朱色2号が滲みてゆく

七瀬彗

一滴、


「イチゴキャンディってね、虫から出来てるんですよ」


 室内にはゆっくりと流れる音楽とアルコールの匂いがたちこめ、座り心地の良いふかふかの椅子は薄暗い間接照明に照らされベロアの光沢を際立たせている。バー・カウンターのグラスに形よく収まった氷を、指でかき回しながらその男は言った。あまりの眠気に意識を手放すまい、と微か耳に届く英語の歌詞に意識を集中し始めていた私は、一旦考えるのを止めて男の横顔を見つめる。彼と再会してから数時間は経っているはずだが、敢えて表情を意識する事は一度も無かった。それどころか、名前も、何処に住んでいるのかも、数時間前に聞いたはずなのに思い出せない。

 必要性がないと判断された情報は、鼓膜を伝って私の体内にじんわりと浸っていく。それは広大な海原の中に落とされた一滴の色水がいとも簡単に飲み込まれてしまうようだった。私の奥底へ、するりと入ってきた彼の色素プロフィールは私の脳という情報の海の中で形を無くし溶け込んで、すうっと消えていった。それは、申し訳ないことに私が彼に対して、僅かばかりの興味すら持ちあわせていなかったせいだ。


 伸びやかなメロディーラインに乗って小さく聞こえる男声は歌声と呼ぶにはあまりにも小さく、最早囁きに等しい。意味を聞き取る事も儘ならないが、きっとこの手の音楽はこういうものなのだろう。全体の雰囲気を愉しむもの、と私の中で無理矢理結論付けた事で唐突に終わりを迎えた『洋楽リスニングゲーム』は、男が得意気に語る、つまらない自慢話に船を漕ぐなんて失礼を犯さない為の、時間つぶしであった。人が(特にプライドの高そうな男性の)話している途中で船を漕ぐという事がどれだけ失礼に値するだろうか?その程度の常識は持ち合わせているつもりだったし、そもそもそんな横暴が許される年齢の女性では無いことも、十分理解している。


 彼と出会ったのはつい一週間ほど前、友人に誘われ参加したパーティーで言葉をかわしたのが始まりだった。『アラサー』で『彼氏もいない』『独身』なんだから、行くだけ行ってみたらどう、と友人からまくし立てられ仕事終わりに足を運んだBAR。雑居ビルの中に小さく佇む貸し店舗は、狭いながらも整備がなされていて、内装だけならばお洒落なカフェの様だった。壁には所狭しと海外の酒のビンと、主人の趣味だろうか、はたまたこの日のために用意された内装の一部なのか、海外紛争のモノクロ写真が立ち並んでいた。聞いていた話だと業種関係なくざっくばらんに話が出来る交流会という名目だったが、男女比といい、会場の雰囲気といい大掛かりな立食合コンと言っても、さして変わりはないようだ。

 外資系企業の営業という職業柄、立食パーティーには慣れている。しかし、ビジネスという共通項が無い空間で男女は何を共有すればいいのか。彼・彼女らの先にはきっと恋愛カップルと、友人セフレの道が広がっていて、様々な『あわよくば』が入り混じっているのだろう。

 飲み放題の酒と、大皿に盛られたツマミ程度の食べ物、そして賑やかな男女の声。私にはその声が餌に飢えた猛獣ライオンの様にも聞こえる。各々はフェロモンで自分を着飾り、鬣を自慢してパートナーを娶る。子孫を残す為に。これらを上手く扱えないライオンは、サバンナの隅でひっそり息絶えるのは自然の摂理。よくよく見渡すと何人か私に似たような、摂理に則れないような人がいる。向かいに座る、スーツを着て眼鏡の、野暮ったい男性なんか特にそんな感じなのだろう。せめて、こうはなりたくない。その原動力は、つまらないプライドだ。


 勿論、初めからこんな斜に構えていたわけではない。イケメンでなくてもいい、高収入じゃなくてもいい。ただ、ただ、真面目に将来を考えられる男性と出会えればよかった。20代中頃で素敵な男性と結婚して、20代後半で子供を授かって……なんて夢物語を大学時代の女友達と語り合ったこともあった。

 しかしなぜだろうか、大抵の男性は性的な対象として私と接する。はたまた素敵だと思った男性からは、そもそも一人の恋愛対象の女性として見られず、私の誘いも社交辞令とした上で、簡単にあしらっていくのだ。初めはどんな男性とも対等に接していた。食事に誘われれば笑顔で応じた。勿論幾度となく体の関係を結んだこともあったが、その先にはきっと愛情があると思っていた。私が愛情を信じれば信じるほど、私が本当に求める愛から遠ざかる。それに気がついた時、共に語り合った大学時代の友人たちは殆ど結婚していた。こんな事を語った所で、夢を見すぎていた、希望を膨らませすぎていたと言われればそれまでなのだが。


 今日はあの場で勢いに任せ連絡先を交換した男性と二人で酒を飲んでいる。あれやこれやと脳裏に描くうちに疲れを感じて端の机で休んでた時に声をかけられた。ナンパなら絶対にOKするようなタイプでは無いが、心身共に疲れていた私はそのままあっさりと連絡先まで交換してしまった。今思えば、せめて隅で一匹寂しく息絶えるライオンにはなりたくない、という気持ち一心だったのかもしれない。


 こんな時は不思議なもので、頭では過ちだと分かっていても自分へのしがらみからは逃れられない。時にそれは運命という名で、時にそれは悪癖という名で纏わり、絡みついてくる。


