第9話

 僕は保健室行きを勧めるエリの提言を丁重に断り、風間先輩と三人で階段を上り、屋上に出た。屋上にあるのは、大きな貯水タンクと四方を囲んだフェンス、それに反対側に見えるロッカー状の物置……だけ。


「あれ? ちょっと亮平、望遠鏡用意してくれてるんじゃなかったの?」


 どこにいるかも分からない嵐山先輩に向かい、風間先輩は声を張り上げた。

 僕とエリはぼんやりと周囲を見渡したが、人影は見当たらない。


「はあ、全くしょうがないわね……。そこのロッカーに天体望遠鏡入ってるから、優希くん、エリちゃんと一緒に準備してもらえる?」

「分かりました。エリさんに手順を教えてあげます」


 頷く風間先輩の横で、エリは再び『ありがとう』と一言。

 

「こっちだよ」


 僕は真っ直ぐ、屋上反対側の物置に向かって歩き出した。空を見上げると、いつの間にやら太陽の残滓は微かなものになっていて、天体観測に支障はないように思われた。

 それだけ長い間、エリは僕を看病してくれていたのか。そう考えると、胸の中で何かが跳ねるものを感じた。

 

 そんなことを思いつつ、僕とエリは物置の前に辿り着いた。すると、


「あれ?」


 二台ある望遠鏡のうち、一台が横倒しになっていた。といっても、乱暴に扱われたわけではなく、三脚を閉じた状態で丁寧に横たえられている。

 二つの物置は、両方とも閉まっている。が、


「おかしいな……」

「どうしたの?」

「片方だけ鍵が開いてる。誰かが開けて、そこの望遠鏡を取り出したんだ」


 しかし、だったら誰が――と思いつつ、僕は開錠されている方の物置のノブを引いたすると、


「あ」

「どわあっ!!」


 最初の落ち着いた声はエリのもので、次の絶叫は僕のもの。

 そして僕らが目にしたものとは、


「ちょ、何やってるんすか!?」


 嵐山先輩が、うずくまっていた。ちょうど物置にピッタリ収まるように、横向きで体育座りをしている。


「せ、先輩?」

「んあ……優希?」

「だ、大丈夫ですか?」


 しばしの沈黙。すると突然、嵐山先輩は喉を鳴らし始めた。それが笑い声であることに気づくのに、僕にはしばらく時間がかかった。あまりに自嘲的だったからだ。

 そんな先輩を、エリは興味津々といった様子で見つめている。


「優希くん、日本人って、人前で笑っちゃいけないの?」

「どういう意味?」

「だって、嵐山先輩はこうして隠れて笑ってるから……」


 これには僕も返答に窮してしまった。


「いや、人前で笑うのは、相手を馬鹿にするのでもなければ構わないんだけどね……」


 要は、嵐山先輩は変人だということだ。しかしそれを、先輩の目前でエリに伝えるのは流石に躊躇われた。


「先輩、大丈夫ですか?」


 僕はもう一度、尋ねてみた。すると、


「は、はは……。この髪、明日には直してこいってさ……。はは……」

「あー」


 僕は半分呆れ、半分同情した。

 生徒指導係は、よりにもよってあの石塚先生なのだ。ただ単に叱られる、注意を受けるくらいで済むものとはとても思えない。


「は、はははは……」


 嵐山先輩はそっとオールバックの髪に指を通した。


「でも先輩、どうしてそもそもそんな髪型にしたんです?」

「エリちゃんの気を惹きたくってさ……。別につき合ってくれとは言わねえけどさ……。俺、フラれてばっかりだしよお……」


 するとエリがおずおずと、


「私、先輩に失礼なことをしましたか?」


 しかし嵐山先輩は自嘲を続けるしかない様子。取り敢えず代わりに僕は、


「いや、エリさんに責任はないよ」


 とバッサリ断言しておいた。

 その直後、


「ふっ!」

「がはっ!?」


 物置が吹っ飛んだ。風圧が僕とエリの髪を撫でる。

 物置の代わりに視界に入ってきたのは、風間先輩だった。横から跳び蹴りを喰らわせたのだ。

 ようやく横倒しになった物置から這い出した嵐山先輩は、


「京子ぉ、何するんだよぅ~」


 と子猫が鳴くような声を上げた。


