第6話

「少し優希くんと二人きりでお話をさせていただけますか、お父様」


 ヒステリーを起こした母から目を逸らし、ドクターは父に向かってそう言った。


「お医者様がそうおっしゃるなら、仕方がありません。待合室に戻ります。ほら、母さん」

「だってあなた、優希が病気だなんて! 私はどうしたら……」

「いいから! 立つんだ母さん」


 母は父に肩を支えられ、嗚咽を漏らしながら出て行った。

 父は振り返り、複雑な眼差しを僕に向けた。しかし何を訴えていたのか分からない。それは今も、時折僕の脳裏をよぎることだ。


「さて、優希くん」

「はい」


 僕はしっかりと背を伸ばし、ドクターの視線を受け止めた。


「ご両親が退席されて、不安はないかい?」

「大丈夫です」


 ドクターはこくこくと頷いた。何かを手元のカルテに書き込む。

 実際、僕も無理をしていたわけではない。むしろ、両親がいなくなって肩の荷が降りたような気すらしていた。


「ええと、昨日の夜中に自室で暴力行為に走った、と」

「はい」


 ふむ、と息をついてドクターは、じっと僕の目を覗き込んだ。包容力を持ちつつも、何かを探るような目だ。僕は僅かに手の位置をずらし、包帯の巻かれた右手の拳を隠した。

 するとドクターはふっと笑みを浮かべ、


「そんなに緊張しなくてもいいよ。君と私の間で交わされる言葉は、このカルテ以外に記録されることはない。このパソコンにもね」


 今、ドクターのデスクに置かれたパソコン上では、スクリーンセーバーが起動していた。このクリニックの名前とロゴマークが現れては消える、を繰り返している。

 僕はそれに一瞥をくれてから、ドクターと再び視線を合わせた。

 ドクターは背もたれにもたれかかり、リラックスした調子で言葉を紡いだ。


「最近、何かあったかい? どんな些細なことでもいい。嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと、ムカついたこと……」

「そう、ですね」


 僕は首を傾げて見せた。特にこれといったことは……。いや、ある。


「先日のテストの成績が振るいませんでした。高校入試対策試験で、学校ではなく教育関連企業が主催したものです。試験なんて、専ら学校の教室で受けていたものですから、余計に緊張してしまって……」

「なるほど」


 再びメモを取るドクター。


「手応えがいまいちだった、かな?」

「……はい」


 僕は俯いた。

 大人から注がれる視線、というものが恐ろしかったのだ。


「結果はいつ来るんだい?」

「あ、もう来ました。両親の薦める東京の高校を狙うには、とても点数が足りません」


 以前は『これではいけない』『もっと頑張らなくては』と思えたのだけれど。


「その結果が来たのはいつ?」

「三日前です。そうしたら、次の日からベッドに寝たきりみたいになって……」


 ドクターは再び『なるほど』と言って頷いた。


「君のような人は、決して少なくはないんだ。もちろん、年齢層も様々。老若男女問わずね」

「そうなんですか?」


 正直、僕は少し驚いた。

 その気持ちが顔に出たのだろう、ドクターは僕を安心させるように数回瞬きをし、


「君の場合は、『頑張り過ぎ症候群』とでも言えばいいのかな? 優希くんは実に真面目で紳士的だ。理論的に話をすることもできるし、こんな場所にいても冷静さを保っている」

「あ、ありがとうございます……」

「礼には及ばない。私の客観的な見方だ」

「はあ」

「しかし、それはいいことばかりではないんだ」


 ドクターは、微かに眉根に皺を寄せた。


「君は真面目すぎるのかもしれない。こんな思いに囚われてはいないかい? 『これをやらなければいけない』『こうでなくては駄目だ』『もっと自分は頑張れるはずだ』とか」

「あっ……」


 僕は目を丸くした。あまりにも、ドクターの指摘が適切だったからだ。

 思えば僕は、ずっと言われてきた。


『真面目すぎる』『考えすぎだ』『几帳面すぎる』等々。


「人間の心というのはね、ラクダに例えられるんだ。あの砂漠で遊牧民に飼われているラクダだよ?」


 僕は頷いた。


「遊牧民は、ラクダの背中に荷物を載せる。けれど、ラクダにだって体力の限界がある。もし、荷重ギリギリのところで藁を一本載せられたら、ラクダはどうなると思う?」

「えっと……」


 確かに、ラクダの体力ギリギリのところでさらに重さをかけられれば、ラクダはギブアップしてしまう。しかし、それがたった一本の藁だったら? そのくらい、何も変わらないのではないか。でもやはり、『荷重ギリギリ』という言葉は僕の脳内に引っかかった。


