3/6~8/16 2056~2057

6/3 2056

 しゅつりょくかいし、お、できた。梅雨の季節はメランコリーになってしまう。もう夕方のことだった。在宅業務をしながらザーザーと雨が降っていて、向こうのビルに見える剥がれかけたG.g社の広告を眺めていると、そんな気分に追い打ちをかけるように本社からミンダナオ島に関する報告書に対しての返答が眼鏡型デバイスを通してやってきた。それはひどいものだった。報告書によると、サンプルがすでにただのコンクリートに変質してしまっているため、報告書の妥当性に関しても疑問が多い、データの信用性に著しく欠く、よって、偽造報告書としてデータベースより破棄する。というものだった。

 つまり、ぼくのフィリピンでの二年間は無駄足だったというわけである。

 当然のごとく、怒りがこみ上げてきた。

 眼鏡型端末をはずし、床に投げつけた。

 眼鏡は壊れなかった。

 代わりにぼくの視界は曇った。

 誰もいない一人の家で、いままでは静かに暮らしてきたが、この時ばかりは声を上げて泣いた。

 わんわん子供みたいに泣いた。

 べッドにはっきりと染みがついた。


6/4 2056


 どれくらい時間が経っただろうか。目が覚めた。ぼくはベッドに突っ伏したまま泣きつかれて寝てしまったようだ。ベッドは窓から差す太陽光で白く光っている。ふと窓から外を見ると、澄み渡ったきれいな青空が見えた。太陽はその真ん中で煌々と輝いている。ほっぺについていたわずかな涙の湿り気が、日光を受けて緩やかに蒸発していった。

 床に転がっていた眼鏡型デバイスを回収する。

 昨日の本社からの返答を再度確認する。

 二年間が徒労だったことには変わりはなかった。

 だが、ぼくはこのとき、ふと、あることを強烈に思い出した。それは、二年前のあの男の話だ。


 言語による思考回路のコピー。

 ポピュリズムAIによる世論誘導。

 ビッグデータを吸収したポピュリズムAIが論理的非対称性を生み出し世論を捻じ曲げ、思考回路の同一化を進行させていること。


 これらのことを土産物がてら飾ってあったボロボロの手帳を通じてぼくは思い出すことに成功した。

  

 ぼくは正しかった。ミンダナオ島の報告書は何かG.g社にとって不都合な事実を孕んでいる。だからもみ消した。


 ふと、そんな気分に取り憑かれた。でも、それが本当かもしれない、となんの根拠もなく思った。そしてふと、あるひらめきをした。あの男と島の異変とを、点と点とをつなぐような。それは、

 アカウント名:カフカフ、つまりヘンリー・フォン・カフカフスキー生物教師が位置情報を間違って送信した時期と、ミンダナオ島、特にダバオでの異変が発生した時期は一致する。

ということだ。彼は反G.g社の思想の持ち主で、かつ他の反G.g社アカウントにはない論理的な思考の持ち主だ。さらに、彼は生物教師だ。彼なら都市を形成するナノマシンを中国で支援を受けて作った後企業統治の及んでいないフィリピンに持ち込み、G.g社が隠そうとするあの異変を起こすことができるかもしれない、と考えた。

 そう思った瞬間、また彼が位置情報を誤送信するかもしれない、というわずかな希望が浮かんできた。むしろぼくへの暗号かもしれない、そういう拡大解釈にさえいまはすがるしかない。それはわずかな希望であるが、だがこの上なく渇望するものだった。端末に素早くSNSをインストールし、彼のアカウントを探した。

 探す中で感じたことは。G.g社に反感を持つ人間は、もはや彼以外誰もいないということだ。つまり、SNSの言論空間はポピュリズムAIによる淘汰後だった。なんだ、まったく彼の言った通りじゃないか。

 マニラのカウンセラーのこともふと思い出した。彼もポピュリズムAIの言いなりになっているのだろうか。あのときのカウンセリングも、ぼくに同一化を押し付けるものだったのだろうか。

 反G.g社アカウントの体裁をなしているのはどこを探してもアカウント名:カフカフのみで、彼のフォロワーは0人になっていた。意外なことに、彼は名前もIDも一切変えずに活動していた。二年分の未読投稿を貪り読んだ。それは実に楽しい時間であった。

