番外編その1 マリア様の憂鬱 後編

「だう」

 お母さま、お久しぶり。


「あら、マリア」

 お母さまはにっこり微笑んで、わたしを迎えてくれたわ。

「どう? 今年もがんばって、愚かな人間の男どもから精気を絞りとってる?」

「だう」

 ええ。来年もランキング1位をとれるよう、がんばってるわ。

「それにしても、今日はどうしたの? お休みでもないのに」


「だう!」

 お母さまに褒めてもらいたかったの! 

 いいでしょ! わたし、今年1位だったんですもの!

 

 そんなわたしの気持ちを、ナナが代弁してくれたわ。

「マリア様がお母さまに会いたいと仰って。普段がんばられていることですし、――どうでしょう? 抱っこしてさしあげたら」

「……そう。そうね。1位だったんですもの。褒めてあげなくてわね」

 そう言うとお母さまはわたしを抱っこしてくれたわ。……いい匂い。お母さまの匂いだわ。

 それからしばらくわたしたちは、楽しくお話をしたの。人間界での暮らしについてとか、もちろん、あいつのこともついでに話題に出してあげたわ。

 そして――。


「……だう」


 わたしは勇気を出して、お母さまのおっぱいに手を伸ばしてみたわ。

 人間の赤ちゃんがそうするように。

 大丈夫、お母さまは優しいもの。

 

 ――でも。


「いや! 胸の形が悪くなる!」

 お母さまは、わたしの手をそう言って払いのけたの。


「……だう!」

 ……ちょっと甘えたかっただけなのに! お母さまのバカ!


 わたしは悲しくて悲しくて。気がついたら、ここに来ていたの。



「……だうー」

「……マリアちゃん、泣いてるの?」

「……だう?」

 わたしはまだはっきりしない視界の中、そっと目をこすったわ。……誰もがさわらずにはいられない、わたしのふっくらした手の甲が濡れてる。

 

 わたし、泣いてたの?


「怖い夢でも見た?」

 いいえ。悲しい夢よ。わたしは抱っこしてくれたあいつの胸に抱きついたわ。

「マリアちゃん」

「だう?」

 なに?

「ナナちゃんが迎えに来るって」



 時間は少し、遡る。

『――というわけなんです』

 ナナちゃんから理由を聞いた俺は、一気に脱力した。

 マリアちゃん、かわいそ……。

 でも、あいつになんて説明しよう。

 子どもが甘えたがっているのに、それを拒否した母親なんか、あいつは絶対許せないに違いない。


「おっぱいくらい触らせてやりゃいいのに……」

 

 ひとりごとのつもりだったが、ナナちゃんは聞き逃さなかった。


『なに言ってんすか! おれたちの商売、基本体が資本なんすよ!! 胸の形が悪いサキュバスとか、妊娠線の出たサキュバスとか、ありえないっす!』


「いや、そうかもしんないけどさ。人間のアイドルもいつまでも続けられるわけじゃないし」


『とにかく! すぐそっちに迎えに行きますから!!』

 

 ナナちゃんにしては珍しく、テンションマックスで電話が切れた。

 すぐ行くったって、いま君どこにいんだよ。時間、どれくらいかかるんだよ。

 聞きたいことはいくつかあったが、次の瞬間現れられても困る。

 俺は一旦部屋に戻ることにした。


「ナナちゃんと連絡ついた?」

「うん。これから迎えに来るって。……じつはさ」

 とっさに俺は嘘をついた。

「マリアちゃんのお母さんが、今日は久しぶりに帰ってくる予定だったんだけど、仕事でダメになっちゃったんだって」

「……そうなの」

 恋人は目を丸くしたあと、ふっと優しい顔になった。

「それはマリアちゃん、寂しかったね」

 言いながら、優しい仕草でマリアちゃんの前髪をよける。

「……ぁう」

 小さくマリアちゃんが身じろいだ、かと思うと大きく伸びをした。しまった。起きちゃったか。できれば寝てる間にナナちゃんに引き取ってもらいたかったのにな。さらに悪いことに。

「……だう」

「マリアちゃん、泣いてるの?」

 ええ!?

「怖い夢でも見た?」

 マリアちゃんは目をこすりながら、小さく首を振る。いよいよ嫌な予感が……。

「マリアちゃん」

「だう?」

「ナナちゃんが迎えにくるって。よかった……」

 ね、を恋人が言いきる前に、


「ぎゃーん!!」


 マリアちゃんが大音量で泣き出した。


「ど、どうしたの?」

 あわわわっ。

 そしてタイミング悪くなる、インターホン!

 マリアちゃんの大きな泣き声は外にまで聴こえてたのか、返事を待たずにドアが開いてしまった。


「マリア様!?」


 まるで俺たちが何か悪いことしたみたいじゃんか!

 マリアちゃん、落ち着いて! ナナちゃん、そんな目で見ないで!


「どうしたの? ナナちゃんだよ」

「やー!!」

 ――わかってるわ! でも、いまお母さまを思い出させるものを何も見たくないの!!


