第14話

「……あたしが見る限りでは、平静だったわね」


 口元を押さえながら、先輩が答える。


「ただ、すぐに席を立ってしまったから……。どこかで独りになりたかったのかもね」

「そう、ですか」


 お前はまた人を傷つけた。

 お前はこの世の悪だ。

 お前など、さっさと消え去ってしまえばいい。


 そんな悪魔の囁きが、僕の鼓膜を内側から叩く。

 僕は一つ、大きな舌打ちをした。


「ど、どうしたの優希くん!?」


 先輩は驚きのあまり目を丸くした。『勤勉・健全』な僕の姿しか見ていないからだろう。そんな後輩が突然に舌打ちなどしたら、驚きに値するのかもしれない。

 僕はずばり、意地悪く尋ね返した。


「先輩、何を驚いているんですか?」


 不敵な笑みを浮かべたつもりだったが、どう見えたのかは風間先輩しか知らない。

 一つ確かなのは、先輩がひどく狼狽したということだ。


「僕だって人間です。機嫌の悪い時だってありますよ。それが言動に出てしまう時もね」

「そ、そう……。そうよね。そんな日もあるわよね」


 僕は駄目押しに、大きく首肯してみせた。『仰る通りです、先輩』と言葉を添えながら。


「風間先輩」

「何?」


 いつにもなく、怯えた表情を浮かべる先輩。


「少し僕から距離を取った方がいいかもしれません。暴れ出す可能性がありますから」

「優希くん……」

「探す手間をおかけしてしまって、失礼しました。後は自分一人で対処します」

「分かった。ごめんなさいね、邪魔して」

「いえ」


 先輩は軽く頭を下げて、弁当を一旦仕舞ってから、すぐに屋上を後にした。

 その足音がだんだん遠くなるのを意識して、僕は屋上を横切った。ちょうど、グラウンド側のフェンスから体育館裏側のフェンスに向かうように。

 

 それからのことは、よく覚えていない。気づいた時には、目の前のフェンスが大きく歪み、捻じれてしまっていた。また、制服もあちこちが汚れ、破けてしまっている部分もある。

 もし僕が同じ動作を繰り返していたとすれば、それは『フェンスを蹴りつける』行為だったのだと思う。だがそれも、慌てて駆けつけた体育教師と石塚先生、それに嵐山先輩と風間先輩に取り押さえられるまでだった。


 はっとした。


「僕は、一体何を……?」


 よろよろとフェンスから離れる。


「落ち着け、春島!」

「もう大丈夫、大丈夫だぞ!」

「取り敢えず深呼吸しろ!」


 いろんな声が僕を取り巻く。しかしその時の僕には、既に攻撃衝動は残っていなかった。


「話をしよう。な? 春島」


         ※


 連れて行かれたのは、生徒指導室だった。

 今、通常の教室と同じ広さのこの部屋には、中央に机が二つ置かれている。片方には僕が、もう片方には対面する形で体育教師が座っている。

 さらにその奥には、石塚先生と先輩二人が俯きがちに立っていた。


 体育教師は、まだ若く彫りの深い顔に困惑を浮かべつつ、


「春島、最初に言っておくが、俺たちはお前を責める意志はない。話を聞きたいだけなんだ。それは信じてほしい」


 僕はこの先生には好感を抱いていた。僕のような体育の苦手な生徒にも、真摯に接してくれるからだ。しかし今、僕は口を閉ざしたまま、警戒心むき出しで彼と相対している。腫物に触れるような先生の態度は、完全に僕の警戒心の前に飲み込まれていた。


「何があったんだ?」

「よく分かりません。僕は病人ですから、病気の発作でしょう」

「それで暴力行為に走ってしまうものなのか?」

「そういう場合もあります」


 そうか、と呟いて、体育教師は立ち上がった。そもそも彼は部外者だ。僕を押さえつけるために動員されてきたにすぎない。

 代わりに対面したのは、石塚先生だった。僕は先ほどの怒りがまた湧いてくるような気がして、上目遣いで先生を睨みつける。しかし、そこにいたのはいつもの先生ではない。白い顔をして目に涙を浮かべた、一人の女性に過ぎなかった。

 

