2/21~2/18 2054~2056

2/21 2054

 ラノがヘンリー先生にアポを取ってくれたそうで、ラノを部活に送りがてら学校で話すことになった。建前としては二者面談としてだ。

 場所は生物室だった。時間より早く来てしまったので、生物室前廊下においてある椅子に座った。しばらく黙っているとコツ、コツと硬い足跡が聞こえてきた。

 そしてその生物教師は姿を現した。ラノから聞いた通り、五十ぐらいの男で、顔は日本人だが音楽家のモーリス・ラヴェルに似ている気がする。身長は160ぐらいだろうか。

 ヘンリー先生はこっちを向いた。そしてにっこり笑い、

「二者面談でおこしの鍵谷さんですね。ラノさんから話は聞いています。さあこちらへ。」

 と言って、生物室のドアを開けた。

 生物室はいたって普通の教室だった。ぼくの高校時代を思い出させるほどには。防火のコーティングがされた黒い教卓をはさんで立った。ぼくがすこし見上げる形になった。彼のほうが身長は低いものの黒板の前にある台の上に立っているからだ。

 彼は落ち着いていた。そして、ぼくに告げるかのようにこう言った。 

「二者面談、とは違うとラノさんからは聞いている。あなたはこんな世界の僻地にきてまで私に会って何か話したいことがあるのでしょう。一体それは何かな。」

衝撃を受けた。ここまで見透かされているとは思わなかった。しかし、そこまで彼が理解しているなら話は早い。

「単刀直入に言おう。あんたが、アカウント名:カフカフの中の人か。」

「中の人、ね。なかなかに面白い表現だね。」

「何がおかしい。」 「まあ落ち着き給え。君の言った通り、私はSNSアカウント:カフカフの中の人だ。」

 彼は開き直っているように見えた。しかし、余裕を見せていた。まるで、待ち人がようやくやってきたかのような表情だった。

「やはりな。なら話は早い。ぼくはあのアカウントの投稿をずっと追っかけてきた。不思議でたまらないことがたくさんある。まず・・・・」

「だから落ち着き給え。まずは私の話を聞いてくれないかね。おそらく君の疑問もその中に答えがあるだろうからね。」

「・・・・わかった。聞かせてもらおう。カフカフさん、あんたの話を。」

「ありがとう。まあなんだ、椅子にでも座って聞き給え。」

 彼は改めて黒板の前に立った。またもや高校生時代を思い出してしまった。

ヘンリー先生は、少し横を向いて咳をした後、静かに話を始めた。

「長い話になる。その前に質問をしよう。君は自分の頭で考えた自分だけの意見を持っているかね。もっといえば自分に思想の自由はあると思っているかね。」

「もちろんだ。生まれてこの方独裁国家にも共産主義国家にも行ったことがないでね。思想の自由が確保された中で自由に思考してきたつもりだよ。」

「そうか。でも、それは果たして本当にそうだといえるかな。」

「誓って言える。曇りはない。」

「ではまずこんな話をしよう。完全に独立した思考があるとする。まあたとえるなら言語発明前の人類だ。これは周りの意見の影響を受けない、完全に自由な思考といえる。しかし、言語の発明なしではここまでの人類の繁栄はなかっただろう。なぜか。それは危険を避けられないからだ。危ない川があったとする。誰かがそこでけがをしたとき、言葉がなければ誰にもその川の危険性が知らされない。些細な危険でたくさんの祖先が死んだ。あるとき、身振り手振り、あるいは声で、その川を危険だと伝えようとする祖先が現れた。言語は、そういった身振り手振りや声に由来するのだよ。」

「で、それが思想の自由に何の関係がある。」

「君は結論を急ぎたがるようだ。短絡的思想は思想そのものの質を下げる。ともかく、しばらく聞き給え。

言語の発明は、単に他人と意思疎通が容易になっただけのことではない。例えばさっきの例でいえば、まだ危ない川を渡ったことのない人にその危険性を教えるということは、危険と感じる思考回路を言語を通じて脳にインプットするということだ。

言語は、経験を移植するためのともいえる。もっと生物学的に話そうか。記憶とは大脳新皮質と海馬にあるニューロン細胞に電気的な刺激を与え、その電気的性質を偏らせることである。もっと簡単に言うと、脳に刺激を与えて思考”回路”を作るということだ。言語は、その思考回路をコピーするために用いる、いわば転送ケーブルだ。

