第8話

「あ、ありがとう、ございます……」

「え、えっと」


 唐突に自分の腕に飛び込んできたエリに、順二はあたふたと地団駄を踏んだ。


「っておい! お前の方が転びそうだろ!」


 僕はそう言ってエリの手を取ろうとしたが、

 ……あれ?

 動けない? どうしたんだ、僕? 


「だ、大丈夫です。もうバランスは取れましたから……」

「ご、ごめん! なんかセクハラみたいな……」

「いっ、いえ」


 エリはちらりと僕の方を見て、すぐに順二に振り返った。


「あなたは確か、近くの席の――」

「う、うん。僕は小河順二。そういえば自己紹介してなかったよね」

「私は、竹園エリです。イギリスの高校から転校してきました」


 すると順二は不自然なほどに頷きながら、


「そう! エリさん、だよね! よ、よろしく!」

「よろしくお願いします」


 腰を折って丁寧にお辞儀をするエリ。


「ああいや、そんな! 大したことじゃないから。こ、こちらこそよろしく」


 エリは微笑みながら顔を上げた。


 ――その間、僕は蚊帳の外だった。


「おーい小河! 練習、また始めるぞ!」

「あっ、はい!」


 先輩の声に、順二は振り返って答えた。


「じゃあね、エリさん! 優希くんも」

「あ、うん」

「それじゃ!」


 勢いよく駆け出していく順二。

 エリは気づかなかっただろう。が、僕には分かった。順二の気分がこの上なく高揚しているということが。


「僕らも行こうか、竹園さん」

「うん。先輩たちを待たせちゃうからね」


 僕は喉から渇いた笑い声を上げた。が、それがエリにどう聞こえたのかは分からない。

 確かなのは、先ほどのエリと順二の遣り取りを見て狼狽したということだ。いや、これは焦燥感に近いだろうか。

 何か話をしたい。順二よりも気の利いた話を。でも、夕日に照らされたこのグラウンドに、そんな都合のいいものが転がっているはずがない。

 しかし、先に口が動いてしまった。


「あの、竹園さん」

「エリ、でいいですよ。じゃなくて、いいよ」


 相変わらず裏表のない表情で、エリは僕と目を合わせた。敬語をわざわざ訂正するあたり、いかにも彼女らしい。出会って二日目でそんなことを言うのも妙だけれど。


「じゃあ、エリ、さん」

「何?」


 やばい。今度こそ話題がない。

 手に汗が滲む。自分の唾を飲む音が聞こえる。エリと目を合わせ続けていられなくなる。


「えっと、その、あいつは僕の幼馴染なんだ」

「へえー、春島くんと小河くんはベスト・フレンドなんだね!」


 心底嬉しそうに語るエリ。


「何だか楽しいな、今日だけで二人も友達ができちゃった」

「そ、そうだね。僕もよかったと思うよ。エリさんも緊張が解けたみたいで」


 相変わらず僕は、額に脂汗が浮かぶのを止められないでいたけれど。

 するとちょうどよく、


「二人共、大丈夫―?」


 風間先輩の声だ。

『はーい』と楽しげにエリが答える。いやはや、危うく話題がなくなるところだった。

 僕はふう、と小さくため息をつき、先輩の指示に従って肥料袋を置いた。


「今日はプランターに肥料を入れる活動からね。基本的な土はもう敷いてあるから」


 頷く僕とエリ。


「あれ? 嵐山先輩は?」

「あー、あの馬鹿は生徒指導室よ。あんな髪型、認められるわけないじゃない?」

「確かに」


 僕は腕を組んで頷いた。しかしエリは、


「でも嵐山先輩、素敵でしたよ?」


 僕と風間先輩は同時にコケた。


「エリちゃん、それ本当?」


 おずおずと風間先輩が尋ねると、エリは


「イギリスではあんな髪型、普通でしたから」


 と即答。


「……まあいいわ。とりあえず、三人でこの仕事を片づけちゃいましょう」


 それから一時間ほどかけて、僕たちは肥料をプランターに入れて回った。エリは園芸部員にも声をかけられ、少しずつではあるが場に馴染んできている。

 その姿に、僕は穏やかさと寂しさの両方の感情を覚えた。


「どうしたの、優希くん? 手が止まってるけど」

「何でもありません」


 僕はすぐに気分を切り替え、スコップを手に取った。


         ※


「はい、園芸部の手伝いお疲れ様! だいぶ暗くなってきたわね、ようやく活動できるわ」


