番外編その1 マリア様の憂鬱 前編

「だう」

 あるアンニュイな午後。

 わたしは高層マンションの窓から、虫けらのような愚民どもを見下ろしながら、想うの。


「だう」


 あいつのことを。


「マリア様、ミルクの時間ですよ」

「あい」

 この子は、ナナ。わたしの世話係。西の“リリス”ナリス様の娘。

 かく言うわたしは北の“リリス”マリー・テレーズお母さまと、ルシファーお父さまの娘よ。

 わたしは生まれたときからサキュバス。それに疑いをもったことはないし、人間界のアホな男どもに一時の夢を見せる自分を誇りにすら思っているわ。

 でも……。


「あい」


「え? もういいんですか?」

「あい……」

「マリア様」

 ナナが心配そうにのぞきこんでくるわ。

「最近、食欲がないみたいですけど、どこか体の調子がお悪いんですか? それとも、おれのお世話の仕方に何か問題が?」

「だう」

 いいえ、ナナ。お前はよくやってくれているわ。ただ、最近、何だか憂鬱ゆううつなの。

 いいえ、原因はわかってるわ。



「はい、マリアちゃん。あーん❤」


 そう。問題はあいつ。最近ナナが仲良くなった、あのとかいう人間。

 あいつの存在が、わたしのこの小さな胸をどうしようもなくかき乱すの。


「マリアちゃん、赤ちゃんせんべい食べてみる?」

 ええ。……ミルクとは違うおいしさがあって、悪くないわね。

 食べるときのお口もごもごも、愛くるしい笑顔のもと、表情筋を鍛えるにはもってこいだわ。

「じゃあ、ちょっと遊ぼうか」

「だう」

 ええ、よくってよ。

「いないいない、ばあ!」

 子どもだましだけど、喜んであげるわ。

「あいー❤」

 最初はわたしもかわいい赤ん坊を演じるのが楽しかったの。

 だって、わたしはサキュバス界のサラブレッド。そして、女王。

 かわいいものには、すべてをかわいく見せる義務があるんですもの。


 でも……。


「マリアちゃん」


 ……あいつ、なんでいつもあんなに笑顔なのしから。

 どうしてあんなにいつも優しいのかしら。


 わたしは思い切って、ナナに尋ねてみることにしたわ。


「だう」

 ねえ、ナナ。


「何ですか?」


「だう」

 なんで、あいつはいつも笑顔なの?


「あいつ?」


「だう!」

 ほら、あいつよ、あいつ!

 いつも遊びに行く……。


「ああ、理央さんのことですか?」


「だう」

 そう、そいつ。


「だう」

 ねえ、なんであいつはいつも笑顔でわたしを迎えるの?


「理央さんは本当に子どもが好きみたいですからね。仕事も保育士さんだし」


「だう?」

 仕事? 仕事だから、わたしにいつも優しいの?


「いえ。理央さんは本当に優しい人で、マリア様みたいな子どもが本当に好きだから、優しいんだと思いますよ」


「……だう」

 わからないわ。

 

 だって、お母さまだって、ナナだって、わたしのお世話はしてくれるけど、あんなに優しい笑顔で、あんなにいたれり尽くせりしてくれたことはないわ。

 ……それが当たり前だと思ってた。


「だう」

 ねえ、ナナ。


「何ですか?」


「だう」

 人間の母親は、みんな、あんな風に優しいの?


 ナナはちょっと困った顔で答えてくれたわ。


「さあ……。人間によると思いますよ。はっきり言って、理央さんは特別だと思います」

 特別……。

 わたしにとっての特別は、やっぱりお母さまよ。

 ねえ、ナナ。


「だう」

 わたし、お母さまに会いたいわ。



 ふんふーん。今日の俺は完全フリー! 

 なぜなら、理央がさきゅを連れて遊びに行ってるから!(多分、あれだ。理央は最近新しく買った自分のジャケットとストールを、お遊びを理由に見せびらかしに行ったんだ)

 というわけで、今日は久々に子育てから解放される!