 沈黙が、指導室内を圧迫する。胸が悪くなるような、プレッシャーを伴った沈黙だ。沈黙というものが、これほど人に緊張感を強いるものだとは知らなかった。その時、


「優希くん、何か言ってよ」


 声を上げたのは風間先輩だった。先ほどの僕の言動を見て、少しは耐性ができたらしい。嵐山先輩に肘で小突かれながらも、


「あなたが話してくれないと、あたしたちもどう接したらいいのか分からないのよ」


 と、勇敢にも言葉を続けた。

 途端に、僕の心にある感情が生まれた。

 嗜虐心だ。

 今、この部屋にいる誰もが、僕の言動一つ一つに踊らされている。いつもいつも、僕より目上だった人間たちが、だ。


 僕は俯き、誰にも顔を見られないようにしながら唇を歪めた。今ここで『ざまあみろ』と叫ぶことができたら、どんなにスッキリするだろう。まあ、そこまでの出来過ぎた状況は求めてはいないけれど。

 笑みを引っ込めた僕は、腕時計に目を落とした。現在、午後一時二十分。授業は始まっているはずだが。


「先輩、お二人は教室に戻らなくていいんですか?」

「なっ!」


 思わず、といった風で目を合わせてきたのは風間先輩だった。


「人の心配も知らないで……!」

「おい、京子!」


 咄嗟に嵐山先輩が手を伸ばす。しかし、


「離して!」


 その手は呆気なく振り払われる。ずかずかと前進し、石塚先生のわきに立った風間先輩は、


「何か喋ってよ、優希くん!!」


 廊下にまで響くような声で、


「あなたの暴走を止められるのは、あなたしかいないのよ!?」


 強引に僕の肩を掴む。


「ねえ、聞いてる!?」


 そのまま僕を揺さぶったが、僕はまた俯くことで回答を拒否した。流石に人様に手を上げる勇気はない。揺られるがままになっている。


「待って、風間さん」


 声を上げたのは石塚先生だった。その一言は、すっと場を鎮めた。


「おい、京子」


 嵐山先輩の声がする。風間先輩もまた落ち着いたのか、素直に僕に背を向けて引き下がった。

 タイミングを計ったかのように、石塚先生は顔を上げた。


「春島、悪いが今日は一人で帰宅してもらえるか」


 椅子をずらして姿勢を正す石塚先生。


「自分でも分かるだろう? 今の自分が、竹園のそばにいるのは危険だ、ということは」

「……ええ」


 俯いたまま、僕はしっかりと頷いた。


「午後の授業の先生方にはあたしから話しておく。必要があれば、プリントも誰かに届けさせる。小河なら構わないか?」


 再び頷く僕。しかし、何故かその時、僕には順二の顔が思い浮かばなかった。幼馴染みなのに、おかしいな。ああ、そうか。今の僕の頭のメモリが、熱暴走しているのだ。俯いたままでは、この部屋にいる人々の顔すら忘れてしまいそうだ。


 先生は後ろを振り返り、


「風間、二年B組に行って春島の鞄を取って来てくれ」

「はい」

「嵐山、一発芸」

「はい。……え?」


 颯爽と指導室を出ていく風間先輩を見送りながら、嵐山先輩はポカンと口を開けた。自分の鼻先を指さしながら


「お、俺っすか?」

「ああ。場を和ませろ」

「どんな無茶振りっすか!」

「得意科目だろ?」

「んな科目あるか!」


 すると石塚先生は顔をこちらに戻し、やれやれと首を左右に振った。


「ガッツのない男だな。だから風間に振られたんだ」

「ぶふっ!?」


 嵐山先輩は腹部を押さえて後ずさった。


「清美ちゃん……効果は抜群だよ……」

「教師をちゃん付けで呼ぶ生徒があるか、馬鹿もん」


 その時、僕は不意に涙が浮かんできた。

 理由は分からない。何故? 一体どうしたというのだろう? 正体の掴めない、生温かい何かが僕の背筋を這い上がってくる。

 これは僕の直感に過ぎないけれど、僕が職員室で怒鳴り散らした後の石塚先生も同じ気持ち、同じ感覚を味わっていったのではないか。

 何かを人に訴えかけられて、感情的な動揺が大きくて、どうしようもなくなって――。


 僕が涙を見られまいと、必死に堪えていたその時、ノックと共に風間先輩が戻ってきた。

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