 すべて読み終えたあと、もっとも最近の投稿にひっそりいいねを押した。その時だった。彼が示し合わせたように位置情報をつけた投稿を発したのは。


「統一朝鮮 雲田駅」


 すぐにその投稿は削除され、位置情報を消して同じ内容で再投稿された。しかし、ぼくはこの文字列をすでに脳裏に焼き付けていた。すぐにメモしようと思ったが、すでにここにメモしていた。

 ぼくはすぐに統一朝鮮行きを決めた。出力終了。


8/2 2056

 出力開始。今日、ぼくは統一朝鮮にいる。ビザを取得するのにやや時間がかかったが、統一朝鮮行き自体は非常に簡単だった。なぜなら、統一朝鮮こそ、アメリカの次に企業統治を採用した、いわばG.g社の傀儡地域だったからだ。

 二十一世紀の初め頃、統一朝鮮は北朝鮮と韓国という二つの国に分かれていた。そして第二次冷戦崩壊後、アメリカでのG.g社による企業統治が安定し、他国の統治に意欲を示していた時に、当初G.g社は冷戦の崩壊を受けて内政の不安定化が進んでいた韓国への売り込みを行ったが、韓国は企業統治を拒否した。このことがきっかけで、G.g社と韓国の関係が悪化し、それに追い打ちをかけるように北朝鮮が企業統治を受け入れる意思を示すとますますその関係は悪化した。

 やがて北朝鮮での企業統治が成功すると、G.g社は日本の企業統治にも意欲を示し、日本においても統治が成功し、韓国は成功した企業統治国家に囲まれ一段と弱体化していった。

 G.g社統治下の北朝鮮は、その機を逃さず韓国への軍事侵攻を開始し、わずか一ヶ月で韓国を降伏させ、そのまま併合した。

 こうして南北朝鮮は統一され、G.g社による統治により、人々は平和を取り戻した。つい六年前の出来事である。と、いうのが統一朝鮮に関する歴史的背景である。

 平壌空港で入国審査を社員権限でやすやすと通過した。フィリピンの時とは大違いだ。現地通貨に変換する必要もない。同じ会社が治めている国同士、日本も朝鮮もそんなに差はないように思えた。


 ヘンリー・フォン・カフカフスキーを探さなければならない。彼に会って、彼の話を聞くんだ。

 この決意は、かつてフィリピン行きを志願した時と同じだ。


 空港から出て、諸手続きを行うために行った平壌は全域がG.g社生活水準維持特区になっている。人々の暮らしも日本と大差ない。ふと気になってSNSを自動翻訳して閲覧した限りでは、日本も朝鮮もG.g社支持一色には変わりはないようだった。

 しかし、彼の位置情報からわかる彼の居場所は、G.g社生活水準維持特区外の、おそらく彼のいうスラム街だと考えられた。平壌から位置情報の示した雲田駅までは貨物列車以外は交通手段がない。車は検問がかかるし、空路で行こうにも近くに飛行場がない。ぼくは社員権限をやや乱用する形、穀物栽培地域の視察という名目で、貨物列車に乗り込んだ。

 平壌以外の地域は予想以上のものだった。線路は単線で40㎞と出ない速さで走っている。動力は蒸気機関ときた。車内は夏ということもあって蒸し焼きになりそうだった。風景のほうは、田んぼ、田んぼ、田んぼ、山、田んぼ、たまに農村といったところで、人が住んでいる気配すらない地域が大半だった。点在した農村を見つけると、ぼろぼろの服を着た子供がこっちを黙って見つめているのが見えた。ほかの農村では、つぶれかかったサッカーボールで元気よく遊ぶ子供たちが見えた。また別の農村では、農作業をしていた老婆が作業を止めてまるでぼくを凝視するかのように見てきた。どこを見ても、平壌や日本で見てきたような普通の生活をしている人々はいなかった。ふと、これが彼のいう真実なのだと思った。日本でもG.g社生活水準維持特区の外の人々はきっとこんな暮らしをしているのかもしれない、と思った。出力終了。