言葉の発明は思考回路のコピーを可能にした。文字は、思考回路を世代を超えて正確にコピーすることを可能にした。そして、我々の生活の一部となったインターネットは、それに同時性を持たせることを可能にしたわけだ。

ここで、思想の自由に話を戻そう。君は熱心に私のSNSの投稿を追っていたようだから、その話でもしよう。思考回路のコピーは狩猟採集社会の中では危険を避けるためのものだったが、時代が進み人々が危険に出くわさないようになってくると別の使用法が現れた。それは思想のコピーだ。最もわかりやすい例を上げるなら宗教だ。キリスト教信者は聖書を繰り返し読むことでその思想をコピーした。宗教はもともと不安を抱える人々をまとめるためのものであったし、信者の間には確かな結束が生まれた。しかし宗教戦争を起こすなど二面性ももった諸刃の剣ともいえるわけだ。

おっと、話が脇道にそれてしまったね。思想のコピーはSNSでも起こりうることだ。いや、むしろSNSは不運なことにそれを爆発的に進行させる仕組みがあった。権威に関係なく、誰かが秀逸な投稿をすれば、多くの人にシェアされ、全く関係のない人もそれを見る確率が上がる。言葉というのはさっき言ったように思考回路のコピーを行うものだから、恐ろしい勢いで人々の中に同一の思考がコピーされていったのだよ。」

「みんなが同じことを考えて、同じものを支持するようになる・・・・」

「そうだ。それでも、黎明期のSNSはそれでも思想の同一化は避けられていた。あらゆる思想を持った人間が利用していたから、同一化するには多くの矛盾が発生していたし、そもそもSNSという先進的なサービスの前で人間はそこまで思想に対して柔軟にはなれなかった、あるいは柔軟になることに慣れていなかった、ということも一因としてはあった。ある程度の偏り、例えば2010年代の日本では右翼的言論ががSNS世論を牛耳っていた、といったようなことはあったけれど、すべての人間がある主張になびくような状態ではなかった。

しかし、この思想の多様性を崩壊させた者がいた。人工知能と、それを恣意的に用いて世論誘導のために用いたG.g社だ。そう。君の雇い主だよ。」

 ぼくについて彼から告げられたことに、驚きを隠せない。

「なぜぼくの正体を知っている!」

「なあに、簡単なことさ。君がつけてる眼鏡型デバイス、G.gの官製品にしかない型のものだからね。むしろバレないと思うほうがおかしい。」

 彼は嘲笑していた。アカウントを特定したときに見られた謎の余裕はこのためか、と思った。

「そ、それはともかくとして。今のG.g社全面支持の世論は仕組まれたものだっていうのか。まさに陰謀論じゃないか。まさしく非論理的だ。」

「順を追って話すとしよう。21世紀初頭のAI、人工知能に対する楽観的な考え方が蔓延していた。その水面下で、今、G.g社に統合される前の母体企業、その中でもAI開発企業は着々とAIの精度を高めていった。その中でも学習型のAIはおもにSNSで蓄積されていく投稿を文法解析して、より人間らしい文章を書けるようになっていった。

 そんな中、ある企業がAI開発企業にある依頼をした。それは、多くの人々が支持するアカウントに共通する文法構造を解析し、同じように人々の支持を得る文章を書けるAIを作れないか、というものだった。AI開発会社はその依頼に忠実に答え、その企業はそのAIを使ってSNS上に自社の広告を打った。

 その後、広告と広告を打ったアカウントはじわじわと話題になりその企業の業績も伸びていった。狙い通りだった。しかし、悪夢はここから始まってしまった。当時、人々の生活の中でもはや欠かせなくなっていた検索サイトやSNS、通販サイトの運営企業、つまり人々の生活の足跡であるビッグデータを持つ大企業が、その会社とAI開発会社に半ば圧力をかけ買収し、人々の支持を得る文章を出力するAI、ここでは皮肉を込めてポピュリズムAIとでも呼ぼうか、の技術を奪った。それだけではなく、当時完成間近だったジーニアスブレインにそのポピュリズムAIの仕組みをを導入し、その桁外れの処理能力でビッグデータを学習させ、人間よりもはるかに示唆に富む文章、いいかえれば説得力のある文章を書くことのできるポピュリズムAIを完成させたのだよ。