 イッツ、ダラダラライフを思う存分満喫するぞ!

(え? 楽しみがショボいって? ほっといてくれ)

 というわけで、俺はダラダラするためスーパーにジュースとつまみを買いに行ってきた。

 で、戻ってくるとそこには。


「……だう」

 なぜか涙でほほを濡らしている乳児が。


 ――ぽろっ。


 比喩ではなく、ドラマとかのワンシーンでもなく、俺の手から、だらだらするためのアイテムがつまったビニル袋が落ちた。


「マ、マリアちゃん!?」

 

 どういうことだ? なんでマリアちゃんがここに? っていうか、ナナちゃんは?

 きょろきょろと辺りを見回すも、見慣れたヅカ系はどこにもいない。

 とりあえず俺はビニル袋を拾い、さらに、借金取りがすぐさま蹴破れそうなショボい玄関ドアの前におっちんしているマリアちゃんを抱き上げた。


「マリアちゃん、どうしたんだよ? ナナちゃんは?」

「……あい」

 どういうわけか、マリアちゃんはまったく元気がない。どころか、すごく落ち込んでるようだ。 おそるおそる、俺は尋ねた。

「まさか……。1人でここまで来たの?」

「あい」

 弱々しい声で答えたマリアちゃんは、こくりとうなずいた。

「え? ええええ!」

 どうやって!?

「だう」

 俺の言葉にならない疑問に答えるように、マリアちゃんは小さな翼をばさっと広げて、パタパタした。

 え? もしかして飛んできた? ……誰にも見られなかっただろうな……。

 別に俺が悪いことをしたわけではないが、

「と、とにかく中に入ろう……」

 俺は声を潜め、辺りに人の姿がないか確認し、こそこそと恋人の部屋へと入った。


 部屋に入って、勧められた座布団に腰を下ろしたマリアちゃんは、やっぱり元気がない。

 おっちんしたまま、視線は斜め下。しょぼんとしたまま、時折「あい……」と涙ぐんでいる。

 ふと時計に目をやると、部屋に入ってすでに10分が経っていた。

 このままじゃらちが明かないと思った俺は


「とにかく、ナナちゃんに電話……」


 とスマホを取り出す。

 途端に


「だうー!!」


 マリアちゃんが猛抗議した。


「え? だ、ダメ?」

「あい!!」

「なんで? ナナちゃんとケンカでもした?」

 マリアちゃんは急にまたしょぼんとして。

「あい……」

 と答える。

「え? ケンカじゃないの?」

「あい」

「じゃあ、なんでダメなの?」

 余計にわからない。でも。

「でもさ、とりあえずナナちゃんに連絡とらないわけにはいかないだろ?」

「だうー!!」

 再びの猛抗議。

 俺は、折れるしかなかった。

 とりあえずマリアちゃんを安心させるために「わかった。わかったから」とスマホをしまい、この乳児のご機嫌をとることにする。

 涙を浮かべたままの目に、たっぷりと疑いを乗せ、俺の動きをじっと見ていたマリアちゃんだったが、やがて、何かを探すように辺りをきょろきょろと見回し始めた。

「? どうかした?」

「……だう」

 マリアちゃんが、何かを訴えている。

 

 ……。

 

 ――わかんない。


「だう、だう、うだ!」

 

 マリアちゃん、手をバタバタ。

 あっ、ひょっとして。


「理央?」


「あい!」

 おお! 伝わった!

 よくわかんないけど、未知との遭遇みたいですごく嬉しい!

 が、喜ぶ一方で俺は残念なお知らせをマリアちゃんにしなければならなかった。

「理央はさきゅと公園に出かけて留守なんだ。しばらく帰ってこないと思う」

「……だう」

 マリアちゃんはあからさまにがっかりした顔になった。

 ……そんなにがっかりしなくても。

 そう思った俺は、マリアちゃんを何とか喜ばせたくて、こう言った。

「あ、あのさ、マリアちゃん。お腹すかない?」

「だう?」

「ほ、ほら、この間食べた赤ちゃんせんべい! マリアちゃん、あれ、好きだろ?」

 途端にマリアちゃんの青い瞳がきらきらと輝いた。


「きゃわ~❤」


 おお! 初めて聞く歓喜に満ちた声! 

