大雪だろうが出勤だ!エロス』

中田祐三

第1話

エロスは激怒していた。



必ずやあのクソ係長に文句を言わなければならない。



エロスとて労基法を完璧に遵守しなければとは思わない。



だが下肢が完全に埋まる程の雪でも出勤を命ずるのは明らかにおかしいということはわかる。



エロスは会社員である。 だが奴隷ではない。



いや奴隷でさえこの大雪では休ませてもらえるはずである。



よってエロスは自身を奴隷以下と扱う会社と上司に怒っていた。



それは私事ではなく公としての怒りである。



人間としての怒りである。



故にエロスは怒りの炎をその胸にたぎらせながら雪を掻き分けて進む。



ズボズボと足を持ち上げながら大通りに出ると、あちらこちらで車がスタックしていた。



そしてその周囲にはたくさんの人間が集まり、雪を掻き分けながらスタックしている車を救おうとしている。



おそらくは近所の住民達が見兼ねて助けの手をだしたのであろう。



その親切さと情の厚さはやはり日本人なのであろうとエロスはその横を通り過ぎながら無邪気に感動をしていた。



ふと思考を切り替える。



翻って我が会社はどうだろうか?



悪辣と愚劣を混ぜたような行動をする上役達にエロスは何度も絶望をした。



深い深い諦めのため息を何度もついた。



だがそれでもエロスは仕事だからしょうがないと童のように無邪気にそれを許してきたのである。



だが子供がやがて大人になるようにエロスも目覚める時が来た。



彼らは悪辣でも愚劣でもないのだ、無駄に高学歴なその頭脳を自身の出世のみにだけ使い、実際の仕事は下の人間に丸投げする。



そしてそのあがった功績に自身が施した労苦を万倍にして上役に報告するのだ。



なにか不具合があれば下の人間のせいにしたり他に責任を転嫁する。



その手練手管の巧みさを見れば彼らが愚劣のはずがないことにエロスはやっと気づくことができた。



エロスが気づいた真理。



それは彼らは無責任であり、上手くやり抜くことだけに自身の明晰な頭脳をフル回転させ、そのツケや苦労はエロスのような現場の者に負わせる、その傲慢さにこそエロスの怒りの源泉があるのだ。




すでに出発してから一時間がたっている。



現在位置は自宅から数百メートル程度であり、普段ならばその10分の1くらいの時間で着く距離であった。



このままでは始業時間に間に合わぬかもしれぬ!



いつもより三時間も前に出たというのに実際にエロスが進んだ距離は会社までの道のりの二十分の一である。



それがエロスの心を焦らせる。



ええい!背に腹は変えられぬ!



覚悟を決めたエロスは車道へと躍り出た。



車道は流石にいつもよりかは車の往来は少ない。



それでもまだ社会が動いているのを知らしめるようにチラホラと車がゆっくりと走っている。



「我は企業戦士! 仕事の為ならば多少の危険もSKYで乗り切れる準備や良し!」



轍に溜まった水の冷たさに耐えながら裂帛の気合でエロスは叫ぶ。



ああ!だがしかし 神はエロスの真面目な心をお試しするかのような運命を与えた。



雪の後に小雨を降らしたのである。



それはエロスの足に氷塊の如く取り憑く刃となってしまう!



だがエロスは挫けずにただ歩を進める。



挫けてはいけないのである。



なんともふわりとしているようで我が民族に強烈に刻みこまれている『仕事だから仕方が無い』という稲穂の時代から仕込まれてしまった農耕民族の哀しさがそこにはあるのである。



『もしかしたらトラックに突っ込まれるかもしれない!』



というSKYをしても尚、それをねじ伏せる



『もう死ぬかもとわかってても構わず、行くしかない!』



男子として生まれては時間を守らねばならぬ!