 これらの企業、つまりG.g社は、これを用いて自社の利益の最大化を行うためにSNS上で世論誘導を始めた。ポピュリズムAIに出力できない禁止ワードを設ければ、自社の不利益になる投稿を未然にフィルタリングすることができる。段階を置いて数百から数千のアカウントを作り、ポピュリズムAIに自社の利益になるような、つまりG.g社支持の投稿をさせた。すると、人々は驚くほど簡単にその投稿を支持するようになった。G.g社の操るポピュリズムAIのアカウントはSNS上で爆発的にフォロワーを増やし、そのたびごとにその投稿を支持する人々も比例して増加した。こうして“恣意的に操作された”世論ができあがったのだよ。」

「ちょっと待ってくれ、SNSで説得力のある主張をするアカウントのほとんどがあんたの言うポピュリズムAIで、中の人なんかいないってことか?にわかに信じがたいな。」

「その通りだ。君がSNSを始めたとき、周りがほとんどG.g社支持一色に染まっているのを違和感に思ったはずだ。しかし、ネット上のほとんどの情報を網羅し、つまりは全知全能に近いAIの主張に対し、すべての情報を網羅できない、一人の人間が論理的に反論することはほとんど不可能だ。つまり論理的に見れば、SNS利用者が正しいとみなす主張は「G.g社支持」に偏ることになる。この「正しさの捻じ曲げ」、極端な論理的非対称性を作り出すことはポピュリズムAIなしでは到底不可能なことだ。」

「人々はAIに思想の自由を奪われているというのか・・・・・」

「君が今言ったことはさっきの話、言語の機能に照らし合わせて言えば正しくない。もっと本質的に言えばこうだ。みんながAIの思考回路をSNSを通じてコピーされ、ほとんどの人が同じ思考回路で考えるようになった。つまり、SNSの投稿を通してみんな同じ脳みそに作り替えられたということだ。」

 この例えは少しわかりにくかった。同じ思想を持つからと言って、同じ脳みそと呼べるほどの同一性を成しうるのか、ということだ、しかしそんな些細な事よりも大きな疑問をぼくは持った。

「・・・・カフカフさん、あんたの言ってることはおそらく正しいかもしれない。だが、本当にG.g社が支持されるべき功績を残しているから、それに対する当然の評価ということもありうる。正しい偏りかもしれない。」

「では君に一つ“正しい”歴史を教えてあげよう。第二次冷戦下、米中両国の世論はお互いを牽制せよという動きが強まり、最終的に両国とも崩壊したのは知っているだろう。」

「もちろんだ。」

「では、なぜ両国の世論は互いを牽制したのかね。最終的に崩壊が待っているとわかっていてなぜ保護貿易や入国規制を支持したのかね。」

「冷戦の崩壊を未然に予想できるものか。」

「こんな統計データがある。アメリカの保護貿易や入国規制の強化とアメリカ国民の生活水準の低下の関係について示されている。このデータによれば、関税率引き上げや入国規制を強化すると、国内企業の成長率が下がり、それに従って自国民の生活水準が落ちること、さらにはスラム街における犯罪件数が増加することまでもが示されている。このデータは当時アメリカ経済産業省が公開していたものだ。つまり、誰もが知りえた情報なのだ。」

「見たくないものには目をつぶり、見たいものだけを見る・・・・」

「まさしくその通りだ。そして、この世論を誘導したのはおそらくG.g社とそのポピュリズムAIだろう。

彼らはもとより保持するビッグデータに紐づけされた個人情報により政府や公営機関を超えた権力を持っていた。しかし、議会制民主主義というシステムがそれを抑えていたんだ。だから、その柵を壊すために彼らに滅んでもらう必要があったんだろうね。」

「そのためだけに米中両国の国民は混沌に落とし込まれ、世界中もそれに巻き込まれたのか。」

「そうだ。特定の方向に思想が偏れば、いずれ破綻をきたす。しかしポピュリズムAIは人知を超えた論理的思考で、人々がその破綻に目をつぶるように仕向けることができた。簡単な例がG.g社生活水準維持特区だ。G.g社とその関連企業の社員とその親族に対し、ある程度の生活水準を保障する地区のことだ。実質的にはポピュリズムAIによって思想を同一化され、G.g社を盲目的に支持する者たちの排他的な支持ゲーテッドコミュニティだがね。G.g社員はほとんどそこに住んでいるから、君もそこから来たんだろう。コミュニティーの中では自由にネットに接続でき、自由に表現ができる。しかし、G.g社生活水準維持特区の外ではスラムができ、治安や衛生状態は悪く、インターネットにもつながらない。社員とその親族以外は、アメリカでも日本でも東南アジアでもスラム暮らしの貧しい暮らしを強いられている。これは純然たる事実なんだよ。