 ちっちゃな両こぶしを口元に持って行く愛らしい仕草といい、なんてかわいいんだ!

 初めて俺は赤ん坊をかわいいという恋人、及び世間一般の気持ちがわかったような気がした。そう。きっと親って、こんな愛くるしい我が子の姿見たさにがんばっているに違いない。

 俺はさらにこの赤ん坊を喜ばせるべく、はりきって台所に向かった。


 

 ……そして小一時間がたち、俺の後ろにはぎゃん泣きしているマリアちゃんが。

 結果から言うなら、俺はこのミッションにことごとく失敗した。


 1回目はせんべいをふやかす湯が熱すぎ。

「だうううっ!」


 2回目はせんべいをふやかしすぎ。

「だう~」


 3回目は湯の量が少なすぎて、せんべいが柔らかくならなかった。

「あ?」


 その後何度やってもマリアちゃんの満足する領域には辿り着けず、とうとうマリアちゃんは泣き出してしまったのだ。


「ぎゃーん!!」


 仰向けのマリアちゃんは手をバタバタさせて泣いている。俺にはもう、抱いてあやすだけの気力もない……。理央、早く帰ってきて。

  

 ――と思っていたら。


「ただいまー」

「理央! お帰り!!」

 これほど恋人の帰宅が待ち遠しかったときが他にあろうか。いや、ない。

「どうしたの……って、マリアちゃん?」

 恋人の帰宅に気づいたのか、マリアちゃんの泣き声が一時止んだ。

「あらあら、どうしたの?」

「ふぇ……。あーっ!!」

「おー、よしよし」

 恋人が素早くマリアちゃんを抱き上げる。

 近寄ってきたさきゅが、小声で俺に耳打ちする。


「どうしたんだべ?」

「いや、俺にも事情はよくわからないんだけど……」


「ねえ」

 

 恋人がだしぬけに俺に声をかけた。

 突然のことで驚いた俺は、さきゅと二人して飛び上がる。

「ナナちゃんはどうしたの?」

「あっ、えっと、なんか急な用事が入ったらしくてさ。で、預かったんだけど……」

「ふーん。で、この残骸は?」

「い、いや、マリアちゃんに赤ちゃんせんべいをあげようと思ったんだけどさ……」

 恋人が苦笑いする。


「失敗しちゃったんだ」


「う、うん……」

「で、マリアちゃんはご機嫌ななめなの」

 これは、俺にではなくマリアちゃんにかけた言葉。マリアちゃん、こくんとうなずく。

「そう」

 言うなり、恋人は台所へと向かった。その腕はマリアちゃんを抱いたままだ。

「もうすぐミルクの時間だから、1枚だけね」

 言いながら、恋人はやかんを火にかける。……常日頃思ってんだけど、こういうときのお母さんの腕力って、一体どうなってるんだろう。

 そして、恋人は俺が再三失敗した赤ちゃんせんべいをいとも簡単に作り上げた。

「はい、マリアちゃん、あーん」

「あー」

 はくっ。もむもむ。


 ぱああっとマリアちゃんの顔が輝いた。


「あい~❤」


「おいしい?」

「あい❤」

 この後マリアちゃんは超満足そうにミルクも飲み干し、そして、ぐっすりとおねんねを始めた。……よしよし。これでようやくナナちゃんに連絡ができる。

 で、適当に言い訳して外に出てきた俺は、さっそくナナちゃんに連絡をとった。


『え? マリア様、そっちにいったんですか!?』

 電話の向こうのナナちゃんの声は、相当あせっていた。

「そう。一体何があったんだよ?」

『……じつは』

 かくかくしかじか。ナナちゃんは事情を説明し始めた。

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