「……よく分かりません」

「そうだね。確かに君には、考えすぎのきらいがあるのかもしれない」


『まあこれは一般的な例え話だけれど』と前置きして、ドクターは続けた。


「ラクダの背中は折れてしまう、というのが答えだ」


 ああ、やっぱりそのまんま考えればよかったのか。


「この例え話は、人間の精神力に関わるものなんだ。ある日突然、プッツリと緊張の糸が切れてしまう。それが昨日、君が陥った状態なんだよ、優希くん。君の努力は君自身の首を絞め、この世の中を生きづらくしている。まずはそれを自覚するのが大切だ」

「僕が自分で自分の首を絞めている……?」

「そう」


 短く答えるドクター。いつの間にか、彼の顔には一抹の懸念が浮かんでいる。


「君はいろんなことを背負い込みすぎている。もっと自由に、気ままに生きてほしい。何も、学歴だけが人生の全てではないのだから」


 ドクターは姿勢を正し、『君はまだ若いんだから』とつけ加えた。


「では、ご両親ともお話しようか」


         ※


 それから、僕はカウンセリングと投薬で自分をコントロールすることになった。志望校のレベルはやや下がったが、僕はこの瀧山高校を気に入っているし、特に後悔や未練はない。

 そのお陰で順二とも腐れ縁でいられるわけだし、都会のど真ん中にあるような高校よりは、自然に囲まれたこんな高校の方が僕は気が楽だった。


 それ以降、僕の病状は軽くなった。食欲も出てきたし、ゆっくり睡眠を取ることも可能になった。まあ、それは多分に投薬のお陰なのだけれど。

 

 そんなことを考えている間に、いつの間にか五時間目も六時間目もあっという間に終わった。しかし何を習ったのかはおろか、どの科目だったのかも僕の頭には残っていない。


「おーし、ホームルームやるぞー」


 といつものように石塚先生が入ってきた。


「今日からもう宿題出たよな。二年生は中だるみの年だから、先生たちも厳しくいくぞ。ちゃんとやってくるよーに! 解散!」


 キレ味抜群のホームルームのお陰か、皆は号令もなく『さようなら』と告げて自分勝手に行動し始めた。

 すると先生は、教科書を詰め始めたエリの元へと歩み寄った。しゃがみ込んで話し始めたのは、エリと視線を合わせるためだろう。

 先生にしては珍しく小声だったが、『春島と一緒に職員室へ』という言葉は聞き取れた。

 僕はこちらを向いた先生に頷いてみせた。職員室へ同行することに同意した、との意味を込めて。


「で、春島!」

「は、はい」


 自分の机に着くや否や、石塚先生は僕とエリを並んで立たせた。回転椅子を回してこちらを向く。


「いずれお前には伝えようと思っていたが……。竹園はちょっと病気がちでな」

「精神的なもの、ですか」


 僕は小声で確認する。『うむ』と唸るように肯定する先生。


「お前を竹園の世話役にしたのは、お前も同じ悩みや生きづらさを感じているだろうと思ってのことなんだ。幸か不幸か、私は鬱病のことは分かっても、実感は持てないでいる。一番の適任者はお前なんだ、春島優希。改めて、竹園エリの心の支えになってやってほしい。頼めるか?」


 僕は大きく頷いてみせたが、


「一つ確認したいのですが」

「何だ、春島?」


 ゆっくりエリの顔色を窺いながら、


「僕、竹園さんの助っ人、ってことでいいかな?」


 するとエリは、何の抵抗もなく微笑んで見せた。


「うん。春島くん――優希くんなら」

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