絵描きは悪魔の絵を描く②
ベルが向かった先は、ディータが一番最初に彼等と出会った部屋だった。どうやら、ここは彼の仕事部屋兼書斎のようだ。
大きな両袖の机の前に腰を下して、何やら書き仕事を始める壮年の悪魔。手元まで覗く勇気は無い。だが、軍服と書斎という組み合わせが想像以上に彼に似合っており、無意識に感嘆の溜め息が零れてしまう。
横暴な男かと思っていたが、こうして見るといっそのこと王さまのような風格だとディータは感じた。部屋の隅にあったスツールに座って、引き込まれるままにスケッチブックを開く。
「……ベルさんって、お仕事とかするんですね」
「おいコラ、この俺様が無職だと思ってたのかよ?」
「い、いいえ! 何ていうか、その……お金持ちっていうか、資産家とか、そういう方だと思っていたので!」
金色の鋭い眼光に、ディータは震えた。正直、意外だった。
「……まあ、金があるっていうのは否定出来ねぇな。軍人時代に荒稼ぎした金が、まだたんまりと残ってるからな。だから、この世界での暮らしだけを考えれば働かなくても当分大丈夫だ。だが、あっちの方はそうでもねぇんだ」
「あっち……魔界、ですか?」
「ほう? 知っていたのか。そうだ。これでも七十二柱の一人だからな、最低限の仕事をしねぇと」
「七十二柱……?」
「んー、何て説明したら良いか……人間の国にも王様とか大臣とか居るだろ。あんな感じだと思えば良い」
かなり簡略化された説明であったが。つまり、魔界は王を含めた七十二人の悪魔によって治められており、ベルはその内の一人ということらしい。
「今は魔界も平和だからな。俺の仕事は、たまに人間界の様子を魔王陛下に知らせてやれば良いだけだ」
「そう、ですか」
どうやら、機嫌が良いらしい。饒舌なベルの声に耳を傾けながら、ディータはスケッチを続ける。だが、思考は徐々に黒く淀み始める。
原因は、この部屋に来る前に放たれたベルの一言。クリスを抱き潰した。その台詞が何度も何度もディータの思考を焼く。
「……どうして軍人さんの服を着ているんですか? クリスさんは、元々神父さんだったからそのまま着ていると言っていましたが」
「ああ、俺も昔は軍人だったからな。俺の場合は、ただ人間のふりをしていただけだが」
「なぜ、そんなことを?」
「魔王陛下の命令だ。今の魔王さまは温厚な平和主義でな、人間界であろうとも争いが続くのは我慢ならなかったらしい。だから、俺を含めた悪魔が何人か派遣された。結論を言えば、それなりに平和的な終戦を迎えられたと思うぜ?」
ベルの言う通り、確かに数十年前までは世界中を巻き込んだ壮絶な戦争が続いていた。血で血を洗うような苛烈な戦いであったが、その幕引きは意外にも友好条約を結ぶという静かで呆気ないものであった。
当時、戦に関わっていた人は今の世界にどれだけ残っているか。……否。クリス曰く、彼は九百年近く生きているというから別段おかしいことは何も無いのだろう。
何にせよ、人間のディータからすればとんでもない話なのだが。
「それに、この服を着てるとクリスが嫌がるからな」
「え?」
「アイツは俺が悪魔だと知りながらも、ずっとあの服を着ているからな。仕返しだ、クククッ」
ベルが強気に笑う。昨日、クリスも似たようなことを言っていたが……お互いに嫌がらせをしていることに気が付いているのだろうか。
否、そんなことよりも。
「あの、ベルさん。クリスさんが言ってたんですけど……神父さんだった頃、あなたに襲われたって。本当……ですか?」
思わず、口を突いて出てしまった。二人の過去。クリスは昨日、ディータを誘惑したと言っていた。だから、その為の嘘だったのかもしれない。
……でも。ベルは、まるでディータからその問いかけが出るのを待ち望んでいたかのように嗤った。
「ああ、本当だ。クリスは嘘を吐かねぇからな」