『観念』を腹に入れてエロスは会社に向かい続ける。



エロスの気力はまだ切れぬ。



同じ企業戦士達が踏み固めた轍の真ん中の雪道の真ん中を踏みしめてエロスは仕事に向かい続ける。



やがて会社の距離まで半分程過ぎた頃、エロスに声をかけるものがいた。



男である。 浅黒で濃い顔をしている。



海の向こうから出稼ぎに来た近所のボブである。



「ドコイクノ?ドコイクノ?」



珍しいものをみた童女のようにボブははしゃいでいる。



「おお!ボブよ!止めてくれるな!私は仕事に行かねばならぬ!行かねばならんのだ!」



熱く熱した鉄を吐き出すようにエロスは叫んだ。



ボブは驚き、彼に言うのである。



「ニホンジン、ホントアタマオカシイネ』



そんなボブの言葉にエロスは一瞬だけ『俺もおかしいと思うよ』という思いが浮かぶ。



だがエロスはその『弱音』を追い出し力の限り叫びながら雪道を急ぐのである。



黙りこんでしまえば、エロスの中にある人間性がこの状況に対して負けてしまう。



『 生きるための仕事』が『仕事のために生きる』という捻れた概念がエロスの勤労意欲を衰弱させていく。



それに抗するためにエロスは叫ぶのだ。



大丈夫だ! 大丈夫だ! 大丈夫だ!



実際は大丈夫ではなくてもエロスにはそう言い続けることしかないのだから。




やがて会社までの道のりは半分を越えた。



数多の企業戦士達が作り上げた轍と轍の間、そこに拵えられた『嘆きの橋』を進むことでエロスは遅れずにすみそうだ。



肉体は限界を超え、断裂した筋肉が悲鳴をあげる。



それに耐えながらもエロスの足取りは変わらない。 ただ走る。 走る。



まるで今日しか生きられない生き物のようにエロスは歩き続ける。



本来の意味での希望の橋を超えて



会社に向かい続ける。



なんと無為な行為であろうか!



これでもし死んだのならば、虫けら以下ではないだろうか?



エロスの家族は一人だけである。



エロスの母だけがエロスにとっての唯一の家族であり、それ以外はDNAが被るだけの『他人』である。



母だけがエロスを『絶対に愛してくれる存在』なのである。



母だけが『命を懸けて唯一自分のことを考えてくれていると信用出来る他人』なのだ。



その母のことを考えるとエロスの気持ちも堕ちる。



だが仕方が無いのだ。



母もそれを望むだろう。



この国の全土の人々が意識、無意識問わず、まるで『お米』のようにへばりついている。



ある種の観念。



そう、『日本人らしさ』。



その『日本人としての呪い』にエロスも『私』も『君』も捕らわれている。




それこそが根源である以上、エロスも読者もそれからは逃れられないのだ。



つまり『日本人らしさ』は『自分自身』なのである。




母の後の『後悔』を笑いながらエロスは会社へと猛進する。



 ついにエロスは会社へとたどり着いた。


 足はもつれ、息は倍速で動き、それでもこの後に続くであろう仕事への意欲は失わずにエロスは到着することができた。



 職場に着くとすでに何人もの同輩達が仕事をしていた。 まるで大雪など降らなかったかのように……あまりにもいつもどおりに彼らはそこに存在していた。



 ふとメロスの心の中に迷いが生じる。 それは今までにエロス自身が抱いた理不尽、不信感、それらがエロス自身の弱さゆえに出た感情なのではないかという想いだ。



 同じようにこの雪の中を出勤してきた者たちは大雪の中でここに来ることの大変さを語る者はいてもエロスのように会社や上司達への不満を漏らすものなどいない。


 

 皆それぞれが苦労して会社へ来た事を互いに称えあっている。



 それがエロスにはどうにも信じられぬ光景に思えた。 まるで家畜のように、あるいは狂信者のようにも見える。



 だが、……とエロスは考えてしまう。



 もしかしたらそんなことを考えているのは自分だけなのではないかとエロスはその狼狽を顔には出さず、ただただ不安そうに彼らを観察している。



 行政や政府への不満を語るものは居ても、この大雪の中で出勤を強要してきた会社への愚痴を言う者は皆無だ。



 エロスの不安はますます増えていく。 



 エロスもまた始末の悪いことに『日本人』なのである。 



 誰かが率先して動かなければ、場違いなことでさえも唯々諾々と従ってしまう。


  

 そしてそれに対する疑念を持つことにさえ『恥』と捕らえてしまう。



 同僚達は笑っている。 空々しく笑っている。



 エロスもまた笑う。 曖昧に笑う。



 そこには救いが無いほどに『日本人』だけが存在していた。

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