2/3~2/17 2054

2/3 2054 

 出力開始。改札のない無人駅で、一人電車を待っていた。眼前には毎日見慣れた住宅街と、田んぼと・・・・それについて叙述しようとは思わない。かの有名な実存主義者のサルトルでさえ、代表作の「嘔吐」の冒頭で日記に全てを叙述しようとするならそれはかえって事実を捻じ曲げてしまうというようなことを書いていた。この現在進行形で紡がれる記録を日記とするのなら、ぼくもサルトルに習おうと思う。背中を覆うぐらいの背負い式鞄を地面に置き、足は黄色の点字ブロックを無造作に踏んでいた。カラッと乾いた風が顔に断続的に当たって寒さを感じた。次の電車までしばらく時間があるようだった。

 こういう静かな時間は、まあ毎日のことで、ぼくにとっては寂しさを感じさせたけれど、一人で物思いにふける分にはこれ以上適した時はなかった。その日、その時考えていたことは、おおよそこんなことだった気がする。



 二十一世紀の最初のころは技術の進歩に関してしばしば楽観的な考え方がされていた。そのころを知っていた今は亡き父は、ようこんな生きにくい時代に生まれて生きていけるなあ、感心するわと幼い頃しばしば口にしていたのを覚えている。それはさておき、二十一世紀の最初、とりわけ2010年代は父にそう言わせるほど余裕のある時代だったのだろう。まったくうらやましい限りだと思う。

そのころ、つまり2010年代、人々は未来について次のように思っていた。近い将来、人工知能が発達し、単純な肉体労働産業から駆逐されて、やがて知的産業も人工知能によって代替される。そのとき人間は労働から解放され、ベーシックインカムで生きがいや人間らしさを追求する時代がやってくる。なんてね。2045年問題なんて言葉もあったっけ。人工知能が人間を超える2045年はいわゆる技術的特異点で、それから先の未来は予想できない、というものだ。とにかく、今ならどれも戯言にしか聞こえないこれらの言説が、まことしやかに二十一世紀初頭にはささやかれていた。 


 まあそれがもし戯言ではないのならば、どれだけよかったことかと思ったこともないわけではない。でも、現実はそうはならなかった。


二十一世紀初頭以降は、前世紀のそれと比べても遜色ないほどの混沌にあふれていた。冷戦終結後世界で唯一の超大国となったアメリカの衰退により世界各地で保たれていた勢力の均衡は急激に崩れていき、テロリズムの台頭という形をもって先進国住民の知るところとなった。時系列は前後するが二十一世紀最初の年、自由貿易と世界の一体化の象徴だった二つのビルにテロリストにハイジャックされた旅客機が墜落したあの事件が、そんな時代の幕開けを飾っていた。

 しかし、世界を混沌に陥れたのは超大国の衰退だけでなかった。二つ目の超大国として頭角を示し始めていた中国。相対的に弱体化したアメリカ。彼らは表面上では協調を目指しながらも、水面下ではお互いを牽制しあう存在であった。中国は不健全ながらも吹かし続ける経済力と軍事力で、アメリカは自らの経験;戦争を行わない戦争、すなわち第一次冷戦時のノウハウを活用したありとあらゆる外交的方策とやはり軍事力で、それぞれ牽制しあった。

 最終的に両国間の水面下の戦い;第二次冷戦は第一次のそれとは異なる結果———共倒れとなった。つまり、お互いを牽制し続け、お互いがとどめを刺してしまったのだ。

 両国は、互いの関税率をたびたび引き上げたり、輸出入禁止品目を追加してみたり、挙句の果てには入国禁止令まで出したりした。そうこうしているうちに国内産業は緩やかに衰退し、両国を納税という形で支えるはずの多国籍企業はついに本国を見捨てて第三国で発展し、両国の経済はいつの間にか麩菓子のように本質を失っていた。