 球状の氷は男の指に抵抗するでも無く、曇り一つ無い円柱の中でウイスキーと絡まりカラン、カランと音を立てている。イチゴキャンディと、虫、蟲、虫、蟲。どう考えても結びつかない2つの単語を、過去の自分の記憶を頼りに脳裏に描く(幸い美術が得意では無かった為、概要しか浮かべることが出来ず想像で気分を悪くする事は無かった)。

「全く、想像ができません」

コミカルな芋虫が赤色の(きっと味はイチゴだろう)棒付きキャンディを楽しそうに舐め始めた。このまま芋虫が棒の先に残った欠片まで綺麗に舐めあげ、その後真っ赤な蝶へと変身した所で、正解は出そうにない。


 高純度の無垢な氷が、蒸留酒と溶け合い水になる様は、狡く賢い男性に染め上げられていく少女の様だなと思う。初めは透明でしっかりと形を保っていてもウイスキーの薄黄金色と混ざれば自身の色を忘れていく。そのうち水となり、微温くなってしまった氷はグラス諸共新しいものに取り替えられてしまう。氷なんてあくまでも、酒の引き立て役なのだ。女も所詮、男の武勇伝の引き立て役と、最近は思うようにしていた。


 私の反応を見た男は待っていましたと言わんばかりの勢いで、自分の知識を並べあげる。イチゴキャンディの製造方法や、含まれる添加物の話だった。どうやらその着色料の原料が虫から抽出される物らしい。私の頭の中で、コミカルな芋虫がイチゴキャンディと共に大きな鍋に沈んでいき、真っ赤な色水の入った小瓶だけがその場に残る。ぐつぐつ、と煮えたぎる鍋の中にゆっくりと沈む芋虫の表情は出来るだけ想像しないようにして、また一つ暇つぶしが幕を閉じた。今度は意気揚々と語る男のネクタイに描かれる謎の幾何学模様で迷路を楽しむ事にして、不自然にならない間隔で適度に相槌を打とうか。なんて虫のフルネームを覚える時間があるなら、少しでも人の顔色を伺いながら話せるように対人の基本的なコミュニケーション能力を磨いて欲しい。大体、こちらが飲んでいる酒は真っ赤なカンパリ・ソーダなわけで、目の前で「貴女の飲んでいるお酒には虫が使われているのかもしれません」なんて言われたら、よっぽどの食虫趣味を持ち合わせていない限り楽しめるものも楽しめない。相手も、私自身(私の飲む酒)に興味がないからかも知れないが。


 私が、薄くなったカンパリ・ソーダを飲み干す頃には、男の氷もすっかり蒸留酒に飲まれていた。彼はあの虫の話の後(虫中心に語っていたわけでは無いにしろ、私の中では完全にそうイメージ付けされている)自分が過去に携わった業務の内容や、そこで出会った知り合いの話を延々と語っている。知り合いの知り合い話程聞いていてつまらない物は無いと思うのだが、こちらからも差し出せる話題がない以上、黙って聞いておくしか他ならない。


 ふと、先程から男との距離感が少しづつ、やや近くなってきている事に気がついた。時たま同意を求める際にこちらに向けられる笑みも、カウンターに乗せられた彼の掌も、店に入った始めの頃よりずっと私に近くなっている。男が柔らかく笑う。垂れた目尻に笑いじわが出来て、やっとこの人は自分よりも数歳年上だった事を思い出した。相変わらず、名前は出てこない。

「この後、どうしようか」

ネクタイの幾何学模様は結び目で行き止まりになっている。もうその先に道は無く、迷路からは抜け出せない。


 ―『第六感』とは人間の深層心理に記憶されている過去の経験に基づく


 過去に読んだ何処かのネット記事で見た文言が頭を過ぎった。先程からの疑いが確信に変わり、それはやがて不快という感情に名前を変え私の腹の奥底から、食道を、気道を伝ってへどろの様に込み上げる。ああ、この男もやっぱり、私と恋愛には発展しない人だ、と。相手は私の事を見ていない。

 私の心情を知ってか知らずか男は低く、それでいて逸る気持ちが見え隠れする声色で、会計を求めた。バーテンダーは恭しく、一礼して後ろの戸棚から小さな紙切れを出す。数字はバーテンダーの手でさり気なく隠され、女性の私には見えないように会計が済まされた。この後、私は彼と寝ることになるだろう。あと数分後には彼と共に店を出て、お互いに何を言うでも無く指を絡めると思う。そのまま繁華街を抜けてネオンが煌めく悪趣味な名前のラブホテルに入るのだ。そのくらい、何も知らない無垢な少女では無いのだから容易に想像ができる。 

 

 今までの男性達と同様、過程がどうであれ結論は変わりない。私がこのまま彼の掌に手を重ね、目の前のグラスの氷のように、何も考えずに男の中に溺れれば、すべてが楽になるのだから。それは、いつのまにか道を間違えた私が歩むべき恋愛の正しい形だとも思っていた。いつまでも淡い恋を信じる少女で居続けるなんて出来ないし、居続けたが故に婚期を逃した可愛そうな女性なんてレッテルを貼られるのだけは勘弁してほしい。これ以上、足を踏み外す位ならば、このまま経験豊富な大人の女性を演じて、せめて間違いに気づかない振りをしていたいのだ。

 

 私はそっと、彼の骨ばった大きな掌に、指を絡める。それが合図となり、二人は繁華街の奥へと歩いていった。



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