第11話

 石塚先生はエリを連れ、足早に階段を下りていく。勢いそのままに、二人は職員室奥の仕切りのあるスペースへと向かった。個人面談を行うスペースだ。

 僕は好奇心と心配がごたまぜになった気持ちで二人の後を追う。――つもりだったが、職員室に入るには、当然それなりの理由がなければならない。それも一番奥の面談スペースの近くまで行くためには。


 僕はしばし、職員室の様子を慎重に窺った。すると、


「やあ、春島くんじゃないか」

「あ、青田先生、おはようございます」


 僕の背後からやって来たのは、数学担当の青田均先生だった。東京都内のある大学の大学院まで理学部数学科に在籍。『なんでこんな頭のキレる人が、こんな辺鄙な高校に!?』と専ら話題になる人気教師だ。

 その時、閃いた。

 

「青田先生、この前のテストのことで質問なんですが」

「ああ、構わないよ。一時間目まで……あと十分くらいしかないけど、大丈夫かい?」

「はい! お願いします」


 青田先生の席は、個人面談スペースのすぐ手前にある。彼のデスクのそばに行けば、石塚先生とエリの会話を盗み聞きできるかもしれない。


「で、どの問題が疑問なんだい?」

「あ、えっと、大問二の三番です。この二次方程式の頂点が」

「ああ、これね。まずは一番で求めた座標を――」


 と、青田先生の解説が始まったところで、僕は聴覚を仕切り板の向こう側へと傾けた。


「大丈夫だったか、竹園?」

「何がですか?」


 きょとんと首を傾げるエリの姿が目に浮かぶ。それに対し、石塚先生の声音は真剣そのものだ。先生は少し躊躇ってから、


「あー、さっきの教室でのことだ」

「はい。小河さんは私を助けてくださった親切な方です」

「それはよかった。しかし私が話したいのは、その後のことだ」

「その後?」


 石塚先生が、手の爪で机を叩く音が聞こえる。何かもどかしい思いをしている時の癖なのだろう。


「まあ、竹園が気にしていなければ問題ないんだが……。大丈夫か?」

「はい」


 即答するエリ。自分が順二を弁護したことも、その後クラスの注目を浴びてしまったことも、あまり気にしてはいないようだ。

 先生はほっとしたような、まだ納得しきれていないような、深いため息をついた。


「大丈夫だとは思うんだが、何かあったらすぐに相談してほしい。私で不足であれば、他の先生でもいい。大人が信用できないというのであれば、春島や小河でも構わない。とにかく、相談するんだ。その……怪我をする前に」

「はい」


 エリの即答ぶりは相変わらずだ。しかし、そこに一抹の鋭さが含まれていることに、僕は気がついた。


「……というわけなんだ。どうだい、春島くん?」

「えっ? あ、は、はい!」


 僕は慌てて頷いて見せた。青田先生は、ずっと僕が自分の解説を聞いていたものと思っているようだ。

 しかし、今さらながら僕は自らの失態に気づいた。


 もうすぐ一時間目が始まる。エリも石塚先生から解放されて教室に戻るだろう。ここで僕が職員室内でエリと鉢合わせするのはマズい。せっかくこっそりやって来たのに、これでは盗み聞きを疑われてしまう。


