あら、優希くん! 心配してたのよ、とにかくお入りなさい》
すると、屋内から誰かが近づいてくる気配がした。玄関扉の鍵がガチャリ、と音を立てる。
自分から手を伸ばし、ノブを捻ってドアを引くと、
「お帰りなさい、優希くん!」
インターフォンと同じ声がする。そこに立っていたのは、白髪で柔和な笑みを浮かべた女性だった。
「ただいま帰りました、伯母さん。伯父さんは?」
「今はお風呂。それより、お腹空いたでしょう? 今ハンバーグ、温め直すから」
「あ、すみません。明日の朝食でもいいですか? 今日はあんまり食欲がなくて」
「そう? 分かったわ」
僕は無理をして――というわけではないけれども、努めて笑みを浮かべた。
自室のある二階への階段を上ろうとすると、そのわきの奥の通路から
「おお、優希くん。お帰り」
「ただいま帰りました、伯父さん」
「こんな時間じゃ、まだ外は寒いだろう? 早く風呂に入るんだ。まあ、わしの後だからちと熱すぎるかもしれないが……」
「いえ、お構いなく。すぐに出ますから」
伯父さんはつるりと自分の頭部を撫でて、パジャマ姿でリビングへと進んでいった。
ここは僕の伯父の家だ。母の兄にあたる人物だ。昨日僕が帰宅した家、すなわち『一軒目の』実家から二ブロックほど離れている。まあ、大した距離ではないのだけれど。
どういうわけか。
それは、僕が通院している精神科のドクターの提案だ。僕は両親に育てられる過程で、幼稚園の時期からエリートコースを歩まされていた。小学校も、中学校も、ずっと勉強しかしてこなかった。いや、させてもらえなかったのだ。
そして、中学二年の頃に僕は『壊れた』。あまり思い出したくないことだが。
そこで精神科を受診したところ、両親が僕にとってのプレッシャー、否、脅威となっていることが明確に告げられた。これには両親も異を唱えることができなかった。何せ、相手はプロの心理学者なのだ。
そのあたりの分を弁える程度の理性は、両親にもあったらしい。
そこで提案されたのが、僕に『セーフハウスを設ける』という案だった。何らかの施設に入るのは僕にも抵抗があった。しかし、幸いにして伯父夫婦が近所に住んでいたのだ。
そういうわけで、僕は気分が悪い時は伯父夫婦の元に帰ることにした。早い話、両親の顔を見たくない時だ。
親孝行ならぬ、伯父伯母孝行しなければな――。
そう思いながら、僕は浴室から出て脱衣所へ。さっさと身体を拭いて、パジャマに着替える。持ってきていた薬の袋を開け、睡眠導入剤を手に取ろうとした、その時だった。
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