第3話
放課後、エリは女子群によって質問責めに遭っていた。
聞こえてくるのは、主にイギリスのことと、エリの家族のことだ。すぐ後ろでぼんやり読書をしていた僕は、大まかにエリのことを知った。
彼女が住んでいたのはロンドン。月曜から金曜までは地元の小・中学校、土曜は日本人学校へ通学。父親の仕事の都合で六年間、すなわち小学四年生の頃に渡英。帰国したのは、自己紹介でも言われていた通り一週間前。
他のクラスメートが気づいたかどうかは分からない。だが、僕には分かった。エリは結構、いや、かなり頑張っている。無理をしていると言ってもいい。
それはそうだ。生まれ育った土地とは言え、六年ぶりにはるばる帰ってきた場所だ。どんな風にこの国が変わったのかは測りかねる部分があるだろう。加えて自分たちは、いわゆる思春期のど真ん中だ。デリケートな人間関係、というものも意識しているかもしれない。
「こーらー! 興味があるのは分かるけど、いい加減エリを解放してやれー」
石塚先生が割って入ってきた。するとエリを囲んでいた生徒たちは、素直にその場を離れていく。『またねー!』とか『これからよろしくね!』という明るい声が弾ける。
僕は耳を傾けつつ、文庫本から目を離すことはしなかった。
が、しかし。
「よっと!」
「あ!? 先生!?」
僕の手元から文庫本が取り上げられた。
「なになに……。ほう! 夏目漱石の『こころ』じゃないか! 今から現国の予習をするとは賢明だ」
「ちょっ、返してください!」
「まあ待て、春島。少し話があるんだ」
先生はやや声を低めた。追い散らされたクラスメートたちは、既に大方が廊下に出ていくところだった。
すると空気を読んだのか、順二もまた
「僕は部活に行くよ、春島くん」
「あ、ああ。頑張って」
頷き返すと、順二は先生に向かって『今年もよろしくお願いします、石塚先生』とにこやかに告げた。
「おう! 小河も陸上部、頑張れよ」
軽くガッツポーズを取って見せる先生。順二ははにかみながら振り返り、教室を後にした。
「で、春島!」
「は、はい!」
先生は横から僕の机に両手をつき、ずいっと顔を近づけた。
「ち、近いですよ先生!」
と言いながら視線を逸らすと、もう一つの視線と目が合った。
エリの瞳だった。
彼女は椅子を九十度ずらし、僕と先生の話を聞いている。そしてどこか申し訳なさそうに俯いた。
どうしてエリはこの話を聞いているんだ? 彼女に関係があることなのか?
すると、待ってましたとばかりに先生は、
「春島優希! 貴公に竹園エリ嬢の、天文部での活動支援を命ずる!」
……は?
僕は呆気に取られて先生と目を合わせた。先生は右手の人差し指を立てて、楽しげに口の端を上げている。
僕のことは、読書ばかりしているようにクラスメートたちは思っている。しかし、完全なインドア派というわけではない。ほぼ毎日、僕は学校の屋上で、天体観測に勤しんでいるのだ。
この学校の最弱部・天体部。部員は三名。僕と先輩が二人だ。必要な器具と言えば、星座早見表とレトロな天体望遠鏡が一つ。毎晩勝手に活動しているが、毎日夜八時には下校するようにしている。
こんな弱小部が活動できるのは、やはり私立高校としてのサービス精神があるからなのかもしれない。
まあそれはいいとして。
「竹園さんを天文部に勧誘する、ってことですか?」
「勧誘ではない。入部決定だ」
あまりにも断定的な先生の口調に、僕は少しばかり抵抗を覚えた。
エリの意見も訊かずに、勝手に決めていいものなのか。
しかしエリはと言えば、何かを訴えかけるような目で僕を見つめ返していた。それは今の状況を肯定するものだと、僕には感じられた。
それでも、
「竹園さん自身は、天文部に興味があるんですか?」
同級生とはいえ初対面の異性だ。僕は敬語でエリに話しかけた。すると、
「はい。空を見るのは大好きです」
だんだん落ち着いてきたのか、エリははっきりとそう述べた。すると先生が
