番外編その2 マリー・テレーズ様の憂鬱

「だう!」

 引き止める間もなく、あの子は行ってしまったわ。

「……あっ」

「マリア様!」

 急いでナナが追いかけたけれど、大丈夫かしら。


 それにしても。何がいけなかったの?

 あの子はどうしちゃったの?


 わたしはあの子の重みの分だけ軽くなった自分の手をじっと見たわ。

 やがて、しょんぼりとナナが戻ってきた。

「申し訳ありません。見失ってしまいました」

 そう。わたしと彼の子だけあって、飛ぶのも速いのね。大したものだわ。

 でも――。


「ナナ、あの子はどうしてわたしの胸に触ろうとしたの?」

 

 ナナはおろおろしながら、答えたわ。

「多分、人間の赤ん坊みたいに触りたかったのかと」

「……男でもないのに? 人間の赤ん坊って、そんなことをするものなの?」

「ええ。母親に甘えて。……とにかく、心当たりを探してみます」

 

 ……母親。

 

 わたしは少し考え込んだ。

 時代は変わったわね。わたしが現役だったころには、赤ん坊は母親の背に背負われているものだったけど。それに、上の娘たちは、あの子みたいなことしたことないわ。

 ……でも、あの子とっても悲しそうだった。きっと、わたしが何かいけないことをしたのよね。

 しばらく考えてみたけど、どうしても理由がわからないわたしは、久々にあの子の父親を訪ねることにしたの。



「御機嫌よう。あなた」

 

 書類に目を通していた彼は、驚いたように言ったわ。

「おや、マリー・テレーズ。今日も君は美しい」

「ありがとう。あなたもとっても素敵よ」

 彼は書類を脇に置いて、ソファに座るようすすめてくれたわ。相変わらず、優しいのね。

 わたしと彼にお茶をもってくるよう使い魔に言ったあと、彼はあらためて尋ねたわ。

「ところで、今日はどうしたんだい?」

「じつはね、わたしとあなたの娘のことで、相談があるの」

「君とぼくの娘……」

 彼、誰のことだかすぐには思いだせないみたい。無理ないわ。なにせ、彼には他の悪魔の間にも、たくさんの子がいるんだもの。

「ほら、あの子よ。十年ほど前に生まれた、わたしの末娘のマリア」

「ああ、あの子か!」

 よかった。マリアのことを覚えていてくれたみたい。

「生まれたときから、あの子はかわいかった。で、元気にやってるかい?」

「ええ。精気もちゃんと吸えるようになったし、愛嬌も振りまけるようになったから、おととしくらいから人間界に行かせてるんだけど……」

「なにか、問題でも?」

「それが……。わたしの胸に触ろうとしたの」

「……」

 彼は黙ってしまったわ。

「で、わたし驚いてしまって。思わずその手を払ったら、あの子ったら、悲しそうにどこかに飛んで行ってしまったの」

 わたし、思い切って尋ねたわ。


「わたし、何かいけないことしたのかしら?」


「……人間の子は、卵で誕生する我々とは違い、母親のおっぱいで育つからね」

「そうなの?」

 知らなかったわ。

「でも、他の娘はそんなことしたことないのよ。あの子、変わってるわ」

「――そうかい」

 彼はまるであやすみたいな笑みを浮かべたわ。

 もう! あなたったら、いつまでもわたしを子ども扱いするんだから!

 ちょっとむっとしたわたしに、彼は言ったの。


「きっと、マリアは人間に馴染もうとしているんだね」


「……人間に?」

「そう」

 彼は運ばれてきたお茶を一口飲んで、話を続けたわ。

「人間は変わる。我々も、人間に合わせて変わっていかなければいけないということだろうね」

「そう」

 あなたは、そう思うのね。

 ちょっと不服外なわたしの様子に気づいたのか、彼は今度はいたずらっぽい笑みを浮かべたわ。

「――ま、母としてまだ甘えてくる娘がいてくれるのは、ありがたいことじゃないかな。どうだい? いい機会だから君も人間界に行ってみて、かわいいぼくの娘と、人間の母子ごっこをやってみたら」


「人間の母子ごっこ……」

 

 想像したら、なんだか楽しそうに思えてきたわ。


「わかったわ! わたし、やってみる!!」


 わたしはすぐさま立ち上がり、人間界に行く用意をすべく、城へと急いだわ。


 人間の母子ごっこ! まずはいま人間界で流行の服を揃えて。あと、あの子の居場所を悪魔の水晶にのぞいてもらって……。


 ああ、楽しみ!


 こうしてわたしはいくつかの大きなトランクをコウモリたちに担がせて、人間界へと向かったの。

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だめさきゅ! 竜堂 嵐 @crown-age2016

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