「どうしたんだい、春島くん?」

「あのっ、ありがとうございましたっ!」


 僕は慌てて青田先生に頭を下げた。これ以上名前を連呼されてはかなわない。

半ばダッシュで職員室を横切ったが、一時間目の授業に向かう先生たちの背中が僕の行く手を遮る。

 早く出なければ、エリに気づかれてしまう。仕方ない。


 僕はわざとポケットからハンカチを取り出し、両手でぐしゃぐしゃに丸めた。そしてそれを適当な場所に、先生の背中目がけて投げつける。


「ん? 何だ?」

「あっ、すみません!」


 僕はその先生の顔も見ずに、彼のデスクの下に滑り込んだ。


「君、どうしたんだ?」

「ハンカチを落としたんです」


 そう言いながらも、僕は背を丸くしてデスクの中で小さくなり、その姿勢を維持する。

 そっと振り返ると、女子の屋内シューズが僕の視界を横切っていった。

 エリだ。そう判断した僕は、ゆっくりと身体を反転させて、名前の知らない先生のデスクから這い出る。


「いやあ、すみません」


 僕は自分の頭を掻いた。


「ああ、気をつけてな」


 ぺこりと頭を下げる。そっと出入り口を見ると、ちょうどエリの長髪が廊下に出ていくところだった。


 そこから先は簡単だった。エリが廊下や階段に出る度に、僕は身を隠してエリが視界から消えるまで待った。それから先は男子トイレの個室に入り、一時間目開始のチャイムを待つ。

 これならエリに気づかれる心配はあるまい。僕は昨日まで読んでいたスパイ小説を思い出し、一人苦笑した。

 チャイムが鳴ってからも少しばかり待機し、タイミングを計った。腕時計に目を落とす。すると、チャイムから既に三分が経過していた。もう大丈夫だろう。


「失礼します」


 僕は二年B組に、後ろの扉から入室した。行われていたのは国語、現代文の授業だ。

 先生が口を開くよりも先に、


「すみません、腹痛でトイレに行っていました」

「そうか。もしもの時は無理しないで保健室に行けよ」

「はい」

「えー、では教科書二十九ページ、藤本、音読してくれ」


 僕はいそいそと身を屈めて、教室中央の自分の席に戻った。隣の順二が心配げな一瞥をくれたが、僕は黙って首肯するに留めた。


 授業はスムーズに進んでいた。ちょうど僕の好きな作家の作品を扱っていたので、内容の分かっている僕には退屈だったけれど。

 それでも、僕の建前は『勤勉・健全な男子生徒』なのだ。分かってますよと先生に言いたくなるのを我慢しつつ、僕は板書を書き写す作業をこなした。


 異状を感じたのは、授業開始から三十分ほど経った時だった。

 すぐ前の席に座っているエリの肩が震えている。まさかこの季節で『寒い』ということはあるまい。風邪気味であるようにも見えなかった。もしかしたら――。

 僕はルーズリーフを一枚、バインダーから取り外した。そこに『大丈夫? 保健室は?』と大きな文字で書く。そして先生が板書をしている最中に、そっとエリの肩に紙を置いた。

 振り返ろうとするエリ。しかし、それではまた教室中の視線を集めてしまう。僕は自分の唇に人差し指を当て、すっと紙を押し出した。


 その時、気づいた。エリの顔面が蒼白になっていることに。

 僕にも経験がある。もしかして、エリは今朝、精神安定剤を飲み忘れたのではないか?


 僕の頭の中で、非常事態警報が鳴り響いた。

 朝食の後に薬を飲み忘れることは、致命的なミスだ。飽くまで僕の経験則だが、朝は当然ながら、昨晩に服用した睡眠導入剤の効果が切れる。不安に対して、心が無防備になってしまう。

 そこでタイミングよく朝食後の精神安定剤を飲むわけだ。が、それを忘れてしまっては目も当てられない。何か頭を使う作業はともかく、人とのコミュニケーションにすら支障が出る。

 

 まずい。早くエリに精神安定剤を飲ませなければ。いや、そのチャンスをどうにかして与えなければ。

 脳内で必死に今後の事態を想定する。先生方は、エリの病気について知っているだろうから、『具合が悪い』と言い出せばこの場からの脱出は可能だ。

 だが、何故かエリは動かない。震える右手で、何とか板書を写そうとしている。すると、先生の解説の合間を縫って、エリが先ほどの紙を僕に渡してきた。『大丈夫』の方に丸がついている。


 嘘だ。僕には分かる。

 早く薬を飲まなければ、どんどん頭がおかしくなっていく。パニックに近づいていくのだ。

 僕はかつて、そのパターンで暴力衝動に駆られたことが何度となくあった。

 エリは女子だから、男子である僕とはストレスの現れ方が違うかもしれない。

 だが、苦しいことに変わりはないはずだ。

 どうにかして、エリをここから即刻脱出させなければ。

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