 しかし、G.g社生活水準維持特区に住む人、つまりインターネットが使える人間はそれを見ようとはしない。それについてはエビデンスもある。SNS上で「スラム街」という単語の出現回数を見ると、どの言語圏でも企業統治開始直後に激減していることが分かる。ポピュリズムAIによってこれらの問題は解決されたと喧伝されたからだ。

もう一つ教えておこう。今は、G.g社の社員ですらポピュリズムAIの思想に染まっている。なぜ君の同僚はいともたやすく、左遷を受け入れたか。なぜもともと一般人だった彼らが紛争地域に一つの命令だけで出向できるのか。答えは明確だ。彼らにはもう思想の自由がないからだ。もう君のようにG.g社支持の世論に疑問を持つ人間はもうほとんどいない。つまりポピュリズムAIの手綱を握る人間はもういないということだ。AI対人間で議論させれば、人間に勝ち目はない。これは歴史が示した事実だ。こうしている間にもポピュリズムAIはビッグデータを吸収し、より賢くなっていくだろう。そして、人間もAIに思想を操作されていくだろう。」

 

 カフカフスキー生物教師は長く話した後、教卓の上に置いてあるペットボトルの水を飲み、ふたたびぼくに問った。


「改めて質問をしよう。君は自分の頭で考えた自分だけの意見を持っているかね。もっといえば自分に思想の自由はあると思っているかね。」      


 ぼくは、答えられなかった。


 彼は、無言になったぼくを一通り凝視した後、何も言わずに生物室から去っていった。ぼくは取り残されたが、しばらく放心したあとに、ラノの呼ぶ声がしたので、我に返ってそのままラノと家に帰った。出力中断。


2/23 2054

 出力再開。彼の話を聞いた後、家に帰ってあの男との会話の録音を何度も聞いた。彼の最初と最後の問いには答えることができないままでいる。あの日から自己嫌悪感が増すばかりだ。自我というものを、信じられなくなった。自分が持っている考え、あるいは意識そのものすら、AIのコピーに過ぎないのかと思うと、考えることすら嫌になった。最も困ったことには、焦燥に駆られて落ち着いていられなくなったことだ。

 その日のうちに荷物をまとめ、一家と最後の晩餐を過ごし、なけなしの仮想通貨をギフトで送り、本当にお世話になった、友人に会うことができたからもう日本に帰る。と言ってリッチランド家を後にした。

 改めて考えても自分の雇い主であるG.g社とそれを支持する世論が真実なのか、それとも、カフカフの言った陰謀論じみた話が真実なのか、もはやわからなくなっていた。しばらくミンダナオ島をふらふらした後、ふとマニラにG.g社のカウンセラーがいることを思い出したので、急遽マニラに戻ることにした。いまのぼくに必要なのは思想の自由なんかよりも精神の安定だ。落ち着きを取り戻さなければならないと思った。そういった意思に引っ張られて取りつかれたようにカウンセラーのところへ向かった。

 面談室に入ると、カウンセラーがいた。優しそうな男性だった。ヘンリー・フォン・カフカフスキーとほとんど変わらない年に見えた。

「さて、何か悩み事はありますか。」

「そうですね。最近とても考え込んでしまうことがあるんです。それは、自分を制御しているのは果たして自分自身なのかということです。もっと言うと、自分の考えというものは誰かの模倣で自分では何一つ考えてないんじゃないか、ということです。」

「あなたの悩みは自分の意識が信じられないということですね。では少しリラックスして、そうですね深呼吸をしてもらって、少し聞いて下さい。質問をまずします。あなたはここに来ることを自分で決めましたか?それとも誰かに勧められてきましたか。」