 崩壊は年々指数関数的に進行したが両国はそれを認めなかった。政府が、マスコミが、そしてインターネット世論ですらそのことをひた隠しにし続けた。それが本当に起こるまで、お互いがそんなのは相手のプロパガンダだの陰謀論だのそういった見方が一般的、いや世間の常識だった。そのうちに経済のみならず出生率の異常な低下、人材の大量流出、福祉制度の崩壊などの副次的要因が重なって、気づいた時には両国は無政府状態に陥ってしまっていたというわけだ。

 統計では現れないが両国ともに戦争より多くの人々が崩壊とその余波で貧しくなり、亡くなったといわれている。戦争を行わない戦争、それが戦争よりも多くを失うものであったことは今や人類史における大きな皮肉となっている。

 

 二大国家の突然の消滅は世界中のあらゆる地域の勢力均衡の崩壊を示していた。彼らは崩壊前には同じように自覚的ではなかった;中国とアメリカという板があったからこそ崖に落ちずに生きていられたことに。崖の下にある混沌を無視できていたことに。無自覚の結果は悲惨なものであった。多くの国が紛争、内戦状態に突入していった。特にもとからその土壌のあった中東、それとぼくがこれから赴くことになるフィリピンを含む東南アジアは特に影響が顕著な地域だった。内戦か紛争か。虐殺か侵略か。これは二者択一的ではなく、結果的には多くの人命を失うことになるという終着点が同じな点で、区別の必要すらなかった。必要無くなるぐらい、この地域は混沌に叩き込まれていたからだ。

 

 これらの紛争はやがて一つの勢力によって収束されることになる。当初、統合情報企業と言われていた、僕の就職先であるG.government社である。混沌の中であっても、あらゆる人々はインターネットや衛星を用いた位置情報サービスを使いつづけていたし、それらは既に世界中で生活の一部だった。その中でも検索サービスやSNS、通販は誰もが使うコンテンツであり、それを扱うサーバーや運営会社には少なからず人々の生活の足跡、いわゆる個人情報というやつが蓄積されていった。

 気が付いてみれば、検索サービスやSNS、通販サービスを提供する企業には、政府情報機関ですら知りえない情報が集まっていた。そしてこれらの企業が政府以上の影響力、権力を持ったのは当然の成り行きだった。アメリカが無政府状態になった;第二次冷戦崩壊直後の混沌の中で、サービスで競争していたはずのこれらの企業が国民生活の維持を名目に突然統合し、政府行政の代行を始めたわけである。これが世界で初めての大規模な企業国家の誕生だった。

 アメリカでのG.g社による企業統治は長い目で見れば成功したと言える。もともと国民が使っていたインフラはほとんどG.g社が統合していたから、生活水準の維持という点では従来政府よりも一枚上だった。統治黎明期は無政府状態のときより生活水準が悪化した部分もあったが、しかしそれは五から六年の間で改善された。同時期に無政府状態にあった中国でもG.g社とは別で企業統治の仕組みができた。こちらも大体アメリカと同じような経過をたどった。


 両国が企業統治で緩やかに回復すると、G.g社は紛争地域の治安維持事業に着手すると発表した。それはつまり、紛争地域で調停を行い、崩壊した現地政府に代わって企業統治を行うということであった。この取り組みは今でも続いているが、東南アジア言えばインドネシア、マレーシア、ベトナムなどで行われ、紛争の調停に大きな成果を上げた。この事業なしでは、五〇年は平和が訪れないであろうと言われるほどには。

 ここでぼくの出自について思い出す。と、その前に日本について言うと、第二次冷戦崩壊後基軸通貨であったドルと一蓮托生であった円の通貨価値の暴落などで財政破綻をきたし、アメリカと同じようにG.g社の企業統治下になった。通貨もG.g社製のデータコインに変わった。ぼくは今でも、0と1の集合体が時に国家を買収できるほどの価値を持つことについては疑問というか不思議に思うことがあるが、それはまた別の話だ。