 風間先輩は鼻歌を奏でながら後片づけを始めた。


「ああエリさん、スコップとか手袋とかはこの籠に入れておいて。僕が倉庫まで持っていくから」

「うん、ありがとう」


 こうして僕たち三人は、グラウンドを校舎に沿って歩いた。


「ねえエリさん、やっぱりイギリスの高校と日本の高校って違うの?」

「はい。日本の高校生……っていうか日本の人たちって、大抵髪が黒いですよね。髪の色が違うだけで怒られるなんて、イギリスではあり得ません」

「ふうん。まあ、亮介の場合は馬鹿やっただけだから、怒られて当然なんだけどね」


 風間先輩は肩を竦めた。


「最近、イギリスは大変だったんじゃない? EU離脱とか右派勢力がどうとか……」

「それは家族で随分話し合いました」


 エリは眉間に皺を寄せて、


「結局、家庭内では何にも決まりませんでしたけどね。それに比べて、日本の人はあんまりディスカッションってしませんね」

「そうねえ……。皆『事なかれ主義』だから、かしらね」


 人差し指を顎に当てて考える風間先輩。しかし、隣で籠を運びながら、僕は舌を巻いていた。

 なんだ、話題なんていくらでもあるじゃないか。どうしてさっきは思いつかなかったんだろう?

 ――せっかくエリと二人でいられたのに。それとも、同性だからこそ話しやすいとか、そういうことなのかなあ……。


「おーい、優希くん!」

「はい?」


 振り返ると、エリと風間先輩が昇降口に入るところだった。


「前見て歩いて! 前!」

「へ?」


 するとガツン! という衝撃音と共に、僕は後ろ向きにぶっ倒れた。倉庫のドアに衝突してしまったのだ。


「痛っ~~~!」


 僕は強く打ちつけてしまった胸部を押さえた。後頭部もジンジンと熱を帯びている。地面に倒れ込んだ時に、地面にぶっつけたらしい。

 しばらくの間、僕は立ち上がれずにいた。ようやっと上半身を上げると、


「優希くん!」


 エリが駆け寄ってきた。


「大丈夫!?」

「あ、ああ……」

「待って。今手当てするから」


 すると全く唐突に、


「ちょ、エリさん!?」


 エリは僕の学ランのボタンを外し始めたのだ。


「ま、待って、一体何を……!?」

「動かないで!」

「はいっ!」


 有無を言わさぬエリの声音に、僕の声は相殺されてしまった。


「ちょっと横になって」

「は、はい」


 エリは自分のハンカチを広げ、その上に僕の後頭部を載せた。シャツと下着だけになってしまった僕の胸に、軽く手を当てる。

 何が何だか分からないが、僕の心臓はこれ以上ないほどに脈打っていた。

 しかし、エリはエリで大変な思いをしているようだ。真剣そのものといった表情で、僕の胸に指の腹を当てている。

 痛くはないが、エリの口からは『骨は大丈夫』とか『肺にも異常なし』といった言葉が出てきている。


「ここに座れる?」

「上半身を起こせばいいのかい?」


 尋ねながら、腕で自分の身体を持ち上げる。しかし、


「あっ、急に起き上がらないで!」


 僕の背に、エリの掌が当てられる。


「ゆっくり、ゆっくりね」

「う、うん……」


 今さらながら、僕は自分がとてもいい香りに包まれていることに気づいた。エリが使っている香水かシャンプーの香りだろう。

 しかしエリは、そんなことには頓着せずに、僕の後頭部に手を遣った。


「痛っ!」

「痛い? 身体がグラグラしたりしない? 大丈夫?」

「何だか擦りむいたような痛みだ」

「それだけ?」


 エリは僕の両肩に手を載せ、真っ直ぐに僕の目を覗き込んできた。

 僕はドギマギしながらも、


「うん。転んで膝をぶつけたような、ヒリヒリした感じ……。頭痛、って感じはしないけど」


 すると、ふっとエリは息をついて


「よかった……。本当にすごい倒れ方だったんだよ? 優希くん」

「そうなの?」

「映画のスタントマンみたいだった」

「そ、そうなんだ……」


 僕は笑っていいのか否か迷った。けれど、エリは安心してくれたようだ。

 これでいいのか。僕は差し伸べられたエリの手を握り返し、立ち上がった。

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