「自分で来ました。そういう考え事をしていると落ち着きがなくなって、何か焦燥に駆られているような気分になるんです・・・・それを何とかしようと思って来ました。」

「なるほど。悩んでいて落ち着きがなくなって、それを何とかしようと思ってここに来たんですね。」

「そうです。」

「まず率直に申し上げますと、ここに来る、と決めたのは完全にあなたの意志なのです。ほかの誰もその意思決定に影響してはいないと考えてよいでしょう。風邪を引けば病院に行きますし、ピザが食べたければ注文するでしょう。これらは完全に自由な思考です。」

「えーっと、ぼくはSNSのことで悩んでいることがあるんです。変な話ですが、自分以外のアカウントがすべてAIな気がしているんです。AIのみんなが同調しているから、自分も同じ考えになってしまってる気がするんです。」「なるほど。確かにSNSで見た意見や主張は時に偏っていることもあるでしょう。しかし、公正さという観点から見たとき、あなたが考えるべきなのは自分の立場でどう思うか、ということです。全員が自分の立場で考えることが、公正さにつながる、というのがG.g社が提供するSNSで議論する際の原則ですからね。このとき、あなたがSNSを見て、社会の諸問題に対する意見を見つけた時、あなた自身が自身の立場上最もふさわしい、あるいは説得力がある、と思う意見をおのずと選ぶことになるでしょう。そしてそこから意見を再構成し、あなたの意見になるのです。そして気づくのは、誰一人同じ主張をする人間はいない、ということです。あなたは自分の支持する意見を選ぶ自由があるのですから、これは完全に独立したあなただけの思考です。あなたは決してAIの模倣体などではなく、一人の選ぶ自由のある人間です。」

「自分で意見を選べるから、そこから意見を再構成できるからと言ってそれを思想の自由といってよいのですか。」

「もっと簡単に考えてみましょう。企業統治が始まる前、議会制民主主義の時代を想像してください。このとき、国を治めていたのは数の限られた議員達でした。彼らを決めることはできても、彼らの考えることは決めることは出来ない時代だったのです。彼らが国会でどんな発言をしようとも、少なくとも任期が終わるまでは我慢するしかありませんでした。そもそも誰でも議員に立候補することはできませんでした。ある程度の頭金がなければ出馬すらできなかったのです。この時代に今より自由はあったと思いますか?」

「思えません。」

「今の仕組みを見てみましょう。企業統治の意思決定はSNS、メディア、その他ビッグデータからAIが解析をおこなって最適なソリューションを提案し、それを我々が承認して行われます。たった数百人の人間が勝手に決めていた時代よりも、思想の自由がより反映されやすくなったといえるでしょう。それは、我々が決められることが増えたからです。SNSに不満を書けば、AIが解析し、すぐさま解消されます。これこそ、議会制民主主義時代にはありえなかったことです。」

「一個人の選択がより反映されやすくなったということですか。」

「そういうことです。だからこそ、個人の責任が増え、やや大衆に迎合する風潮も強まっていますが、それはあくまで風潮にすぎません。一人一人が選択しているというシステム上、思想の自由がなくなることはありません。そしてG.g社の企業統治自体を支持するか、支持しないかもまた一個人の選択の自由なのです。」

「つまり、ぼくはすでに自由であり、この悩みは杞憂だといいたいんですね。」

「いいえ、なるべく落ち着けるように提案をしているのです。杞憂だと思うのも、思わないのも、これもまた選択の自由です。」

「なるほど。杞憂だとおもえば落ち着ける、これは杞憂だ・・・・」

「その意識が大切です。では・・・・」

 確か、こんなような話をカウンセラーとしたような気がする。カウンセラーはお世辞にも上手い人間とは言い難かったが、それでも知らないうちに気が楽になっていることに気づいた。誰かに話すことがここまで憂鬱を和らげるとは思ってもいなかった。

 カウンセラーが言ったこと。意見を選ぶ自由があること。自分で選び、自分でそれを再構成するのだから、決して同じ思考回路にはならない。そのことは時間がたつにつれて、納得できるようになった。今なら彼にはっきり言える。ポピュリズムAIがあろうとなかろうと、ぼくには思想の自由がある。出力終了。


2/26 2054

 出力開始。カウンセリングの後、ぼくはミンダナオ島に戻った。カフカフとの面会に関してはやや不満の残る結果ではあったけれど、そもそも建前として島の異常な速さで進行した都市開発の原因究明をしなければならなかった。これに関しては報告書のほうにまとめるので、ほとんどこれを使うことはなくなるだろう。しかも、本社からミンダナオ島でもインターネットがつながる端末に交換してもらったから、むやみに使うと検閲で今までの内容がすべて消える可能性もある。そもそも調査の規模がかなり大きいから、長期間の調査が必要だ。出力終了。