 その時に公務員だったぼくは旧政府の意向でG.g社の採用面接を受け無事採用された。最初のうちはやる業務は公務員のころと変わらない事務的な仕事だったけれど、東南アジアへの介入が始まったころからそういった仕事は本部のAIに自動化されていった。代わりに周りで東南アジア、特に紛争地域への左遷が増えた。多くの場合、左遷によって給料が上がるのだが、妻帯者や子持ちの社員は嫌がっていた。誰だって自分を危険な環境にさらしたくはないのだろう。不思議なことに、それでも結局左遷を拒否した人は見たことがなかった。ぼくはまだ左遷の憂き目には合っていなかったけれど、同僚がかなり左遷されていった。やっぱり企業統治には初期投資として多くの人的資源が必要なんだろうと、その時は思っていた。誤解を招かないように一応言っておくと、これにはもちろんソビエトジョーク的な意味合いはない。

 ぼくは日本にまだとどまっていたが、仕事自体はどんどん少なくなってきていた。給料はそのままで、週20時間ぐらいの出社で済むようになっていた。このころからぼくはニュースを見たり読書したりするようになった。実はここまで書いたことや自分の意見は、このときから知ったことや感じたことが大半だったりする。知識の裾野を広げてみると、世の中で関心を持たれるべき事は意外と多いことに気づいた。それはたいした趣味もないぼくにとって喜ばしいことだった。


 そして今、ぼくが廃線を辛うじて免れているような路線の電車を待っている理由は、とうとうぼくも左遷されるからだ。左遷と書いたが、実際は少し違う。左遷というよりもぼくが志願したからだ。行き先はフィリピン。第二次冷戦前から麻薬組織と自警団の争いがあり、国家権力が及ばない地域の多い国だった。だから第二次冷戦後はその抗争が一段と悪化し、東南アジアの中でも群を抜いて激しい混沌の中にあった、というか一部地域ではまだ混沌の中だという認識が一般的だ。そしてなぜ誰も行きたがらないのかというと、G.g社の企業統治を受け入れず、安全が確保されていないとみなされていたからだ。

 それでもぼくがフィリピンに行きに志願した理由、あるいは何がぼくを惹きつけているのかというと、それ(以下欠損──)出力終了。

 

2/4 2054 

出力開始。起きている間は雲の上だった。積乱雲によって若干到着時間に遅延が発生した。他は問題なし。出力終了。


2/5 2054 

 出力開始。入国審査は緊張したがすんなりと入国できた。日本にはペソの為替業務をやっている銀行はもうないから、現地でやるしかない。仮想じゃない実物の通貨を触るのは子供以来だから新鮮だった。

 G.g社製の連絡用端末を受け取った。眼鏡型の端末で、当たり前過ぎることではあるものの、一応言っておくとその見た目はまさに眼鏡だ。AR(拡張現実)のデバイスで、インターネットに接続してG.g社の各種サービスを利用したり、各種センサーで目の前のものをスキャンしたりできる。そして何より重要な機能が本社の統合AI;ジーニアスブレインに割り込み処理ができるということだ。さらに、耳元の静脈と目の虹彩で使用者を認証するのでセキュリティーは十分に確保されている。

 UIにはまだ慣れていない。というか眼鏡をかけたことがないから装着に違和感がある、が、慣れるしかない。これにはお世話になりそうだ。何て呼ぼうか。見るからに眼鏡だから眼鏡でいいだろう。それはさておきそのあとは同時に入国した社員とセキュリティーサービスを慎重に確認した。指定されたホテルで最後のミーティングをしたら独自調査に移行する予定だ。出力終了。


2/6 2054 

 出力開始。電車での移動。目的地のミンダナオ島までは船で行くしかない。出力終了。


2/7 2054

 出力開始。船出の前にマニラ郊外で一泊した。マニラはまだ治安が良いほうで、ラジオ放送を眼鏡で自動翻訳して聴いている限りでは、目的地のミンダナオ島では麻薬組織対自警団の紛争は終息しつつあるが断続的に続いているようだった。事前調査通りである。

 夜の九時くらいにホテルのベランダで煙草をふかしていると、隣のベランダから人が出てきた。現地人のようだった。迷惑だろうと煙草を消そうとしたら現地語のタガログ語でいえいえ、かまいませんよと言われた。その隣の部屋にいた現地人と仲良くなった。