8/4 2056

 出力開始。雲田駅までは検問等々でまる二日かかった。二日間見てきた傾向として、駅周辺はまだ良く、駅から遠くなるほど貧しい農村が多くなるといったところである。

 雲田駅で降り、しばらく駅周辺を散策した。特区外ではインターネットがつながらないことは事前にわかっていたから、衛星回線の使用申請を済ませておいた。おかげで彼の投稿も見ることができる。しかし、今回はリッチランド家の時のような人脈がない。しばらく行先に迷った後、市役所らしき建物を見つけたので、ダメもとで人探しの相談をすることにした。建物の中には受付嬢と数人の職員以外は誰もいない。閑散としていた。とりあえず受付嬢に、

「人探しなんですが、いいですか」と言った。

「はい。この辺りでは人さらいも多いですからね。どんな方ですか。」

「名前はヘンリー・フォン・カフカフスキー。年齢はたしか五六歳。こんな名前ですが日本人です。身長は160cmぐらい・・・・」

 と、確かそんな風に人探しの依頼をしていた時のことだった。ほとんど人のいない市役所の透明なドアが開く音がした。ふと振り返ると、目を疑う光景があった。そこにはぼくが会いたくて渇望した人間が歩いていた。

 

 ヘンリー・フォン・カフカフスキー、その人だった。


 彼はこちらに気付きにっこりと笑ったものの、本来の要件はこちらとでも言いたげな歩き方で職員のほうに歩いて行った。

 ぼくは彼を凝視し続けた。

「あの、大丈夫ですか?」

 受付嬢がこっちを心配していた。無理もない。だがぼくはそれどころではなかった。

「もう見つかりました。ありがとうございました。」

そういって、ぼくは受付カウンターに荷物を置いたまま彼のところへ走った。


 彼のほうは、職員にマイクロチップのようなものを渡し何か伝えた後、帰ろうとしたところだった。

 ぼくはすかさず彼の手をつかみ尋ねた。

「ヘンリー・フォン・カフカフスキーさんですか。二年ぶりです。ぼくはあのときの・・・・」

 彼はぼくをにらんだ。そして、

「待て、後ろを見ろ。」と、彼はぼくにつぶやいた。

 彼の言ったとおりにすると、後ろでは職員がピストルを構えてこっちを見ていた。生まれて初めて経験だった。急にまったく生きた心地がなくなった。ぼくは緊張していた。

「この男は私の友人だ。銃を下ろし給え。」

 彼がそう言うと、職員は銃を下した。ぼくはまだ緊張が抑えられない。

「さっきのは・・・・」

「私は身辺が危ないから中国からセキュリティーを雇っている。緊張させて申し訳ない。ここでは人に聞かれる心配がある。私の別荘に案内しよう。ついてきたまえ。」

 彼はそう言うと、逆にぼくの手を引き、外に止めてあった車の助手席のドアを開けた。ぼくはいわれるまま車に乗り込んだ。彼の運転する車は吹かし気味で雲田駅周辺の集落を抜けて、一山超えた誰も知らないであろう彼の別荘まで走った。

 別荘は山と森に囲まれた深い闇の中にあった。丸太で作ったとも見える、ある種別荘としては理想的な建物だ。

 別荘へ入るとダイニングに案内された。彼がさあ座って、と言って椅子を引いたので、ぼくは座った。彼は紅茶を淹れて持ってきてくれた。机越しに向かい合って彼が座った。お互い無言でお茶をすすった。しばらくの間、別荘のダイニングは静寂に包まれる。

静寂を破ったのは彼だった。

「てっきり君は死んでしまったと思っていたよ。位置情報をあんな形で送るまでに2年半もかかるとは。」

彼のコンタクト、つまり位置情報の誤送信はやはりぼくに向けたものだった。少し安心した。

「待たせてしまって申し訳ないです、でも死ぬとは大げさですよ。」

「いや、本当に死ぬ、という意味ではなく、AIの主張を盲目に支持するようになってしまったかと思ったのだ。」

「この二年で世論は完全にG.g社の全面支持になりましたね。先生のおっしゃる通りなら、みんな死んだのでしょう。」


 ふと、彼を先生と呼ぶのがしっくり来た。彼が生物教師だったからかもしれないが、もっと別の理由な気がした。きっとここに書き留めるほどでもないことだ。


「先生、か。違いないね。さて、AIの人知を超えた論理的思考能力に、人間が反論する隙は一切ない。さて、前にも同じことを聞いた気がするが、もう一度聞いておこう。君は自分の頭で考えた自分だけの意見を持っているかね。もっといえば自分に思想の自由はあると思っているかね。」

