第5話

 翌日、昼休み。


「いやー、昨日からハードだったよ、優希くん」

「それは大変だったなあ、順二」


 僕はいつものように、順二と並んで弁当を食べていた。今日は火曜日。野菜中心のラインナップだ。

 小さなチューブからドレッシングを絞り出し、キャベツの千切りにありつく。糖分になるご飯を食べるのは後回し。血糖値が上がるのは身体によくない。


 順二から聞いたところによると、今年の三年生のキャプテンは随分『熱い』男らしい。インターハイ出場も視野に入れて、根性論でどうにかしようとしている、とか。それをマネージャーである女子の先輩に諭されて、水分補給や適度な休憩などを取り入れるつもりにはなったそうだが。


「お前自身はどうなんだい、順二? 無理して身体壊したら大変だよ?」

「その辺は心配いらないよ」


 順二は顔の前で手を振った。


「僕だって鍛えてるからね。優希くんが読書をして頭を鍛えてる間、僕は筋トレで身体の鍛錬をしてるんだ」


 すると順二は箸を置き、


「ほら、見てくれよこの力瘤!」

「おいおい、そんな小学生がやるようなこと、しなくていいよ……」


 僕は呆れたが、確かに順二の上腕は健康的に隆起していた。日々の努力の賜物だろう。

 

 その時だった。一人の女子が、僕の机に向かって歩いてきた。


「春島くん、竹園さんがどこに行ったか知らない?」

「え?」


 僕は女子から目を逸らし、正面に顔を向けた。確かに、エリの姿は見えない。


「ごめん、分からないな」

「そうかあ。今日は一緒にご飯食べて、いろいろ質問したかったんだけど……」


 礼を告げて、女子は僕の机を後にした。


「竹園さん、本当にどうかしちゃったのかな……」


 やたらと心配げなのは順二だ。急に食欲がなくなったようにも見える。


「おいおい、君まで落ち込まないでくれよ、順二。鞄も机のわきに提げてあるし、五時間目の前には戻ってくるよ」


 とは言ったものの、確かに僕も気になり出していた。

 時計を見上げると、昼休みはあと二十分ほど。

 もしかしたら――。


「ちょっとトイレ行ってくる」

「あ、うん」


 そう言って僕は何気ない風を装い、速足で廊下に出た。そのままスピードを緩めずに階段を上がる。着いた先は、


「まさか、いや、でも……」


 そこは、屋上へ繋がる扉の前だった。今の時間帯なら、誰も、天文部の先輩でさえも滅多に来ない。しかし、いやだからこそ、エリは一人になりたくてここに来ているのではないか。


 僕は、『もし自分が転校生だったら』という状況を想像した。確かに質問責めに遭うのは気苦労が多いだろうし、何より知らない人に囲まれるのは、あまりいい気分ではないだろう。今まで生活してきたのとは異なる国で、ともなればなおさらだ。言葉が通じるだけマシかもしれないが。


 だが、躊躇っていてもしょうがない。エリがどうしているのか気になって、ここまで探しにきたのは僕なのだから。

 ん? 待てよ。何故彼女のことが気にかかるんだ? 石塚先生から勅命を受けたからか?

