第10話

 その日の夜。

 石塚先生の指導の元、僕がエリの『護衛』を務めることとなった。まあ、ただ一緒に下校するだけなのだけれど。

 僕は風間先輩を思い出し、話題を探そうとした――が、探す間もなく思いの外、言葉はするする出てきた。


「エリさん、街にはもう慣れた? 山と畑と田んぼしかないようなところだけど」

「えっと、『コンビニエンスストア』って言うの? ああいうお店があるから、大丈夫。食事には困らないし」

「そっか。やっぱりイギリスとは違うのかい? 街とか人の雰囲気とか」

「そうだね……」


 エリはしばし、前方に立っている電灯に目を遣った。


「確かに道は綺麗かもしれないね。あんまりゴミが落ちてない」

「まあね、今から東京オリンピックに向けて『綺麗な街づくり』なんてやってるからさ」


 こんな辺鄙なところには関係ないような気がするけれど。

 僕は電灯の下を通りながら、エリの手元を一瞥した。


「その腕のスカーフ、ちょっと汚れちゃったね」

「あ、うん」


 エリは僅かに顔をしかめたが、特別困っている風ではなかった。


「同じようなスカーフは、いくらでもあるから」

「ふうん?」

「季節によって変えてるの。今は日本で桜の時期だから、パステルピンクにしてみたんだけど……どうかな?」

「え?」


 突然『どうかな?』と言われても……。僕のような、ファッションに関心ゼロな人間には酷な質問だ。しかし、答えはさらっと口をついて出てきた。


「すごく似合ってると思うよ」

「本当?」


 するとこれまた意外なことに、エリは上品に微笑んでみせた。いや、敢えて上品にと工夫しないからこそ、彼女の喜びが素直に伝わってくるのだ。

 不思議だったのは、僕もまた嬉しくなったということだ。


「優希くん、ありがとう。私、日本の高校生のファッションってどんなものなのか全然分からなくて……。昨日も遅刻するギリギリまで、何色にするか迷っちゃった。転校初日なのにね」


 エリはぺろっと舌を出した。

 それを見て、僕は思わず足を止めた。


「……」

「どうしたの、優希くん?」

「くふっ、いや、エリさんも結構お茶目なんだな、と思ってさ。笑っちゃった」

「お茶目?」


 ああ、そうか。『お茶目』という言葉は汎用性が低いから、エリは知らないのかもしれない。


「要するに、面白い人だな、ってことだよ」

「何それ?」


 エリはきょとんと首を傾げたが、


「大丈夫、いい意味だから」

「あ、そうなんだ。『お茶目』かあ……」


 自分で『お茶目』とゆっくり発音しながら、エリは数回頷いた。


「うん。新しい日本語、また一つ覚えた」

「あんまり役には立たないかもしれないけどね」

「そんなことないよ!」


 今度はエリが足を止めて、僕に振り返った。


「せっかく優希くんが教えてくれたんだもの、忘れたら失礼だよ。こんなにお世話になってるのに」

「あー、いや。僕は何にも不都合がないっていうか……」


 僕は誤解を招かないよう、ゆっくりと言葉を続けた。


「一人で帰るより、ずっと楽しいよ」


 するとエリの顔に、ぱあっ、と花が咲いた。


「よかった……。帰国子女のお世話なんて、面倒なのかなと思ったんだけど」

「そんなことないって!」


 そうこうするうちに、僕たちは自然とエリの住んでいるマンションに辿り着いていた。


「明日の朝も、迎えに来るよ。エリさんの部屋番号、二〇二だっけ?」

「うん。八時くらいなら準備ができてると思う」

「なあんだ、僕も寝坊できないな」


 ふふっ、と控えめな声で、僕とエリは笑みを交わした。


「それじゃ、さようなら」

「うん、また明日」


 律儀に頭を下げるエリを前に、僕は軽く手を振って応えた。


         ※


 その日、帰ってから何をしたのか、自分でもよく覚えていない。ただ、落ち込んでいたことは確かだ。エリと楽しく会話できたから、その反動もあったのだと思う。

 両親とはろくに顔も合わせず、食事も自室で済ませた。


 ただ一つの救い。それは、転んだ時に差しのべられたエリの手の温もりだった。

 ベッドに仰向けになって、自分の右手をじっと見つめる。

 