 彼曰く、マニラはまだましだが、ミンダナオ島はひどい有様だと。ミンダナオ島行きの船には生きた人間が乗っているが、向こうからやってくる船は死体を積んで来るのだという。ぼくはミンダナオ島に行くんだけど、帰ってくるときは死人ですか?と聞いたら、違いないと返ってきた。ふつうこんな島に行くのは自殺志望者だと思われて当然だが、ぼくの心はむしろ落ち着いていた。十時ごろには寝た。出力終了。


2/7 2054 (メモ)

出力開始。なんて書くのは野暮だ。何せこれは本物の紙のメモだからだ。手を動かさなければ何も記録できない。それはさておき2月3日のデータが途中から消失しているようだ。ネットワーク経由で削除されたものと推測し、察するに本社の検閲にかかっている様なのでダミーで持ち込んだ藁半紙に書き込む。アナログデータでは書ける量に限界があるので、以下は思い出しメモとする。


カフカフ  ダバオ都市開発  出力終了。なんてね。


2/8 2054

 出力開始。ミンダナオ行きの船で男と出会った。五十半ばの男だった。メガネの自動翻訳機能を使って会話したが、趣味が合って意気投合した。紛争地域から一人娘をマニラに連れ帰るためにミンダナオ島に来たらしい。ぼくが端末で衛星写真を見せて娘さんの地域では紛争は終息しつつあると伝えると、男は喜んだ。SNSでお互いをフォローした。目的地が同じダバオなので同行することにした。途中の宿も一緒に泊まろうということになった。出力終了。


2/9 2054

出力開始。あの男と話した後寝てしまった。男はまだ寝ている。船は港で検問を受けているらしく、動いている様子はない。相変わらず薄暗い蛍光灯が不定期に点滅している。

 見ると、憲兵は戻ってきたようだった。船について聞きたいので、憲兵に恐る恐る自動翻訳で話しかけた。

「すみません。船はどうなっているのですか。」憲兵はこちらを見るや、冷静な口調で、

「ヤクが発見されて時間がかかってるが、もうすぐ終わる。」と答え、続けて、

「検問はあと1、2時間で終わる。ミンダナオ島に上がれるぞ。」と言った。

「ありがとうございます。」

 そしてふと、眼鏡の表示をみると、驚くべきことに気づいた。


“インターネット接続がありません”


これは困った、と思った。

検問の過程で何か通信機器が徴収されたのか、とも思ったがその様子はない。眼鏡は見たところ異常はない。考えられる要因は眼鏡の内部故障か、あるいは無線封鎖が行われたか。あるいは両方か。

 とにかく、本社のジーニアスブレインへの接続を含めG.g社の管理するインターネットの世界からは隔離されたわけだ。しかし、思えばそこまでショックなわけではないと感じた。正直、G.g社のネットワークではぼくの目的に関しての内容が検閲されてしまう;2/3時の出力のように。だからぼくとぼくの目的にとってはこっちのほうが好都合だ。暇つぶしのゲームができなくなるのは不都合だが。これで心置きなくぼくのフィリピン滞在目的に関して整理ができる。さっき憲兵に聞いた通りなら、あと1・2時間ほど上陸まで時間がある。今のうちにその整理を済ませておこう。

 

 仕事が減って暇が増えたころ、ぼくは長らくやってこなかったSNSというものを始めた。サービス自体は第二次冷戦崩壊前からあったのだが、激務の中そんな余裕はなかったので、30にもなってようやく始めることになった。

 登録して何人かフォローしていくうちに、ある傾向に気づいた。G.g社を称賛するような内容やアカウントがより多くの人々にシェアされているということだった。あくまで傾向としてであるが、G.g社を批判する内容を書き込んだアカウントは、多くの利用者から非難されたり、ブロックの対象になったりしているようだった。非難する人間をまとめたブロックリストも存在した。

 もちろん反G.g社勢力も同じような手段を用いていて、ある程度の規模にはなっていたものの、明らかに世論と呼ばれるものはG.g社支持のほうだった。

 偏りがあるように見られるかもしれないが、これには理由があった。G.g社支持側で多くの支持を得ているアカウントは明解で実に論理的な意見が多く、たいして反G.g社の方は感情論が多く、説得力に欠けるものが多かった。一般的に見れば、偏るのは当然に見えた。