 マリアちゃんは、小さな手で恋人の服をしっかりつかんで離そうとしない。

「困ったな……」

 困っている恋人の前では、ナナちゃんが情けない顔をしている。世話係として、これほどはっきり拒絶されたことは一度もなかったはずだ。俺は何だか申し訳ないような気がしてきた。


「とにかく、お家に帰りましょう? ね?」

「いーやあ!」

 

 赤ん坊の全力ってこんなにすごいのか。

 ナナちゃんに抱かれるまいと、懸命に腕をつっぱね、柔らかな足の裏で蹴りを繰り出し、あらん限りの力で暴れる、暴れる。


「マリア様、落っこちちゃいますから!」

「マリアちゃん、お願い!」


 2人の大人が1人の赤ん坊に右往左往しているさなか、だしぬけに声が聞こえた。


「マリア」


 その場にいた全員の顔が、開けっ放しの玄関に向いた。

 マリアちゃんがピタリと泣き止み、一拍置いて、彼女は叫んだ。


「だう!」

 ――お母さま!


 部屋に上がってきた、上品な白いスーツ姿の美しすぎるその人の胸に、マリアちゃんは飛び込んだ。

「だうー、だうー!」

「マリア、お母さまが悪かったわ。ごめんね」

「だうー!!」


「……」

 なんて、美しすぎる母子だ。

 俺は思わずさきゅを見た。


「なんだべや!」


 いや、別に。

 同じサキュバスの母子でも、天と地ほどに差があるなあと、ただそう思っただけ。


「マ、マリー様、どうしてここに?」

 一方、ナナちゃんは俺とは違った意味で動揺しているようだ。

「あら。母親が娘を迎えに来るのは、当然ではなくて?」

 すげえ。お母さま、余裕だ。

 マリアちゃんを優しく揺すりながら、美しすぎるお母さまは俺と恋人に言った。

「すっかりご挨拶が遅れてしまって……。マリアがいつもお世話になっております。マリアの母の、マリー・テレーズと申します」

「あ、ああ、はい……」

「……日本語、お上手ですね」

 美しすぎるお母さまは、美しすぎる微笑みを浮かべた。

「ええ。ビジネスで、夫ともども日本は長いので」

 ……マリアちゃんのお父さまって、確か、ルシファー様だったよな。つか、悪魔のビジネスって。……怖いから、考えるのやめよう。

「あっ、これ、つまらないものですが」

 そう言って、美しすぎるお母さまは美しすぎる手で、手土産を渡して下さった。きっと白魚のような手(今どき、誰も使わないな)って、こんな手を言うんだろうな……。

 ぽやんとした気分に浸る俺に、


「吉嵩」


 恋人の鋭い声が。

 もちろん、愛してるのは君だけさっ、理央。

「じゃ、帰りましょうか。マリア」

「だう」

 玄関まで見送りに出た恋人は、「あの……」とおずおずと美しすぎるお母さまに声をかける。

「お仕事がお忙しいのはわかりますけど、もっとマリアちゃんにかまってあげて下さいね」

 美しすぎるお母さまはちょっとだけ驚いたような顔をして、

「ええ」

 と笑顔で答えた。

「じゃあ、おれたちはこれで。今日はご迷惑おかけしました」

 ナナちゃんがぺこりと頭を下げる。

「ううん。……マリアちゃん、またね」

 恋人がバイバイと手を振る。


「それでは」


 美しすぎるお母さまが身をひるがえそうとしたそのとき、それは起こった。


「ばいばい」


 あどけない声がやけにはっきりと聞こえた。

 驚く俺たちの前で、マリアちゃんはもう一度言った。今度は手を振って。


「ばいばい」


「……はい、バイバイ」

 恋人も同じように手を振る。

 美しすぎるお母さまは軽く会釈して、腕に抱かれたマリアちゃんと、ナナちゃんとともにかんかんかんと軽やかに階段を降りていく。

 恋人は、その音が消えるまで玄関に立ち尽くしていた。



「……だうー」

 それにしても、お母さま。どうして人間界こちらへ?


 お母さまは優しく微笑みながら言って下さったわ。

「お父さまが、行ってきなさいって」

「だう?」

 お父さまが?

「ええ。……おっぱいには触っちゃだめよ」

「……だう」

 ……やっぱり、ダメなのね。

 落ち込むわたしに、でも、お母さまは素敵な提案をして下さったの。

「でも、今夜はたくさん甘えていいわ。一緒におねんねもしましょうね。それから、朝はご飯も一緒に食べましょう」

「だう!」

 お母さまがミルクを飲ませてくださる! どうしよう、明日が待ちきれないわ!

 心はとってもわくわくしていたけど、今日は泣きすぎたわ。とってもつかれちゃった。

 まぶたがとっても重いわ……。明日起きるときはまたお母さまに甘えて、ミルクを飲んで。そうだわ。今日のわたし、とってもナナを困らせたわ。明日謝らなきゃ。で、お散歩には公園に行って、いつも通り精気を吸い取って。またあいつに会ったときは、ものすごくかわいいお顔をしてあげるの。あ、あと、あのとかいう役立たずにも、一応感謝を示してあげなくてわね……。

 

 ――そんなことを考えながら、わたしはお母さまの温もりの中、目を閉じたの。

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