第12話

『早く保健室へ』と書き加え、僕は再びエリに紙を渡した。しかしエリは、『大丈夫』の文字をぐるぐる囲った。自分から動く気はないということか。

 僕は返された紙を裏返し、『薬を飲み忘れたのではないか』『今、相当な不安と焦りを感じているのではないか』と、短い手紙を書いて三度エリに渡した。『僕が保健室まで同行するから』とも。

 しかし、それでもエリは動かない。返された紙には『今は授業中だから』とだけ。


 僕は思った。

 エリは、真面目すぎる。完璧主義者だ。周囲の目を気にし過ぎる。そして、僕によく似ている。

 

 表面的な印象はだいぶ違うと思う。内気で自分の世界に没頭する僕と、気さくで笑顔を絶やさないエリ。

 しかし、もしかしたらエリも無理をしているのではないだろうか。胸中は穏やかならざる状況なのではないだろうか。誰かが察して、声をかけてやらなければならないのではないだろうか。


 それは追々考えるとして。

 今は、どうやってエリに薬を飲むチャンスを与えるかが問題だ。さらに、薬は飲んでもすぐに効くわけではない。体内で分解され、吸収されて初めて効果を発揮するのだ。要は、タイムラグがあるということ。

 それを考えれば、エリは即刻薬を飲むべきだ。

 ああ、もう仕方がない。


「先生! 竹園さんが気分が悪いそうなので、保健室に連れていってもいいでしょうか!」

「お、おう?」


 先生の隙をつくような形になってしまったが、もうなりふり構ってはいられない。

 驚いて振り返ったエリの手を握り、同時に薬が入っているのであろうエリの鞄を掴む。

 そのまま僕は、誰とも視線を交わさずに教室を後にした。


「ちょっ、優希くん!?」

「静かに。今授業中だから」


 廊下を歩きながら、僕はエリの言葉を封じる。流石に意表を突かれたのか、エリも僕と歩調を合わせた。

 僕は保健室までエリを引っ張っていった。本当は手を離してもよかったのだが、僕はそうしなかった。

 できなかったのだ。今ここで手を離したら、エリの理性を繋ぎとめていられないような気がして。


 ノックもせずに、僕は保健室の扉をガラリと開けた。教室と同じ広さの保健室は、右半分にはベッドが四床並んでおり、今は二つにカーテンがかかっている。左の壁沿いには一般的な薬や絆創膏が棚に陳列され、中央には保健の先生が二人、自らのデスクに向かっている。


「あら、どうかしたの?」


 その時、ようやく僕は冷静になった。というより、自分の言動に無理があったことに気づかされた。

 この瀧山高校に入ってから、僕の病状は落ち着いていた。だから保健室に来る機会がなかったのだ。もちろん、保健の先生との面識もない。


「あのっ、えっと……」


 僕は必死に頭の中を整理しようと思ったが、なかなか上手くまとまらない。

 代わりに状況を察したのは、奥のデスクにいた年配の先生だった。


「あら、竹園エリさんね?」


 おずおずと頷くエリ。


「石塚先生から話は聞いてるわ」


 すると先生二人は自己紹介をし、エリにそばの丸椅子に座るよう促した。僕はエリの鞄を握ったまま、荷物持ちよろしく突っ立っている。


「顔色が悪いわね。お薬、ちゃんと飲んでる?」

「は、はい、でも今朝は飲み忘れてしまって……」

「それはいけないわね。今、お薬はある?」


 エリが僕に振り返る。先生二人も視線を寄越す。


「あら、あなたは……」


 僕に気づいたのは、若い方の先生だった。


「春島優希くんね? 石塚先生に任命されて、竹園さんの護衛をしてるとか」

「は、はあ」


 この先生まで『護衛』なんて言葉を使うのか。まあ、それはいいとして。

 落ち着きを取り戻した僕は、先生に事情を伝えた。できる限り、自分の過去には触れないようにしながら。


「なるほどね……」


 年配の先生は腰を下ろし、僕によるエリの観察結果に耳を傾けた。

その間、エリは若い先生に背中を擦られながら、薬を水で飲んでいた。


「ごめんなさいね、春島くん。これは石塚先生からのお願いだったんだけれど……。石塚先生ってあの性格でしょう? 自分が竹園さんの担任になるって決まった時点で、どうしても彼女は自分の手に余るんじゃないか、って相談に来たのよ。だから、春島くんに同じクラスになってもらったわけ。竹園さんと石塚先生の『中継ぎ』ができる生徒としてね」