 しかし、ぼくは疑問を隠せない部分が多くあった。一つは、なぜ反G.g社層のアカウントには説得力のある意見を言える人間が殆どいないのか。二つ目はその逆で、なぜG.g社支持層には説得力のある意見が多いのか、ということだった。G.g社は支持されるべき功績を残しているからだ、と言ってしまえばおしまいだが、どうにもそれで納得することはできなかった。

 そんなぼんやりとした疑問を浮かべながらSNSを見ていたある日、あるアカウントにフォローされた。反G.g社のアカウントだった。だが、それは他とは明らかに異なっていた。非常に明快な論理と、説得力のある結論に裏付けられた、秀逸な主張。G.g社支持層の有名アカウントの主張を多角的な視点から切り崩し、論破する。一目見た瞬間、他すべての反G.g社アカウントとは別格だとわかった。

 ぼくはフォローを返した。彼のアカウント名はカフカフ。ロバの絵をアイコンにしており、プロフにはSNSの極地へようこそなんて書かれている。だが、彼に関してそれ以上の事はわからなかった。性別すらも。これは別段珍しいことではなく、匿名が基本というSNSのルールに即しているだけだ。

 しかし、ぼくは彼にかなり惹かれることになった。彼がつぶやけば誰よりも早くシェアしたし、疑問があればコメントした。彼は、口調は荒いものの真摯で、コメントにもよく返答をくれた。

 彼のアカウントは次第にフォロワーを増やしていった。ぼくが見始めたときは数百人だったフォロワーは、もはや数万人になっていた。ある時点でフォローを解除された。ショックではあったものの、結局彼のつぶやきをシェアすることは変わらずじまいだった。

 ちょうど1年前のことだった。ぼくにとって驚くべき出来事が起こった。いつものように彼が何かつぶやかないかとSNSを開いたところ、彼はちょうどなにか投稿したところだった。内容自体はいつもと同じようなことであったが、びっくりしたのは彼がおそらく誤ってその投稿に位置情報をつけてしまっていたことだった。当然彼はすぐその投稿を削除し、位置情報を外して再投稿したが、それでも一瞬だけ映った「フィリピン ミンダナオ島 ダバオ」この文字列をぼくは鮮明に覚えている。そう。ぼくがフィリピン行きに志願し、ただでさえ治安の悪いダバオに向かっている理由は彼に会うためなのだ。

 

 だがしかし、もちろんそんな理由では志願することはできない。ぼくは理由を作らなければならなかった。

 

 まず、本社のデータベースでダバオ周辺の情報を解析することにした。そのあと、ダバオの位置情報の付いたSNSの投稿を集め、分析した。そして、紛争の絶えないミンダナオ島で発生しているある異変に気付いた。

 それは猛烈なスピードで成長する都市だった。簡単に言えば、ダバオ周辺に異常な速度で道路が通ったりビルが建ったりする地域を発見したのだ。最初は信じられないことではあったが、衛星写真の分析と現地民の投稿がまぎれもない事実を突きつけた。その異常の始まりは昨年の2月頃で、その都市面積はまるで苔などの生き物のように広がっており、上陸する2/9ごろにはフィリピンで最も大きな島であるミンダナオ島を覆う規模になると予想された。

 以上のことを報告書にまとめ本社に提出した。本社からの回答はデータの妥当性に疑問はあるものの、それも含めて調査が必要と判断する。治安が悪化している地域なのでなるべく少人数、1人での実地調査を行うのが好ましい。そしてさらにその任をぼくに任せたいというものだった。

 まあ、それを見たときはあまりにもあっさりした回答だな、しかし一人で紛争地域とは危ないなとも思ったが、実際来てみれば先ほどの憲兵のようなセキュリティーサービスのおかげか特に危険もなくここまで来ることができた。ここはさすがG.g社というべきか。