 確かに、そういう面もあるだろう。石塚清美先生には、他の先生より何倍もお世話になっているという自覚がある。僕自身も、僕の両親も。

 かと言って、今こうして屋上への階段の前に立っているのは僕自身の意志だ。彼女のことが気にかかってしょうがないのだ。

 教室を出るまではそんなことなかったのにな……。


 試しに僕は、エリの顔を想像してみた。同時に自らの左胸に手を当てる。心拍数は――安定しているな。順二のように『一目惚れ』なんて馬鹿なことが起こったとは考えにくい。

 しかしそう考えれば考えるほど、分からなくなってくる。

『何故僕は竹園エリのことが気になっているのか』ということが。


 ええい、考えてばかりでは埒が明かない。僕はさっさと、しかし極力音は立てずに階段を上りきり、屋上への扉のノブへ手をかけた。

 ゆっくり回して、身体の側面全体でじりじりと扉を開いていく。すっと春の陽光が僕の目に差し込む。そこに広がっていた光景は――。


 半分は僕の予想通りだった。

 そこには、竹園エリがいた。ちゃっかり僕の机を拝借し、持参した水筒に口をつけている。

 昼食はここで食べたのだろうか。これではぼっち街道に突入してしまうが、いいのだろうか。

 だが、僕のそんなくだらない考えは、次の瞬間に払拭されることとなった。

 エリはコンビニ弁当の空容器を大きめの巾着袋に仕舞い、代わりにあるものを取り出した。


 それはまごうことなく、精神安定剤だった。


「!」


 僕は驚き、その拍子に身体の重心が動いて、扉をギッ、と鳴らしてしまった。

 はっとして振り返ったエリと、バッチリ視線が合ってしまう。

 まずいところに出くわしてしまった、という思いが腹の底から胸を焼く。見なかったことにすることはもうできない。一体どうしたものか――。


「あ、あの、竹園、さん」

「……」

「ごめん、驚かせるつもりじゃなかったんだ。今見たことは、誰にも言わないよ」


 すると僕は、エリが何かを言いかけるのを無視して扉を閉め、慌てて階段を駆け下りた。その途中で、


「こら春島!」

「あっ、先生……」


 いつの間にか背後に来ていた石塚先生に、肩をむんずと掴まれた。


「何かあったんだな? というか……知ってしまったんだな?」


 僕は先生の方に向き直り、沈黙をもって肯定した。

 すると先生は腕時計に目を落とし、


「あと七分で五時間目か……。仕方ない、放課後になったら一緒に職員室に来てくれ」


 そう言って、わきに挟んだファイルを抱え直しながらすたすたと歩き去ってしまった。

 竹園エリに石塚先生。一体何があったのだろうか?


 僕が教室に戻ると、エリはいつの間にか自分の席に着いていた。相変わらず女子陣がその周りを囲んでいる。

 僕はエリと目を合わせないよう、気をつけながら自分の席に戻った。

 予鈴が鳴り響き、生徒たちは三々五々席に戻っていく。その隙間から覗いた淡いピンク色のスカーフ――エリが昨日つけていたのと同じだ――が、やけに印象に残った。


 どうして僕が、屋上でエリの飲んでいる薬の正体が分かったのか。それは、僕が通っている精神内科のものと同じ、濃紺色の袋に入っていたからだ。

 彼女も精神疾患を患っている。そう、彼女『も』なのだ。

 僕はその精神科に、初めて通院したことを思い出していた。


         ※


「鬱病と強迫性神経症ですね」


 ドクターは淡々と、しかし礼儀を弁えた態度でそう告げた。その正面には僕が、後ろには両親が座っていた。が、


「そんな酷い病気なんですか!?」


 ヒステリックな声を上げたのは、母の方だった。


「この子は受験生なんですよ!? もし高校受験に支障が出たら……!」

「まあ座ってくれ、母さん」


 父の言葉に、母はゆっくりと腰を下ろした。僕の両親は互いのことを『父さん』『母さん』と呼んでいる。


「失礼しました、先生。しかしこの子の――優希の病気はいつ治るんですか?」

「それは何とも言えません」


 ドクターの眼鏡が一瞬光を反射した。


「今勉強させなければ、来春の高校入試に向けた勉強ができなくなります。どうにかなりませんか?」


 するとドクターは、薄くなった頭部をつるりと撫でながら


「それは何とも言えませんね……。こういう病気の場合、一番いいのは休養することなんです。しかしそれと逆行する形で『もっと勉強する』というのは、正直お薦めできません」

「それでは困ります!!」


 母が叫んだ。ハンカチで目元を拭っている。


「私たちはこの子の面倒をずっと見てきたんですよ!? 幼稚園の頃から一流の大学を目指して頑張って勉強させてきたのに……」

「それが原因かもしれませんね」


 ドクターは、母とは違って飽くまで淡々と答えた。

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