 懐かしい問いだった。ぼくはもう迷いなく答えをいうことができる。

「ぼくには思想の自由があります。自分で考えて自分だけの意見を持っています。」

「私もそう思う。君がまだG.g社を支持する世論に疑問を持っていることがその証左だ。いま、SNSの言論空間で本当の意味で思想の自由が確保されているのはおそらく私と君しかいない。だから、今度は私から君に伝えたいことがある。」

 驚いた。まさか先生のほうからぼくに伝えたいことがあるとは思っていなかった。

「はい。なんでしょう。」

「また前回の時みたく長い話になる。ミンダナオ島での異変について、君が調査したことは知っている。あれは私が仕組んだことだ。」

「やはり先生が原因だったんですね。」

「私はフィリピンに来る前、中国の企業統治に携わっていた。当時既にG.g社が企業統治を多くの国に提供する中、中国の企業統治会社は技術的な遅延から、他国を統治する全く余裕はなかった。

しかし、そのままでは周りをG.g社に統治された国に囲まれ、軍事的にも経済的にも孤立して滅びてしまうことを統一朝鮮の例から知っていた。だから、彼らよりも優れた統治システムを作ることが、我々が生き残る唯一の道だという結論に至った。そのために開発されたのが、君が調査した有機ナノマシンなのだよ。我々は自己複製AIと呼んでいるがね。」

「待ってください。統治システムとナノマシンによる都市形成促進にいったい何の関係があるというのですか。」

「それを理解するには少し長くなる。初老の中年の長話になるが、それでも聞いてくれるかね。」

「もちろんです。」

「ありがとう。約四〇億年前、どのように生物が誕生したか知っているかね。」

「いえ、詳しくは。」

「彗星によって地球にもたらされた有機物が海水に溶け込み、その有機物は太陽光に含まれる放射線で複雑な化学反応ののち高分子を形成した。いわばかつて海は高分子のプールだったわけだ。そんな高分子の中に、偶然自分と全く同じものを周りの高分子を用いて作る高分子ができた。要するに自己複製を行う高分子ができたのだ。リチャードドーキンスの利己的な遺伝子の中では、これを自己複製子と呼んでいる。いくつか誕生した自己複製子のうち、より正確に、より早く複製できる種類が残っていった。なるべく早く正確に増えるには、ほかの自己複製子の影響をなるべく排除するのが好ましい。だから、複製時に外界の影響を抑えるためにタンパク質の壁を作った。これが最初の細胞だ。そうやって最初の細胞は、やがて多細胞生物へと分岐し、複雑な器官を作り出すことで爆発的に増え、地球上あらゆる場所に適応していった。

時代は飛躍し次は古代の人類を想像してほしい。より個体数を増やすには、なるべく天敵や他の人間による危険を減らし、気候の変動や時期に左右されずに安全に交尾、子育てが可能な環境を持たなければならなかった。そのために人類は農耕と定住生活をし、村を作ることで爆発的に数を増やすことに成功し、地球上のあらゆる地域、あらゆる気候に適応し、繁栄している。

考えてほしいことがある。40億年前に自己複製子がより速く正確に自己複製するためにタンパク質の壁を作ったこと。たった数万年前に人類が個体数を増やすために定住生活を始め、村を作ったこと。これは本質的に同じだということを。」

「自己複製子がタンパク質の壁をつくって生存に有利になったように、人間は村を作ることで生存に有利になったということか。」

「そういうことだ。自己複製子は今日、遺伝子、DNAと名前を変えたがね。つまり、村は本質的に生物ともいえるわけだ。DNAが複製し続けるために我々が生きているように、村、今でいう都市もまた、人間が増え続けるために“生きている”のだ。

だとすれば。我々は都市を、ミクロ単位でいえば食う寝るところに住むところを維持し続けるために労働を行うことで、我々より一つ高次的な生物である都市を生かしているともいえるわけだ。」