「……!?」
口角を吊り上げて、ベルは
ディータの中で、小さな火種がくすぶり始める。
「ベルさん、あなたの左手の薬指に指輪が嵌っていますよね?」
「ああ、これか。これがどうした?」
「……人間の世界では、それは配偶者が居るという証です。でも、この屋敷にはあなたの他にクリスさんとセシルさんしか住んでいないと聞きました」
「ははっ、そうだな。魔界でも同じだぜ、これは結婚指輪だ。妻は魔界に居るぞ」
そう言って、ベルが左手をひらりと振った。銀色の指輪が、鈍く光る。
「言っておくが、まだ健在だぞ。あっちでドレスやらカバンやらをデザインする仕事をしている。中々の美人で料理も上手い、自慢の妻だ」
ほんの少しだけ、柔らかくなる笑み。ああ、どうして。今までに何人もの人間をモデルに絵を描き、観察してきたディータだからわかる。ベルは、嘘は言っていない。
間違いなく、彼には伴侶が居て。そして、愛している。魔界から離れた場所に居ながらも、指輪を外さない理由は明らかだった。
なんて、酷い。
「……そんなに回りくどく探らなくても、直接聞いたらどうだ? 既婚者の身でありながら、どうしてクリスを襲ってこんな場所で暮らしているのかって」
「え……」
ペンを置いて、ベルが真っ直ぐディータを見る。決して睨んでいるわけではない。だが、彼の眼光は鋭く射貫くよう。
緊張で息が詰まる。
「図星、の顔だな。悪いが、クリスの言動は俺には全てお見通しなんだよ。昨日、アイツがお前と何をしていたのかも、何を話したのかも全部な。それに、クリスがこの指輪を嫌がっているのも知ってる。直接話したことはないがな」
「……どうして、クリスさんを傷つけるようなことを?」
「お、ようやく本音を出してきたな」
にやりと、凄みのある笑み。もう、無かったことにはできない。ディータは覚悟を決めた。この感情と向き合う覚悟を。
――クリスを傷付けるベルを許さない。
「あなたには奥さんが居ながら、クリスさんの自由を奪い餌として傍に置いている。笑っていたけれど、クリスさんは本当に怯えていました。どうして、そんな酷いことを? なぜベルさんは、あの人の幸せを奪うようなことをするんですか?」
「幸せ、か……確かに、俺はクリスと最初に会った時にアイツを無理矢理襲った。それで怖がらせたのは認めよう。だが……俺は、アイツの幸せを奪ったことなんて一度もねぇよ」
別の見方をしてみろ。ベルが嗤いながら言った。
「話くらいは聞いたことがあるだろう。人は死ぬ寸前に、幸せな夢や幻を見るって。クリスが俺と出会った時もそうだった。アイツは、死ぬ寸前だったんだ」
「え!?」
「生き物は飯が食えないと死ぬだろ? それと同じだ、クリスは餓死寸前だった。吸血鬼にとっての飯は血だ。血じゃねぇと飢えを満たすことは出来ねぇ。人と同じ飯を食っていても、アイツはずっと飢えていたんだ。それを自分では感じることが出来ないくらいまで、アイツは弱っていた」
ベルが言った。クリスは神父として、神に仕えるものとして節制した生活を送っていた。もちろん血なんて、長い間口にしていなかったのだろう。吸血鬼という人外だったからこそ、彼の飢餓状態はゆるやかに悪化していった。クリス自身でさえ、気が付かない程に。
そして、彼は幸福を得た。でもそれは、凄まじい飢えが彼に見せた『幻覚』でしかなかった。
「クリスは言っていたな、自分は神に愛されていたと。だが、お前は知っているだろう? 神は良い意味でも、悪い意味でも平等だ。強い者を抑えることもしなければ、弱者を助けることもしない。神は誰かを愛したりしない。だからクリスが、神に愛されていたことなんて……一度もない」
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