 と聞かされたけれど、僕には疑問が残った。二つある。

 一つは、どうして石塚先生のクラスにエリを編入したのか。『精神疾患』を持った生徒の扱いに苦手意識がある、というのに。

 もう一つは、どうして僕が『中継ぎ』に選ばれたのか。普通の女子が、自分の病気のことを異性に打ち明けるのは簡単なことではないと思うのだが。


「腑に落ちない様子だね、春島くん」

「はい」


 流石に表情に出ていたか。それとも相手の『読み方』が上手いのか。いずれにせよ、僕は驚くことなく肯定した。


「石塚先生はね、自分が高校生の時に、大学生だったお姉さんが自殺未遂をしたのよ」

「なっ!?」


 今度こそ僕は、心の底から驚いた。


「一応一命は取り留めたんだけど、今もいわゆる植物状態でね……。石塚先生は、その理由の一端が家族である自分にもあるんじゃないか、って思ってるのよ。だから、『誰かを助っ人につける』ことを条件に、竹園さんを自分のクラスに編入させたの」

「その『助っ人』が僕だった、っていうわけですか」


 足を組みながら頷く先生。


「でも、僕の性格はご存知なんでしょう、石塚先生は? こんな内気な生徒を助っ人にするとは納得がいかないんですが。それに、僕は男子で竹園さんは女子ですし……」


 すると保健の先生は、軽く吹き出すように笑った。


「流石春島くん、評判通りね。自分を客観的に見ることができている」

「ど、どうも」


 そんな評判が立っていたのか。


「あなたが内気かどうかは関係ないのよ、実際のところ。それに男子か女子かということもね。知っての通り、竹園さんはイギリス帰りで国際感覚に長けている。この場合の『国際感覚』っていうのは、日本よりも男女の差がない、っていう意味」


 全く、この国は未だに男尊女卑の感が否めないからね、と言葉を挟む。


「とにかく、あなたが思っているほど竹園さんは男女の差を気にしてない、っていうことよ。堂々と護衛してくれて構わない」

「はい……」


 僕は俯いた。気づくと、右手の指先で学ランの端をいじっている。緊張している時の僕の癖だ。


「春島くん、あなたもコーヒー、飲む?」

「は?」

「紅茶もあるけど」

「あ、あの、僕は……遠慮します」

「あらそう?」


 先生は片方の眉を上げてみせた。


「カフェインは苦手? それとも、精神科のドクターに止められてる?」

「いえ、そういうわけでは」

「まあ、無理に飲めとは言わないわ」


 なるほど。保健室に来ればお茶をいただけるのか。

 それはさて置き。


「竹園さん、大丈夫そう?」

「……」


 若い方の先生が、保健室奥の洗面台から戻ってきた。片腕はエリの肩に回されている。しかし今も、エリの調子が良くなったようには見えない。やはり、そのへんの風邪薬や頭痛薬と違い、『飲めばすぐ効く』わけではないのだ。


「春島くん、二時間目が終わったらまた来てくれない? 竹園さんには、ちょっと休んでいってもらうから」

「分かりました」


 僕はエリに一瞥をくれた。すると――全くの偶然だと思うのだけれど――、エリと目が合った。

 思わず『大丈夫?』と声をかけてしまった。先ほどの紙での遣り取りと同じ言葉だ。

 エリは小さく頷いた。否、頷くしかないじゃないか。

 あれほど僕との保健室行きを拒んでいたエリだ。僕に迷惑をかけまいという意志は、この程度で折れはしないだろう。


「では、また後ほど」

「うん。よろしくね、春島くん」


 一時間目終業のチャイムが鳴ったのは、ちょうどその時だった。

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