「どう? 六年ぶりの日本の空は?」
「どこか柔らかい感じがします。雲です。雲ができたり、くっついたりするのを見るのが好きです」
エリの回答に、満足気に頷く先生。
「ま、そういうわけだから! 今日からよろしく頼むぞ、春島!」
「きょ、今日からですか?」
僕が疑問を口にすると、教室から出ようとしていた先生は振り返り、
「嵐山も風間も、もう屋上に着いてると思うぞ? 早く竹園を連れて行って差し上げろ、春島少佐」
「は、はあ」
気づけば、教室には僕たち三人以外、誰もいなかった。先生もまた『じゃあね~』と言って足早に教室から出ていく。
「……」
「……」
流石に異性と二人っきり、というのはいづらいよな……。いざこんな状況で話しかけようと思うと、僕もやっぱり緊張した。ごくり、と唾を飲み、すっと顔を上げて
「あのっ!」
「えっと!」
被った。言葉が被ってしまった。再び俯くエリと、軽く頬を掻く僕。
だが、一応は言葉を交わすきっかけができた。
「た、竹園さん、屋上への行き方は分かる?」
「いいえ」
初めて会話らしい会話が成り立った。
「じゃあ、案内するよ。もう先輩たちも来てるだろうし」
「せん、ぱい……?」
ふっとエリの顔に不安がよぎった。日本は上下関係が厳しい、などと言われてきたのだろう。
「あ、大丈夫だよ。二人とも変な人だけど、根は優しいから」
僕は笑顔を作ろうとしたが、途中で止めた。歪な感情を表出しているようにしか見えないかもしれないし。
「今はまだお昼です。星は見えないと思います」
「そうだね……」
僕は教室前方の時計を見遣った。今は午後一時。始業式とホームルームしかなかったので、暇と言えば暇だ。帰宅部員はさっさと家路につき、熱心な運動部員は昼食を挟んで午後からの鍛錬に備えている。
「少し、歩いてもいい?」
「え?」
提案してきたのはエリだった。突然の言葉に僕は驚いたが、確かに学校の造りは説明しなければならないだろう。
「そうだね。じゃあ、取り敢えず――」
この瀧山高校は、勉学においては少数精鋭の傾向がある。部活動も大いに奨励されているものの、クラス数は少ない。生徒一人当たりの先生の人数が多いのだ。手厚い勉強態勢が整えられていると言える。
そんなことをさらっと説明しつつ、僕は一階から案内することにした。
瀧山高校は、細長い廊下の走る三階建ての建築物だ。大きな高校はコの字型にできているけれど、この高校は一棟のみ。案内は容易だった。
「ここが昇降口で、左側に並んでるのが職員室と事務員室。それから一年生の教室が並んでいて、一番奥にあるのが保健室。手前の少し広い部屋が校長室なんだ」
僕はさっさと説明した。別に面倒だったわけではないけれど、造りがシンプルすぎて説明のしようがなかったのだ。
「二階は見てもらった通り、二年生の教室と自習室。三階もあんまり変わらないけど……。もう屋上に行こうか?」
「ちょっと待ってください」
エリは立ち止まった。
ふと振り返ると、
「給食は……出ないんですか?」
「え?」
ああ、そうか。日本の学校では給食が出る、と思ってしまっていたんだな。
「高校ではあんまり出ないんだ。お弁当、ある?」
首を横に振るエリ。
「お父さんやお母さんからは何も聞いていないのかい?」
「はい。給食が出るか、あるいは自分で調達するようにと」
ふうん、と僕は何気ない様子を装った。そう、心から納得したのではなく、違和感を覚えたのだ。
「竹園さん、君は――」
「はい?」
エリはきょとん、とした顔でこちらを見返してくる。
「ああ、いや。もしご飯がないんだったら、そこのコンビニで買ってこようか?」
「コンビニ、私入ったことがあんまりなくて……」
「大丈夫、一緒に行くよ」
するとエリは微笑んで、
「ありがとう」
と言った。
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