絵描きは吸血鬼の絵を描く②


 クリスの言葉は、呪詛そのものだった。ディータの中で、何かが焼き切れる。遠くの方から聞こえた物音が、スケッチブックを床に落としてしまった音だと気がついたのは随分後のことだった。


 甘い香りが強まり、肺を満たす。そういえば、この香りは一体何だろう? どこから香るものだろうか。


「ディー、タ」


 花……否、蜜だろうか。石鹸や香水とは明らかに違う。そういえば、先程クリスが言っていた。吸血鬼は花のようなもの。美しく咲き誇り、自分の餌となる獲物を誘い込むのだと。なる程、納得だ。

 性別を超越した美貌に、劣情を抑えることなど出来ない――


「んっ……ふふふ、

「え……ええ!? く、クリスさん? おれは、一体何を――」

「えー? 今更とぼけないでよ、そっちから襲てきたくせにさぁ」

「うわわっ!!」


 視界が回る。ふんわりと甘い香りに包まれ、身体は柔らかいベッドに倒される。突然のことに理解が追いつかない。自分は今、何をした?


 どうして、クリスが自分の上に居るんだ。しかも、覆い被さるような形で。


「な、ななな……」

「うーん、久しぶりに誘惑してみたけど……ディータって真面目なんだねぇ」

「誘惑!?」

「うん、そうだよ。ディータにボクを襲わせようと頑張ってたんだけどねぇ。服のボタンを外させるので精一杯だったよ」


 神父の装いは剥がれ、見せ付けられる淫靡な印。白い肌に刻まれたいくつもの紅い痣は、毒々しい程に鮮やかだ。

 先程の怯えた表情は何処へやら。クリスは僅かに頬を紅潮させ、露になった鎖骨を自らの指でつうっと撫でる。不覚にも、喉が鳴ってしまう。


「あはっ、まだ気が付かない? きみはねぇ、今からボクの餌になるんだよ。罠にハマっちゃったねぇ、可哀想に」

「餌って……ええ!? って、ことは今のは全部嘘だったんですか!」

「んーん、あれは全部本当の話さ。ボクは間違いなく神父だったし、ボクを襲って穢したのはベルンフリート。でも……もうそんなことはどうでも良いんだ。ボクが許せないのは、たった一つだけ。彼が絶対に指輪を外さないことだよ」

「ゆ、指輪?」

「ねえ、ディータは気が付いた? べるべるの左手、薬指……指輪が嵌ってるの。あの人ね、既婚者なんだよ。奥さんが居ながら、この屋敷で暮らしてるんだ」


 クリス曰く、ベルの配偶者のことはほとんど知らない。ただ彼の妻は今も魔界――悪魔や吸血鬼などが住まう世界のこと――で暮らしており、ベルは一か月に一度程度の頻度で会いに行くのだそう。

 それ以外のことはわからない。名前も、年齢も。どんなところに住んでいるのか、何をしているのかも。


「でも、多分だけど結構趣味が良くておしとやかな人だと思うよ。いっつも柑橘系の香水付けてるから」

「何で、そんなことを」

「え? だって、べるべるに香りが移ってるからねぇ」


 するりと、冷たい指先が頬を撫でる。


「本当にムカつくよね。彼に穢されたことも、ここに閉じ込めて餌にされることも今となってはどうでも良いんだよ。でもね……あの人が一瞬でもボクのことを愛してくれないことだけが許せない。ベッドの中でも指輪を外さないんだよ? 酷いよね、ディータもそう思うよね」


 だからさ。頬から首筋、そして胸元に辿り着いた手がシャツのボタンを外す。振り払わなければ。彼は人外だが、体格的にはディータの方が勝っている。事実、跨っているクリスは驚く程に軽い。突き飛ばせば逃げられる。


 ……でも、


「く、クリスさん」

「ねえ、ディータ。夜までの間で良いから……ボクの餌になって。ボクの飢えを癒して」


 甘い匂いが思考を、理性を掻き乱す。窓を叩く雨音が遠ざかり、自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。


 恐怖と罪悪感が消え去って。残ったのは、浅ましい欲だけ。


「……おれ、今まで恋人とか居たことなくて。えっと、全然経験が無いんですけど」

「ふふっ、知ってる。だから、きみを誘惑してるんだけど」

「そうでしたね。……それなら」

「……え?」


 視界が再び回る。銀の髪が、シーツに散らばる。驚きに見開かれた瞳がディータを見上げた。

 理性なんて、とっくに焼き切れている。あるのはただ、劣情だけ。欲望の赴くままに、まるで満開に咲き誇る花弁のような紅い痣を撫でる。

 その度に、息を詰まらせるクリスに自然と口角がつり上がる。


「あっ、ひぅ……ディータ」

「色々と、教えてくれませんか? あなたのことを、全部。クリスさんの心の傷を、少しでも癒してあげたいので」


 自分でもわかる、欲に濡れた声で囁く。今、自分がどんな顔をしているかなんてわからない。男同士、しかも吸血鬼であるクリスとこんな交わりを犯すだなんて、許されるわけがない。

 それでも……もう止められないし、彼も自分も止まるつもりはなかった。


 

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