 治安の良くない地域で、先進的な都市計画を立て、実行しているのは誰なのか。それが訪比の表向きの理由である。以上が滞在目的に関する覚書である。出力中断。




 出力再開。たった今、検問が終わったという艦内放送を聞いた。時計を見るとフィリピン標準時で5時を指している。窓のない個室からようやく解放される。個室で既に纏めてある荷物を持って部屋から出た。さて、ミンダナオ島はどうなっているだろうか。

 上陸の為一旦デッキに上がると、そこには驚くべき光景があった。というか驚かないはずがない光景だ。ミンダナオ島の港が見える。見えるが、それは観光ガイドで見たものとは全く異なっていた。そこに在ったもの、それは高層ビルの乱立。四車線の舗装された広い道路が海岸線を囲む眺め。港には見上げるほど大きな橋と大規模で頑丈そうな桟橋が数えきれないほど整備されていた。


「これが、生き物のように成長するという噂の都市か。」

 それは、予想がついていたぼくでも言葉を失わざるをえない光景だった。他の乗客も目を見開いているかあるいは信じられないのか目をこすっている。感嘆の声以外は聞こえない。昨晩話した男も、膝を打って放心していた。大丈夫ですか、と声をかけても上の空だ。

 

 ぼくはこれから、かのアカウント名:カフカフを見つけなければならない。しかし、一日とはいえ船内に閉じ込められていたから非常に疲れがたまっている。しかももう夕方だった。ぼくはこのあと男と一緒に上陸し約束で同じ宿に泊まることになる。出力終了。

 

2/10 2054

 出力開始。男とともに一泊した宿を出て電車に乗りダバオに向かう。念のため治安の悪い地域を避ける路線を選択したが、窓から見る景色や、停車駅で外を見るに、治安が悪そうな地域はない。どこを見ても日本のG.g社生活水準維持特区なみにビルやマンションが建っており、どう見ても、少なくともひと月前まで麻薬闘争をしていたような地域には見えない。電車も、マニラで乗ったような遅い電車ではなく、日本の特急列車並みは出ている。

 ダバオまで4時間ほどで到着した。そこからは男とは別行動になった。ぼくはアカウント名:カフカフを探さなければならない。出力中断。

 

2/17 2054

 出力再開。一週間いわゆる人探しをやったが、まったくお手上げだ。船であった男はもちろん、ビル街、商店街、住宅街、あらゆる場所で聞き込みを行ったが、アカウント名:カフカフに関する情報は得られなかった。相変わらずインターネットはつながらないから、アカウント名:カフカフの投稿が見られないのもつらいところだ。

ぼくが見たダバオの街並みは一見して高度な都市に見えるが、都市の急成長に人口が追い付いていない印象を受けた。高層ビル街にも人はいるが下の市場のほうが賑やかに見える。

 道行く人になんで紛争地域だったここがこんなに成長したのか、と聞くと、よくわからない、が、1年前から恐ろしいスピードでビルや道路ができていくのをこの目で見た、という奇妙な話を多数聞いた。やはりミンダナオ島では異常事態が起こっているとみるべきだと思った。

 それはともかく、彼の投稿を見れないこと以外でもインターネットが繋がらないことは非常に困ることだった。本社の仮想通貨の支給も受けられない。それはこれ以上長くはここに滞在できないことを示していた。最近は人探しよりも安い宿を探すことに時間がかかっている。本末転倒だ。出力中断。


 出力再開。この幸運に私は感謝しなければならない。ダバオについた時の駅周辺で宿を探していたら船で意気投合したあの男に会った。宿を探しているのだ、もう金が尽きそうだ、と話すと、なんと彼は一週間自分の家に泊まっていかないか、と提案してくれた。おかげで今、ぼくは暖房のきいたダイニングで食後のワインを楽しめている。気が付けばもう夜だった。

 彼の家には彼と彼の娘がいた。お互いSNSの名前しか知らなかったが、本名を教えあった。彼の名はアレンデール・リッチランド。娘はラノ・リッチランドというらしい。とりあえず男のほうをアレン、娘のほうをラノと呼ぶことにした。