「都市が生物のように、まるでミンダナオ島の話のようだ。」

「君は一つ勘違いをしている。ミンダナオ島の異変を都市がまるで生物になったようだと君は報告書に書いたが、実は違う。都市は本質的に最初から生物なのだよ。もっと婉曲的な言い方をしよう。似たような機能を持つビルがたくさん建ち、そこに道路が伸びる。これは細胞が器官を形成し、そこに毛細血管を通していくという生物の仕組み、もっと言えば自己複製に非常に似ている。古くなった都市は補修され、それでも維持できないときはやがてゴーストタウンになる。これはケガの治癒の仕組みや老廃物を作るしくみ、つまり代謝とほぼ同じだ。これだけ見ても高校で習う生物三条件のうち二つも満たしているといえる。ここからわかることは、さっきも言ったようにミンダナオ島の異変以前から、都市というもとは本質的に生きる生物だった、ということだ。」

「なるほど分かりました。だがそれが企業統治システムと何の関係があるのですか。」

「さっきの自己複製子の話に戻ろう。かつて、高分子のプールの中では自己複製が早く正確なものが残った。これは自然淘汰の第一原則だ。これが都市にも言えるとしたらどうだろう。」

「都市形成速度の速い都市が残る。あ、そうか!」

「ミンダナオ島で私が蒔いた、有機ナノデバイス、ここでは自己複製AIと呼ぼう、は簡単に言えば君の報告書通り都市の形成速度を上げるために開発されたものだ。より大きく便利な都市ができれば、そこに人口が集中し、さらに大きくなる。ミンダナオ島の人口は二年で既に三倍に達している。従来ならば、過密地域には渋滞問題、住宅問題がつきものであるが、それすらも解決できるような速さで都市を形成してしまえば、それらの問題をパスできる。あの島はあくまで実験用だから、増殖半径を指定する遺伝情報を入れることで島外では自己複製AIが失活するように仕組んである。だがミンダナオ島の調査からある程度の成果が得られた今、その制限はもはや必要ない。つまり、これから先、自己複製AIによって、G.g社生活水準維持特区以外の地域を自己複製AIの作る都市が侵食する。」

「いや待ってください、都市はそもそも人々の快適に暮らしたいという欲望を満たすために作られる。いくら有機ナノマシンの遺伝情報が優れていても、人間一人ひとりが持っている欲望をまとめ、都市という形に出力することは可能なのか?」

「君はまた何かを失念しているように思える。AIが人間を説得するだけの論理的思考力を獲得していることはポピュリズムAIを見れば自明のことだ。人々の欲望を具現化し、最適な形で出力することは可能だ。」

「つまり、まずAIで人々の欲望をシミュレーションし、それをもとにナノマシンのなかに遺伝子を組み込み、都市を形成するということですか?」

「それは正しいが少し違う。実は自己複製AIには人間のニューロン細胞を模した機能を埋め込んでいる。複製すればするほど、ニューロン数が増え、やがて自立制御ができるほどに大きくなる。都市を形成する過程でその材質、例えばビルの壁、道路、港の桟橋に練りこまれたニューロン細胞の数は都市の規模と比例するから、大きくなるにつれ並列処理の効率が上がり、より複雑な思考が可能になる。ミンダナオ島の規模になれば、我々には都市全体のニューロン細胞すべてを解析することはほぼ不可能だ。都市という一つの脳がどんなことを考えているのか。もはやそれは永遠にわからない。もしかすると都市自体が意識を持っているかもしれない。それもきっと永遠に証明できないだろうね。」

「まってくれ、そうなってしまったらポピュリズムAI以上に危険じゃあないですか?人間が完全に超越した存在の中で暮らす、そうなったらポピュリズムAIに思想を奪われているだけで済んでいる今よりも悪化しているじゃあないですか。」

 彼はここでにっこり笑った。きっと冷めてしまった紅茶をすすり、こう質問した。

「君は自分のミトコンドリアと議論したことはあるかね?」

 それはとても頭の悪い質問に聞こえた。あるわけがない。

「あるわけないじゃないですか。細胞小器官と議論なんてそもそも、というかその質問の意味すら疑問ですよ。」

「都市AI、もっと言えば都市に宿った意識も同じことを考えるのではないかな。都市からしたら人間など自分の体のなかでせわしく動き回るほんの小さな存在にすぎない。さっきの質問のように、都市から見たわれわれ人間は、我々が考えるミトコンドリアのようなものさ。だから、都市AIの意識と我々の意識は干渉しえない。」

