それは正に病そのものだった
彼は変わってしまった②
「私が彼から聞いた話は、これだけです。兄は、旅先に立ち寄った屋敷で不思議な住人達と出会い、四日間という僅かな時間ではあったけれど、同じ時を過ごした。そして、滞在してから四日目の日に屋敷から逃げ出した。そして、故郷であるこの村でアトリエを構え、この絵を描き上げて亡くなってしまった。周りでは、兄は人ならざる者に呪われたのだと言われていました。絵を描き上げてからは、そういった声が更に大きくなりました。まあ、今となっては真相は闇の中ですが」
久方ぶりの長話を終えて、リディが小さく息を吐く。当時の様子は、何十年経った今でも鮮明に思い出せる。
突然、村に帰ってきた兄のディータ。しかし、彼は別人のように変わってしまっていた。亡くなった両親の墓参りもせずに、ひたすらアトリエに籠ってキャンバスに向かっていた。
何日も、何週間も何年間も。何も食わずに、水すら飲まずに。あれを、呪われていると言わずに何と言うのか。取り憑かれてなどいない、とはどうしても言えなかった。
ただ、リディは信じている。
兄は、ディータは。その絵を描いている時、確かに『幸福』であったと。
「何が、兄をあんな風にしたのかはわかりません。ですが、兄は確かに幸せでした。たとえ、その幸福が彼を絞め殺したのだとしても。ディータの人生は、決して無駄ではなかった」
「……その幸福の産物が、何人もの人間の命を奪ったとしても? お婆さんは、お兄さんを許せるの?」
「ええ。それが、私の『幸せ』ですから」
投げかけられた問い掛けに、リディは迷わず頷いた。そう。ディータは愛するたった一人の兄で、恵まれない寂しい人だった。
画塾で居場所を追い出され、才能を誰にも見つけて貰えずに。でも、最後の最後で彼の才能は満開になった。結果としては、多くの人間の命を奪う呪いの絵を生み出してしまったが。
率直に、大好きな兄がやっと幸せを手に入れられた。それが、どうしようもなく嬉しくて。これこそが、リディの『幸福』だったのだから。
「……お前には、旦那も子供も居ないと聞いたが。それは、兄の絵のせいだろう? それでも、お前は自分が幸せだったと言えるのか?」
「幸せなんて、人それぞれですよ。家族が欲しかった、子供を育ててみたかったという思いもあります。後悔は尽きません。でも……それでも、私は幸せです。唯一の心残りであった、絵も引き取って頂けましたし。改めて、お礼を言わせてください。絵を貰ってくださり、本当にありがとうございます」
「あはは! こちらこそ、絵を譲ってくれてありがとう。お婆さん、あなたのことはきっと……神さまが見守っていてくれているよ」
「ふふっ。神父さまにそう言って頂けると、本当にそうだと思ってしまいますね」
思わず、リディは笑みを零す。それにしても、驚いた。この絵を欲しいと言ってくる者が現れたこともそうだが、それがキャソック姿の青年と軍服の男だなんて。二人の異様な組み合わせに、最初こそ面食らったものの。今では見惚れてしまう程に二人には不思議な魅力がある。
……それに、
「そういえば、見るなと言った手前で何ですが……兄の絵にも、神父さまと軍人さんが描かれているのですよ? それと、黒いドレスを着た女の子も。お揃いですね、ふふっ」
「へえ、凄い偶然だねぇ」
「おい、クリス。そろそろ帰るぞ、日が暮れちまう」
「はいはい。べるべるってばこういう時の時間にはうるさいよねぇ?」
普段はルーズなくせに。キャソックの青年が、これ見よがしに溜め息を吐く。そんな彼を気に掛ける様子もなく、軍服の男がジェラルミンケースを左手に持った。リディはその中にしまわれた、形見の絵に思いを馳せる。
きっと、もう二度と見ることはないだろう。伸ばしそうになる手を、必死に押し込めて。リディが言った。
「では、その絵を……ディータの最初にして最後の作品を、よろしくお願いします」
深々と頭を下げて。不思議な二人組に、思いを託す。どうしてかはわからないが、リディには今までに感じたことの無い類の安堵感に胸を満たしていた。
収まるべき場所に収まったのかもしれない。そうでしょう、ディータ兄さん? 二人が立ち去って、今度こそ何も無くなったアトリエの中で。リディは静かに天井を見上げて、静かにそう言葉を紡いだ。
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