【三章】幸福を嫌悪する悪魔

芳しい毒

絵描きは悪魔の絵を描く①


 屋敷に来てから三日目。今朝も降り続く雨に、ディータは安堵の溜め息を漏らした。

 特に先を急ぐ旅ではないから、止まない雨の中を無理に出発する必要はない。無償で世話をして貰っているということに罪悪感は抱くものの、まだこの屋敷に居られる口実が出来たことが素直に嬉しかった。

 それに、ディータにはやるべきことが出来た。ここに住むクリスとベル、そしてセシルの三人の絵を描かなければ。クリスが望んだことであり、ディータに出来る唯一の恩返しなのだから。持てる技術の全てを注ぎ込んで描き上げなければ。

 ……だが、そのためには先ずやるべきことがある。


「うーん……やっぱり、一度はモデルになって貰わないと描けないよなぁ」


 スケッチブックと鉛筆を片手に、ディータは屋敷の中をうろつく。正直、困り果てていた。クリスは親しみやすい性格だったから良かったが、他の二人はそうではない。

 セシルは連日の雨に「洗濯物が乾かない」とこれ見よがしに不機嫌だったから、頼み事をする勇気が出なかった。ベルに至っては一昨日から姿を見ていない――昨夜は朝早くに出掛けて、夜遅くに帰ってきていたらしい――こともあり、探すことすら抵抗を感じてしまう。

 何より、昨日のクリスの話が脳裏に強く焼き付いてしまっていた。配偶者が居ながら、クリスを囲いこの屋敷で暮らす悪魔。悪魔、という存在自体に恐れを感じることもあって、とにかくベルのことが恐ろしくて堪らない。

 せめてクリスが一緒に居てくれれば。そう思って探しているのだが。彼もまた、共犯だ一度も姿を見ていない。


 一夜経ったにも関わらず、時折ふわりと香るクリスの残り香に一々心が踊ってしまう。そう、ディータは滑稽なくらいに油断してしまっていた。


「……おい、絵描き。こんなところで何を間の抜けた顔をしてやがる?」

「へ? ……うわっ! べ、ベルさん!?」


 突如、背後から聞こえてきた声にディータは反射的に飛び上がるようにして驚いた。浮かれていた気分を、冷水が押し流してしまうのを感じる。

 そこに居たのは他でもない、呆れ顔でこちらを見下ろしているベルだった。一昨日と同じ軍服姿、背丈はディータよりも頭一つ分以上大きい。

 老いながらも、衰えを知らない狼のよう。あまりの迫力に圧倒され、ひっくり返りそうになるのを何とか堪える。


「……え、ええっと。お、おはようございます」

「ククッ、ああ。セシルと言いテメェと言い、人間は早起きだな」


 ニヤリと笑いながら、ベルが言った。咄嗟に挨拶をしたものの、ディータの頭の中は完全に混乱してしまっていた。

 どうしよう。どうやって絵のモデルを頼もうか。否、それよりも先ずはクリスとのことを白状すべきか。クリスに手を出したと言うべきか、秘密にするべきか。

 ……今はとりあえず、様子を見よう。


「あ、あの……ベル、さん。お願いが、あるのですが……その、絵のモデルになって欲しくて。えっと……おれ、これでも絵描きでして。無名ですけど」

「絵? ……ああ、クリスが言ってたな。昨日の夜、嬉しそうにはしゃいでやがったぞ」

「え……く、クリスさんが」


 ぎくり、とディータの肩が跳ねる。まさか……クリスは自ら自分との関係をベルに告げたのだろうか。既にベルは知っているのだろうか。

 ディータが返答に迷っていると、ベルが先に口を開いた。


「仕方ねぇな、クリスが気に入ったんなら付き合ってやろう。スケッチのモデルになれば良いんだろう?」

「え、あ……はい!」

「モデルっていうのがイマイチわからねぇが……しばらく大人しくしていれば良いんだろう? 今日は書類仕事があるからな。そのついでで良いなら、好きにしろ」

「十分です、ありがとうございます!」


 ペコペコと、何度も頭を下げるディータ。まさか、ベルの方から切り出してくれるとは! 安堵と歓喜に胸をなで下ろしていると、不意にベルが踵を返して歩き始めた。

 どうやら、付いて来いと示しているようで。ディータが慌てて小走りで大きな背中を追いかける。


「ベルさん。今日、クリスさんを一回も見ていないんですけど。出掛けているんですか?」

「あ? ククッ、クリスはまだ寝てるぞ。そもそも、吸血鬼も悪魔も夜行性だからな」

「な、なる程」

「ま、そんなことは関係なく。多分、今日は起きて来ねぇと思うぞ。立てるかどうかも怪しいからな」

「え……ど、どうしてですか?」


 ベルの不穏な言葉に、ディータは問い質してしまう。立てない程に体調を崩してしまったということだろうか。どうして、昨日はあんなに元気そうだったのに。

 まさか、自分のせいだろうか。彼に求められるままに、初めて経験する快楽に無理をさせてしまったのだろうか。ディータはあれこれ考えるも、ベルの唇から紡がれた答えは予想だにしないものであった。


 ベルが放ったのは、たった一言だけ。浮かれていた気分に、氷水を浴びせられたかのような感覚に陥ってしまう。


「俺以外の男の匂いが気に食わなかったから、仕置きに抱き潰しただけだ」



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