「人間は都市という生物のなかで、まるでミトコンドリアのような細胞小器官として生きる・・・・」

「まあそこまで落胆するほどのことではないよ。そもそもAIは既に人間を超えてしまった。SNSの言論世界を見ればはっきりわかることだ。AIと争えば、人類に勝ち目はない。その争いの中、どれだけの人間が幸せを失ったかを私は痛いほど知っている。歴史を復唱しよう。ポピュリズムAIによって恣意的に操作された世論により、アメリカと中国という二つの国家が崩壊し、多くの人が混沌に落とし込まれた。私はその中で妻子を失った・・・・それだけじゃない。AIは人類をAI支持か反対かに二分させ、反対派を貧しい生活にし、支持派からは思想の自由を奪った。この二十一世紀前半という時代は、本質的にはAIに人類が完全敗北した時代だ。人間とAIが争う世界、それで負けて人間の尊厳を失う世界。そんなものを望んではいなかった・・・・妻と娘はそんなのに巻き込まれて死ぬべきではなかった・・・・・」

 気が付けば、彼のほほには涙が流れていた。彼は泣いていた。人類がAIによる見えない迫害に遭ったことに対して。それに巻き込まれて彼自身、彼の妻子を失ったことに。

「カフカフスキー先生・・・・」

「人がAIと対等に戦ったがために負け続ける世界から、人が都市という一つの生物のミトコンドリアとしてポピュリズムAIに操作されずに真の思想の自由を取り戻し、人工光合成で得られる食料や都市形成の過程でできる衛生的な住居を得て、誰もが自分の幸せを追求することができる世界に作り替えること・・・これが私の使命だ。もし君が良ければ、私の計画を手伝ってほしい。」

 彼が伝えたかったことがようやく分かった。答えは一つしかない。

「わかりました。」

 彼は席を立ち、無言で上の階から小さな寒天培地を持ってきた。

「改良型の自己複製AIだ。今度は胞子を参考にした遺伝子を組み込んである。つまりこれは島だけじゃなく海を越えられる。冗長化を図るために人々に配るつもりだったが、できることなら私の話を理解できる人間に配りたいと思っていた。君がこれを渡す最初で最後の人間かもしれない。自宅の庭に裏返しておけば、一晩で家を覆うぐらいにはなる。君が作り変えるんだ。世界を。」

「任せてください。先生。」


8/16 2056

 日本に帰国した。寒天培地を自宅の庭にひっくり返した。出力終了。


8/16 2057

 出力開始。一年たったから経過報告がてら書きこむ。この手帳型デバイスももう消耗が激しく、これ以上の記憶は難しそうだ。

 先生からもらった自己複製AIの寒天培地を起点にして、ぼくの周囲一帯は高層ビルの立ち並ぶ過密都市になった。自己複製AIが形成した都市はG.g社生活水準維持特区を突き破り貧困地域やスラム街をも浸食した。浸食した地域には食料と衛生環境、そしてニューロン細胞を介して提供される高速なインターネットが普及した。

 いまやSNSを見ると、もともと特区の外にいた人々が書き込んだであろう反G.g社の意見も多くみられるようになり、かつてのG.g社支持一色な雰囲気はなくなっていた。

 ぼくもポピュリズムAIについて内部告発した。G.g社に対する抗議のデモが行われ、ついにG.g社はジーニアスブレインをポピュリズムAIのシミュレーションに用いていたことと、ポピュリズムAIによる世論誘導を公表した。その発表ののち、ポピュリズムAIのアカウントは次々と削除された。

 日本から始まった自己複製AIの浸食は、おそらく船や飛行機、輸入品などを通して世界中に広がっている。多くの人々が貧困から解放された。多くの人々が恣意的な世論に対して批判的な目線を持つことができるようになった。

 ぼくは、彼の行方をもう知らない。リッチランド家に所帯を持つことになったぼくは、ダバオの一級マンションからかつて一色に染まっていたSNSを開く。そして、アカウント名:カフカフの最新の投稿を確認した。


カフカフ@HenryVonKafkavs  35分前

都市自体が意識を持ったら人間を殺そうとするという意見あるけど、あれってよく考えたら狂ってるんだよ。たとえば体の細胞内にあるミトコンドリアは実際には意識を持ってないけど持ってたとしても誰も気にしないじゃん。それと同じなんだよな。都市からしたら人間なんかミトコンドリア以下だよ。


出力終了。

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