「こんの馬鹿阿保間抜け! あたしと別れて二ヶ月! 二ヶ月しか経ってないのに後輩に手を出そうなんて、どんな思考回路してるのよ!?」


 いや、僕は風間先輩の身体能力もどうかしていると思う。

 するとそんな僕の疑問の念を察したのか、


「春島、何か言いたいのか?」

「いっ、いえ! 何も!」


 両手と首を横に振りまくる僕を見て、風間先輩はふっと息をつき、『ならいいんだけどね……』と一言。

 嵐山先輩も、つくづくついていない。エリの注目を惹けず、石塚先生には絞られ、風間先輩には物置ごと蹴り飛ばされ……。

 と、思ったが、


「嵐山先輩、大丈夫ですか?」


 とっとっと、とエリは駆け寄り、またも屋上で転がっている嵐山先輩に声をかけた。


「……すまんな、エリ……。俺は、ここまで……だ……」

「勝手にドラマチックにせんでいいわ!!」


 するとどこに仕込んでいたのか、風間先輩はハリセンで嵐山先輩の頭部を思いっきり引っ叩いた。


「ま、まあ、二人とも根はいい人だから……」


 とフォローを試みた僕の横で、エリはクスクスと笑っていた。

 僕はフォローの続きも忘れて、一緒に笑ってしまった。


         ※


「じゃあ、優希くんはエリちゃんに天体望遠鏡の使い方を教えてあげて。もう暗いから」

「あ、分かりました」


 嵐山先輩に説教をする風間先輩。そんな二人を置いて、僕は外に出されていた望遠鏡を持ち上げた。


「よいしょ、っと……」

「大丈夫?」

「ああ、平気平気。結構重いんだよね、望遠鏡って。ちょっと待っててね」


 僕は三脚を立て、望遠鏡のセットに取りかかった。僕の顔と手元を交互に見遣るエリの視線が、とても柔らかく感じられる。

 僕たちが使っている望遠鏡は、屈折式望遠鏡というタイプだ。筒状の望遠鏡本体が三脚に載っている。経緯台式架台という台座があり、上下左右に望遠鏡を動かすことができる。

 屋上の中央に三脚を置いて、鏡筒やファインダーのキャップを外し、接眼レンズとファインダーの向きを一致させた。


「よし、と」


 僕は腰に手を当てた。


「あれ? もういいの?」

「うん。後は見たい星に照準を合わせるんだ。でも、地球が自転してる関係でだんだんズレていっちゃうから、この微動ハンドルでちょっとずつ調整する必要があるね」

「ふうん……」


 エリは興味津々の様子で、望遠鏡を横から眺めた。


「ちょっと待っててね――」


 僕は適当に、見やすい星がないかを考えた。ああ、そうか。今日は確か満月だった。


「月でも見てみようか、試しに」

「うん! 素敵」


 ……いや、待て待て待て。エリが素敵だと言ったのは月のことだ。決して僕のことじゃない。落ち着け、僕。

 僕の僅かな手の震えが、夜の闇で見えづらくなっていたことに感謝した。


「うん、大丈夫だ。よく見える。エリさんも覗いてみて」

「それじゃ……」


 望遠鏡を覗き込むエリ。その横顔を見つめる僕。すると、エリの顔つきがだんだん変わってくるのが分かった。


「あれ? あんまりよく見えなかった?」

「綺麗……」

「え?」

「すごい! 初めて見たよ、こんな景色!」


 エリは顔を上げて僕を見た。興奮冷めやらぬ様子だ。その瞳は、僕には月よりも眩しく見えた。


「日本では『兎が餅つきしてる』って言われてるんだよね。本当にそう見える……」


 再びエリは、望遠鏡を覗き込んだ。

 正直、兎の件は僕にはよく分からない。でも、エリがそう言うなら。

 

 その時になって、ようやく僕は『竹園エリ』という存在の重さが分かったような気がした。

 いや、分かっていない。これがいわゆる恋心なのか、ただの保護欲なのか、それ以外の何かなのか。

 

 ただ一つ確かなのは、僕はエリの笑顔を守りたいと思っている、ということだ。

 中二病と馬鹿にされても構わない。こんな日々が続くのなら、僕は幸せだ。

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