第2話
三ヶ月前。
その年の春、高校二年生になったその日のこと。
「おっはよー、優希」
「ああ、おはよう」
「ういーっす」
「おはよう」
「よっ、優希! また数学の宿題見せてくれよ!」
「おはよう。うん、構わないけど」
僕は教室中央の自分の席で、文庫本を読んでいた。
眼鏡に痩せ気味、おまけにチビ。自分から発言することはそうそうない。
普通だったら、ぼっち街道一直線だったかもしれない。それでも構わなかったけれど、そんな僕にクラスメートたちは気軽に接してくれる。僕はそれなりに、皆に感謝していた。
関東内陸部のド田舎に位置する、私立瀧山高等学校。
春休み明けだというのに、宿題に疑問符ばかりをつけた生徒たちで教室は溢れかえっている。それだけ進学実績があるわけだが、僕はそれよりも読書の方がよほど有意義に思えてならなかった。
今から『東大合格!』なんて文字の入った鉢巻をして授業に臨んでいる生徒もいるが、僕はさして興味がなかった。だって今この瞬間にも、世界中で事件や事故、果ては戦争や自然災害が起きているのだ。自分がいつ、何に巻き込まれるか分かったものではない。
そんな不確定なもの、皆が『将来』と呼ぶものに、一体どれほどの価値があるのか、僕は測りかねていた。
まあ、それのどこまでが僕の『性格』で、どこまでが『病気』の影響なのかは分からないけれど。
僕が文庫本を置き、ふっとため息をついた時だった。
「やあ、春島くん」
「ああ、順二。久しぶり」
僕は口元をほころばせながら、隣の席に座り込む親友に顔を向けた。
小河順二。小学校時代からの腐れ縁だ。
「また同じクラスだね、春島くん」
「いい加減呼び捨てにしなよ、僕のことは。何だか他人行儀じゃないか」
「だって呼びづらいよ」
順二はひらひらと手を振った。
「それに、好きなように呼んでくれって言い出したのは春島くんの方じゃないか」
「ま、まあそうだけど……」
僕より上背も肩幅もあり、バリバリの陸上部である順二。だがその心根は実に繊細だ。体育会系の部活に熱中しながらも、本当は僕のような人間と話した方が気楽なのだろう。
「ところで聞いたかい? 転校生が来るらしいんだ」
「へえ。そう」
僕は再び文庫本を立てた。
「興味ないのかい?」
どこか探りを入れるような声音の順二に、
「読書の邪魔さえされなければ、僕は誰が来ても構わないよ」
と言い返しておいた。
「相変わらず淡白だなあ、春島くんは」
余計なお世話だ。
と、ちょうどその時、
「おーいお前ら! 始業式前に連絡事項言うから、しっかり聞いとけー!」
意気揚々と入ってきたのは、担任の石塚清美先生だ。僕にとっては、一年生の頃から引き続きになる。
バン! と教卓に両の掌をつき、勢いよく振り向く。合わせて長いポニーテールが揺れる。
それなりに美人には見えるのだけれど、勝気な性格が災いしてか、あまり男性からのアプローチはないらしい。
僕は素直に文庫本を閉じた。石塚先生の大声での前では、読書などできたものではない。それに、個人的に特にお世話になっている自覚がある。引け目を感じているといってもいい。
取り敢えず、僕は先生の前では堅実な生徒でいようと思う。間違っても、
「清美ちゃーん、三十路にもなって彼氏できないのおー?」
と大声で茶化すような真似はしない。
直後、殺人的速度で飛翔したチョークがその男子の眉間を直撃、昏倒させた。
相変わらずの光景に、皆がため息をつく。
「おっと、始業式前に一つ、重要な連絡―! 転校生を紹介するぞー!」
見ず知らずの転校生に、僕は同情した。こんな大々的に宣言されては、さぞ教室に入りづらいだろう。僕は机の上で指先を弄びながら、視線を下ろした。
「はいっ! 竹園エリちゃーん!」
微かに『はい』という返事が聞こえたような気がする。名前からして女子か。しかも気が弱いとあっては、何とも気の毒なシチュエーションだ。