「今日はぼくに宿をくださってありがとうございます。アレンさん。」

「いえいえ、船の中で娘の安否についての情報をくださったこと、大変感謝しています。あんなに鮮明な衛星写真はどこのサイトにもない。そうそう、もうすぐ娘が学校から帰ってきますよ。高校1年生なんです。」

「そうですか、お父さん一人で仕送りを続けるのはなかなかつらかったでしょう。娘さんも一人で部屋まで借りて掃除・洗濯なんて・・・ご立派です。」

「ええ、本当に娘に会えないのはつらかった・・・・」

しばらくの無言。ぼくはコップのお茶をすすった。と、その沈黙を破るように玄関から声がした。

「ただいまー」

「おかえり、ラノ」

 目の前で父親と娘の介抱を見る。なんとなく気まずい。

「彼女がラノちゃんですか。いやあ利発な子ですね。」

「そうです。たった一人の自慢の娘です。」

「この日本人の人だれ?」

「ああ、紹介が遅れました。鍵谷翔です。日本で会社員をやっています。フィリピンには私用で、えーっとダバオに友人がいるので会いに来たのですが、その友人がなかなか見つからないのです。」

「そうなんですか。もともと紛争地域でしたからねー。」

「縁起でもないことを言うな。失礼しました。一応娘にも聞いてやってください。人探しのことを。いかんせん役に立たないかもしれませんが。」

「そうですね。ラノちゃん、今友人に関してわかってるのは彼のSNSアカウントだけなんだ。今はインターネットつながらないので直接は見せれないんだけど。」

「私の端末を貸そう。どうぞ。」とアレンが言った。

 ぼくはアレンの端末からSNSアプリを開き、アカウント名:カフカフのページを検索して見せた。一週間の間見れずにいた彼の投稿が気になる気持ちを抑えながら、それをラノに見せた。

「このアカウントに心当たりはある?」

ラノはしばらく端末を凝視した後、

「うーん・・・・あっ!名前に見覚えがある!先生、高校の生物の先生にこの、カフカフみたいな名前の人がいる!」 

「なんだって!」

 ぼくは思わず机から立ち上がる。嬉しさがこみ上げる。無理もない。この一週間なんの進展もなかったのだから。

「確か名前は・・・・ヘンリー・フォン・カフカフスキーって名前っだったはず・・・・。」 

 確かにそれらしい。だが人違いかもしれない。ぼくは端末を返してもらい、

「じゃあちょっと投稿のほうを見て。あっ日本語だから翻訳するね。」

 端末の翻訳ツールを通し、アカウント名:カフカフのSNSの投稿を見せた。

「あ、あのさ、その先生さ、授業終わる前に十分ぐらい長話をするの、みんな眠たくて寝ちゃうけど・・・・でもこの投稿とか、おととい聞いた話とすごく似てる!」

 ラノは端末をこっちに向けて話した。

「本当か!」

 興奮を隠しきれなかった。まさかここで重要な手掛かりが得られるとは思っていなかったからだ。そのあとも、生物のカフカフスキー先生に関して、多くのことを聞いた。そして大きく二つのことが分かった。

 

 一つ、彼の名前はヘンリー・フォン・カフカフカフスキーで、2052年度の三学期からラノの通う学校に生物教師として赴任してきたこと。

 二つ、彼は五十歳ぐらいの男性で、赴任前は中国にいたということ。今はフィリピン国籍を取得しているということ。ただ、名前とは裏腹に日本語が堪能で、授業は自動翻訳を通して行われているということ。

 三つ、彼は授業の最後にしばしば長話をし、その内容がアカウント名:カフカフの投稿よりも早い日もあったということ。

 

 二つ目、三つ目から、アカウント名:カフカフ=生物教師ヘンリー・フォン・カフカフスキー説は有力になった。ぼくはラノに彼に会えないか、と聞いた。ラノは、「相談してみる」と答えた。

今日は奇跡が立て続けに2回も起こった。素晴らしい日だ。久しぶりにあったかい羽毛ふとんで寝ることができる。おやすみ。出力終了。  


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