【二章】幸福を失った吸血鬼

悪感情

絵描きは屋敷の絵を描く①


 翌日。夜が明けても、雨は止まなかった。むしろ、昨日よりも酷い土砂降りである。ディータは山を下りるのを諦め、今日も三人が住む屋敷への滞在を許されることとなった。

 とは言っても、朝から昼過ぎになった今に至るまでに顔を合わせたのはセシルだけ。彼女曰く、ディータには雨が止むまで何日でもここに居て良いとのこと。かなり気が引けるものの、結局は彼等の好意に甘える形になってしまった。

 しかし、どうにも落ち着かない。場違い、ということもあるが。


「……あの人達、本当に人外なのかな」


 廊下の隅に座り込みながら、ディータは呟いた。セシルからは、ベルに言われたことを護るならば屋敷の中で好きにして良いと言われたが。金持ちの娯楽を存分に堪能するとか、そんな度胸は無いわけで。

 でも、せめてこの屋敷のスケッチだけはしておきたくて。スケッチブックと鉛筆、消しゴムを手にこうしてずっとスケッチを続けているのだが。頭の片隅に置いてある疑問が、どうしても気になってしまう。


「吸血鬼と悪魔って、本当かな……」


 クリスとベル。確かに人間離れした見た目と雰囲気であったが、だからと言って人外だなんて。映画や小説じゃあるまいし。何度も繰り返し考えながら、アンティークな雰囲気漂う階段を中央に据えた様子を熱心に描き写す。

 時代の流れから切り離されたかのような、時が止まった場所。こんなにも芸術的な屋敷をスケッチ出来る機会なんて滅多にない! 燃え上がるような欲求を感じながら、ポケットから取り出した折り畳み式のナイフを鉛筆に添えた。

 そして、短くなった芯を手慣れた様子で削る。このままでは、鉛筆が足りなくなってしまうかもしれない。そんなことを考えて夢中になっていたからか、ディータは気がつけなかった。


 ふわりと、甘い香りが鼻腔を擽る。


「へえー……ディータって、絵が上手いんだね」

「…………え」


 ギギギ、と油が切れたからくり人形のような動きで、ディータは隣を見る。ここまで歩み寄ってくる足音など聞こえなかったし、そもそもずっと階段や廊下を見つめていた筈なのに。


 彼……クリスは、いつから自分の隣に居たのだろうか。


「う、うわわわ!? く、クリスさん!! いつからそこに!?」

「……ねえ、ディータ。ナイフ、危ないよ?」

「え、あ! 痛っ……」


 毛の長い絨毯の上に、ナイフが落ちる。反射的に、ディータは自分の左手を右手で強く覆うようにして握った。驚いた拍子にナイフが滑り、切っ先で指を切ってしまったのだ。

 じくじくとむず痒いような痛み。見ると、色鮮やかな少しずつ傷口から滲み始めている。幸いにも、大した怪我では無い。しばらく放っておけば血も止まるだろう。

 それよりも、血の雫で絨毯などを汚さないようにしなければ。


「……大丈夫? 痛い?」

「だ、大丈夫です! それよりクリスさん、ガーゼとかありますか? このままだと絨毯を汚してしまいそうで……何なら雑巾とかでも全然良いんで――」

「ふふっ、美味しそうな匂い。我慢出来ないや」

「……え」


 ひんやりとした両手が、ディータの手を包むようにして捕まえる。その双眸は爛々と輝き、舌舐めずりする唇からは鋭い犬歯が覗く。


 まさか。ディータが戦慄するのと同時に、指先を電流のような痛みが伝った。


「っ!? な、なな……く、クリスさん!? 何をしてるんですか!」

「んー……味見?」


 指先を撫でる濡れた感触と、信じられないような光景に眩暈さえ覚える。何の躊躇も無く、クリスはディータの指をパクリと咥え込んでしまったのだ。

 冷たい手とは裏腹に、彼の咥内は熱い。味見、という表現はあながち嘘でもないようで。紅玉の瞳がうっとりと細められる様は、どことなく色めいた表情にも見えてしまう。


 不覚にも、心臓が大きく跳ねる。駄目だ、駄目だ。おれは何を考えているんだ。


「ん……ふふっ、ご馳走さま」

「ご、ご馳走さまって」

「だって、ボクは吸血鬼だからさ。人間の血はご馳走なんだよ? 特に、若くて穢れを知らない処女……もしくは、くんの血はね」

「どっ……!!」


 指を離して、クスクスと微笑するクリスには言葉がなかった。どうして、そのことを知っているのか! 羞恥に染まる顔の熱を感じていると、クリスが唾液で湿った指先をそっと撫でる。

 ふと、気が付く。


「あ、あれ?」

「あはは。可愛い反応見せてくれたからね、大サービスだよ」


 そう言って、ようやく解放される手を改めて見る。たった今、確かにディータはナイフで指を切った筈。痛みも、滲んだ紅もちゃんと覚えているのに。


「傷が……」


 何となく、手を握ったり開いたりしてみる。血は確かにクリスに舐めとられた。その生々しい感触はあった。

 でも、。今ではうっすらと赤い線が痣として残っているだけだ。


「……何で?」

「ふふん、吸血鬼だからねー」


 これくらいは朝飯前だよ。悪戯好きな猫のように笑うクリス。これはもう、彼が人外であるということを認めるしかないようだ。


「それでさ、話を戻しちゃうけど。ディータって、絵が上手いんだねー?」


 隣に座り込み、ぴったりとくっつきながらクリスがディータの手元を覗き込んでくる。まさか、吸血鬼に懐かれるとは。血が好物らしいが、傍から見たらそんな風には全く見えない。むしろ、さらりと髪が揺れる度に良い匂いがする。石鹸だろうか、それとも香水?

 深く考えるとおかしくなりそうなので、あまり考えないようにしよう。


「あー……はは、ありがとうございます。一応、これでも絵描きなので」

「そうなの? へえー、凄いねー。他にもディータが描いた絵、ある? 見たいなー」

「ええっと、簡単なスケッチで良いなら」


 クリスにも見えるようにスケッチブックを膝の上に置くと、パラパラと捲って見せてやる。大きな時計台や、小高い丘から見下ろした街並み。

 港や劇場、学校など。旅の途中で感銘を受けた景色や建物を描き込んだスケッチを、クリスは大事そうに一枚一枚見つめている。


「へえ、綺麗だねぇー。この絵、全部ディータが描いたの? 鉛筆で?」

「え、ええっと……まあ」

「凄いねぇ、人間はやっぱり器用なんだー。鉛筆と紙だけでこんなに感動出来るだなんて、まるで魔法みたいだよ!」


 正直、ディータは驚愕と共に嬉しさを感じていた。元来、人間の言葉には少なからず感情が籠っているものだ。他者を表現するものであるならば尚更に。

 そして、その感情が純粋に好意的なものであることは稀なことであることをディータはよく知っている。でも、クリスは純粋に自分の絵に感動してくれているよう。


「……おれの絵にそこまで感動してくれたのは、クリスさんが初めてですよ」

「え、そうなの?」

「はい。おれ、一時期画塾に通っていたことがあったんですけど……そこで一度だけ褒められたことがあったんです」


 ディータは力無く笑って言った。あれは、本気で画家を目指し始めた頃だった。故郷の村から出て、有名な画塾で仲間達と共に師匠の教えの元で絵を習う。刺激的で、充実した毎日であったが。


 ――それは、最初だけだった。

 

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