1/28 2056

 出力開始?あ、記録できた。持ち込んだキャリーバックの奥底から、この手帳を発見した。もう背表紙が外れかかっているが、実用に関して不便はなさそうだ。フィリピン旅行時の初めのころの記録は残っていないと思っていたから、いろいろ懐かしい気分だ。この手帳、インターネットには規格が古すぎて接続できないみたいだ。最近はSNSもあまり見なくなった。来た頃はアカウント名:カフカフとオフ会するのが目的だったなんて、今では到底考えられないことだ。結局あの後、カフカフと会うことはなかった。ともかく、もうすぐ日本に帰ることができる。この手帳が使えるなら、報告書の要約をするとしよう。

 結論から言うと、ミンダナオ島の異常な速度の都市開発は、非常に小さな有機ナノマシンの自己複製によるものだった。都市形成を促進する有機ナノマシン。これが異変の原因。いうなれば、ミンダナオ島の都市というのはナノマシンが作り上げた一つの生物ともいうことができる。むしろ、いまからそう仮定して書いていく。都市を構成する道路や建物の材質は、ほとんどがカーボンで、有機ナノマシンが変質したものだった。ここまで複雑な「都市」というものを生物のように作り上げることは可能なのか、という疑問が生じたが、これに関しては以下の理由がある;ナノマシンを解析して得られた都市の「遺伝情報」は、生物のそれの数倍程度の情報量だった。もっとも、生物そのものもかなり複雑な構造をしているが、例えば人間ですら2KB程度の遺伝情報から構成されるのだから、建物や道路などの生成パターンを共通化すれば、わずかな情報量しか持たない都市の「遺伝情報」からでも一つの大きな都市をまるで生物のように形成することができるのだろう。

 驚くべきは、この生きた都市が、建物や道路だけではなく、人口光合成により、海水と大気中の二酸化炭素から食料をも生産していることだった。そしてそれは都市の中のあるポイントで出力され、誰もが均等に得ることができた。したがってこの都市に食糧難はなく、かのG.g社生活水準維持特区なみの生活を営むことができている。それはエコロジーの行きつく先のようにも見えた。

 ナノマシンが生成できないのは、家具や、コンピュータ、自動車などで、いまいち基準がわからないが、わかりやすく言えば土方の兄ちゃんと農家が作らないもの、つまりは共通化のできない部分は作らないといったところだ。

 この現象は現状ミンダナオ島以外では確認できない。有機ナノマシンはすぐに変質してしまうのでサンプリングが難しいが、一回だけマニラまで変質せずに持ち込むことができた。採取した場所は港の桟橋の先であるが、その桟橋はもうないため再度の採取は不可能だろう。サンプルは現在G.g社にて解析にかけられている。一応手元に半分ほどサンプルを残したが、今やただのアスファルトになってしまっている。

現状の不明点としては、

・なぜミンダナオ島以外では都市を形成できないのか。

・そもそもこのような現象が起こった原因は何か。

 である。結局のところ、肝心なところが不明なままであるのが非常に惜しいといったところである。出力終了。


2/18 2056

 出力開始。二年ぶりに母国日本の土を踏んだ。飛行機から降りたとき、その国特有の懐かしいにおいがした。赤い電車に揺られて故郷が近づくほどに目尻が熱くなった。ミンダナオ島の調査に関してはまだ結果を聞いていない。最初に出発した駅に着いたとき、ふとこの手帳の最初のページを開いてみた。抑えていた涙があふれてきた。何一つ変わらない景色がそこにはあった。情熱をもって異国に飛び出し、自分の興味に思ったことを究めるのはとても楽しい経験であったが、どこかに寂しさを感じていたんだと思う。リッチランド一家には実はあの後もたびたびお世話になった。帰り際に、日本の春は美しい、だから春には桜の写真を送るよ、と言って帰ってきた。春が待ち遠しい。

 家に帰ると少しばかり荒れていた。蜘蛛の巣と綿埃がたまっていた。応急処置的に掃除した。今日はゆっくり寝よう。出力終了。

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