その時、僕はふっと目を上げることになった。周囲がざわついたからだ。
真っ先に僕の目に入ったのは、彼女の淡いブルーの瞳だった。純粋な日本人ではないようだ。片親、または祖父母のうちの誰かが外国人なのだろう。
髪は綺麗に背中に流れる長髪で、色は黒い。また、小さな口元が彼女の気の弱さを表しているように見える。俯いているとなればなおさらだ。
もう一つ特徴的なことがあるとすれば、左手にスカーフのようなものを巻いていることだ。季節に合わせてか、淡いピンク色をしている。目立ち過ぎず、地味過ぎない。趣味がいいな、と僕はぼんやりと思った。
「それじゃ、自己紹介いってみようか!」
すると、彼女は僅かに肩を震わせて、
「竹園エリ、です。日本人です。父方の祖母がイギリス人です。六年前から先月まで、イギリスに住んでいました。日本のことはよく分かりません。よろしくお願いします」
ゆっくりとお辞儀をする彼女。不慣れながらも、一言一言を噛み締めるように語る姿は、とても健気で印象的だった。
すると、はっと我に返ったかのように、皆がパラパラと拍手をし始めた。僕も合わせて掌を打つ。
ふと横を見ると、
「……順二?」
順二が、固まっていた。見惚れていたのだ。竹園エリなる女子に。顔は真っ赤で、口はポカンと開けられている。
昔から、順二にはこんなところがあった。誰彼構わず、とまでは言わないが、惚れっぽいのだ。その心持ちだけは直してほしいと、僕は思っている。
僕が小突いてやると、
「ほらそこ! 勝手に身動きするな!」
と先生が指をさす。
身動きするなって……。それは言い過ぎだろう。だが、先生の口元はニヤついている。それをギャグと受け取ったのか、教室全体の雰囲気が緩み、笑い声が木霊した。竹園も――エリも少し肩の力が抜けたようだ。
「ってなわけで、竹園さんの席は……そこ!」
先生の指さした先。そこは、誰も座っていない席だった。ちょうど俺の真ん前にあたる。
「はい! 春島優希!」
「は、はいっ!?」
僕は慌てて顔を上げた。
「学級委員として、竹園エリ嬢の身辺警護の任を与える! 名誉職であるぞ!」
「どこがですかっ!」
僕は立ち上がって抗議した。先ほどよりも大きな笑いが、教室に響く。ただ、それは純粋にこの状況を面白がっているためだ。いじめでないことは、この僕が一番よく知っている。
――だからこそ家には帰りたくないんだけどな。
そんなことを思っている間に、先生は
「それじゃ、この任務は春島少佐に一任する!」
じゃああんたの階級は何なんだ、と言いかけてやめた。このノリの石塚先生に下手な話題を振ると、取り返しのつかないことになる。延々ロボットアニメの遍歴を聞かされることになるのだ。
「それでは! 立てよ若人よ! 今こそ体育館に、我らの足跡を残す時が来たのであーる!」
先生は右腕の拳を勢いよく宙に振り上げた。
※
始業式が終わり、皆がダラダラとした足取りで教室に戻っていく。一応列を組んではいるが、『また学校が始まる』という事実は何とも言えない倦怠感をもたらす――はずだった。
しかし、僕たち二年B組は違った。やはり転校生が来たというのは、この片田舎の高校にあっては大事件には違いなく、他クラス、A、C、D組にも波及しかけていた。
「ねえねえ、どの子?」
「どこから来たんだ?」
「帰国子女だって!」
「マジ? カッコいい!」
B組の出入り口に集まった連中を、
「おーら、ホームルーム始めるぞー」
と言って石塚先生が蹴散らす。
ホームルームでは、今年度の主な日程についてのプリントが配られた。前の席から、エリがおずおずと振り返り、プリントを渡してくれる。
僕は口の動きだけで『ありがとう』と伝えてみた。
するとエリはこくり、と頷いて、すぐに前方へと視線を戻した。
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