 ――知らなかったな。人の手があんなに温かいなんて。


         ※

 

 翌日。


「おはよー、エリさん!」

「あっ、おはようございます!」

「やっほー、竹園さん! エリって呼んでもいい?」

「はい! もちろんです!」

「エリちゃんはシャンプー何使ってるの?」

「えーっとですね……」


 朝のホームルーム前から、エリは大人気だった。

 僕のようなぼっちですら馴染んだクラスだ。ましてエリがいじめられたりはしないだろう。

 その点僕は安心していた。エリの緊張の度合いも一昨日、転校初日より幾分か和らいだようにも見える。

 僕がエリの背中から視線を離したその時、


「おはよう、優希くん」

「やあ、順二」


 順二が鞄を机に置くところだった。椅子に座り、教科書を取り出す――のかと思いきや。


「た、竹園さん!」


 突然の声に、エリは言葉もなく振り返った。彼女を囲んでいた女子たちも同じく。


「あ、小河順二さん、ですよね?」

「お、おはよう、ごっ、ございます!」


 順二はどもりながらも、エリに挨拶した。

 どこか冷ややかな視線が順二に向けられる。彼をフォローしてやるだけの度胸は、僕にはない。

 しかし、そんな冷めた雰囲気を破って


「昨日はお世話になりました、小河さん」


 エリは笑みを浮かべて、順二に軽く頭を下げた。


「え、エリさん、小河くんと知り合い?」

「はい。昨日園芸部のお手伝いをする時に、助けていただきました」

「あ、そ、そうなんだ……」


 一気にテンンションダウンするエリの周辺。

 僕は親友として、順二を止めてやるべきだったのだ。彼も自分がいかに内気な人間か、自覚していないわけではあるまい。恋は盲目、とはよく言ったものだ。


 僕が穏やかならざる心境でいたところ、助け船を出したのは


「おらー、皆席つけー」

「石塚先生! 小河くんが竹園さんをナンパしてまーす!」

「小河―、取り敢えず落ち着けよー。まだ出会って三日目だろー。ドン引きされるだけだぞー」


 教室内はどっと沸いた。

 僕は沈黙を保ちつつ、周囲の空気を窺う。

 敵意や悪意は感じられない。皆はやし立てているだけだ。今後、これをネタに順二がツッコミを喰らうことはなさそうだと思う。

 しかし当の本人は、案の定真っ赤になって俯いていた。

 まあ、順二の性格を思えば当然だな。


 僕が安堵した、まさにその時だった。


「あ、あの、先生!」


 目の前でガタン、と椅子が揺れて僕の視界が塞がれた。

 エリが立ち上がったのだ。

 

「どうした、竹園?」


 威勢よく応じる先生。しかし、先生が微かに狼狽するのを、僕は見逃さなかった。


「先生、小河くんは昨日の部活動を手伝ってくれた友達です! ナンパなんかされてません!」


 しん、と教室中が静まり返った。


「あ、そ、そうか。悪かったな、小河も竹園も。先生の勘違いだ」


 慌てて場を取り繕う先生。


「え、えーと! 今日は……数学! そう、数学の小テストの返却だな! 皆、頑張るように!」


 テストの返却をどう頑張れというのか。赤点を取ってショックで気絶しないように、とでも言いたいのだろうか。

 だが取り敢えず、場の雰囲気は和んだ。憂鬱なため息があちこちから湧き上がる。


「はい、ホームルーム、一丁上がり! あ、竹園、転校届に少し不備があったみたいだ。少し職員室までつき合ってくれ」


 すると、エリはようやく自分の立場に気づいたようだ。一人で立ったまま、皆の視線の先を浴びている。まあ、それもホームルームと一時間目の僅かな休み時間の間だけだったが。

 エリは石塚先生にくっついて廊下に出ていく。

 僕は順二を励ますのもそこそこに、二人の後について行った。

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