『アヘの国から帰還した後輩』

中田祐三

第1話

………………は?」


「いやだな~、聞いてなかったんですか?祐造さん」


 聞こえていたからこその反応を田所は一笑に付してまた同じことを言う。


「だから、俺はアヘの世界へと行ってきたんですよ」


「……へ~」


 何とか搾り出せた返事は僅かにそれだけだった。

 病室の白いベッドの上、田所は薄緑色の入院服を来てニコリと微笑んでいる。


「……そんな名前の国があるのか~」


「ははは、国というか世界がアヘなんですよ」


 屈託なく笑う田所。 静かに視線を彼の向こう側の窓へと移す俺。

 ああ、とうとうイってしまったのか……。

 沈む気持ちを隠しながらもう一度視線を戻す。

 

 俺……、いや俺と田所がしていた仕事は中々にハードで、毎年何人かは心か身体のどちらかを壊して入院する。


 目の前にいる田所もご多分に漏れず、ある日店から失踪し、二週間後に岩手県の四方を山に囲まれた都市の路上で見つかったそうだ。 


 田所とは初めて配属された店で知り合い、同じアヘ顔好きだということがわかって意気投合したのだ。 

 その後、俺が別の支店に配属された後もたまにメールで連絡を取り合っていた。


「そういえば、祐造さんは今日は店は大丈夫なんですか?わざわざ休んで見舞いに来てくれたのは嬉しいですけど、また社長に今すぐ車に跳ねられて死ねって言われちゃいますよ」


 と真剣な顔で心配をしてくれる。


「ああ俺もう辞めたからさ……仕事」


「ああ、そうなんですか……なんか俺も仕事辞めたことになってるんですよね~」 

 お互いに乾いた笑いを浮かべて変な空気になる。

 お前がこんなことになったのに会社が勝手に自主退職したことにしたから、愛想がつきたんだけどな……。


 真相は言わずに曖昧に微笑む。 心とは裏腹に笑顔を見せられるのは前の仕事で鍛えられたからだ。


「えっと……それで……その、アヘの世界ってどこにあるんだ?」


 社蓄時代の悪夢を思い出したくないのでさっき田所が言った途方も無い話にあえて踏みこんでみる。


 もしかしたら失踪していた間に何をしていたかのヒントを得られるかもしれない。


「そうですね……実は自分もどうして岩手県に来たのかは覚えていないんですよ、 ただ最初に記憶があるのは山の中を彷徨っていたんです」


「山の中をか……?」


 ふと死んだ目で山中を彷徨っている姿を思い浮かんだ。 それでもおそらくはきっと常に笑顔なんだろう。

 

 一瞬ゾッとしてしまうが、自分も同じような姿で働いていたことを思うと、それ自体が怖ろしいことだと気付く。


「そしたらね……山の中で大きな家にたどり着いたんですよ、多分農家の人なのかな?時代がかった大きな屋敷に立派な蔵……そうそう、前に実地研修で言った社長の実家の農家よりも数段大きかったですね」


 ああ、社長が言ってた我々の店で出している野菜の生産者達に感謝を示そうとか言う儀式のことな……、何人かはぎっくり腰になって辞めていったけどな。

「どうもその人の敷地で倒れてたらしくて、数日くらいその家で看病してもらってたんですよ」


「マジか~、凄い体験したんだな~」


 素直に驚嘆する。 この時代に行き倒れなんてありえないよな~。 


「そうなんですよ~、でも不思議なんですけどその家にどんな人が居たのか記憶に無いんですよね、退院したら改めてお礼を言いに行きたいんですけどね」


「そうだね、そうした方がいいな……」


「それで話を戻すんですけどね、やっと元気になったんで、そこの家の?人にお礼を言って街までの道を教えてもらって麓まで降りたんですけどね……世界が変わってたわけですよ!」


「そ、そうか……」


 輝くような笑顔の田所に少し引き気味に俺も返す。


「まずですね……街の風景や人とかは普通に変わってなかったんですけど、価値観が違うんですよ」


「価値観?」


「はい!価値観……こっちの世界はやっぱりお金がかなり比重が高いですよね?でもあっちの世界では……」


「アヘが最高の価値……か」


「その通りです!とはいってもお金自体の価値自体も高いんですけどね……ただそれが一番の価値ではないんですよ」


「う~ん、どうにも想像がつかないな」


 どう返していいか分からない。 ただ困ったように鼻の脇を掻くだけだ。


「まず仕事ですね、もちろん対価はお金なんですけど、ご馳走様の代わりにみんなアレを言ってくれるんですよ、祐造さん……わかるでしょ?」

「あ、ああ……」


「そうです……アレですよ!当てっこしてみますか?」


「ふっ、いいぜ……せ~の……」


『んっ、ンッホ~~!』 


 白い病院の個室の中にやや鼻にかかった声が響く。 


「そうです!そうですよ!祐造さん、忘れてないじゃないですか!」


「おいおいはしゃぎすぎだぞ……」


「あははは、すいません、久しぶりにアヘリストの挨拶を交わしたものですから」


「懐かしい響きだな……そういえば俺もアヘリストなんだよな」


 半ばジョークで二人で作り上げた単語が後輩から飛び出して俺にも笑みが浮かんでくる。


 確かに後輩が楽しそうにアヘを語るならそれに全力で答えるのも先輩であり、アヘリストとしての矜持だろう。

 

 サイズの合わない服を着せられたような気分になるのはやめて昔のようにアヘのことを語り合うとしよう。

 

「ははは、向こうじゃ『自己啓発のための自主勉強』はあるのか?」


「いやいやそんなものは無いですよ、仕事が終わったらお疲れアヘをして帰るだけです」


「なんだよ、お疲れアヘって」


 笑いを耐えることが出来ない。


 久しく忘れていた『拵えた笑顔』では無い本当の笑顔で心がほぐされる。

 

「笑わないでくださいよ~本当にみんなやってたんですよ?こうやってね」


 そうやって左手の人差し指と中指だけを立てて表情を崩す。


「しかしそんな世の中じゃ幸せそうじゃないか……俺も一度行ってみたいもんだよ」


「でもですね……どんな社会でもやっぱり問題はあるみたいなんですよ」


 先程とは違う少し神妙な顔になる田所。 だが先程までアヘった顔を見せていたときのギャップと相成って噴き出しそうになってしまう。 


「ほ~、どんな問題があるっていうんだ?俺としてはサービス残業が無いってだけで大分マシな世の中に思えるけどな」


「どこもトップって言うのは足元が見えないみたいなんですよね~、向こうの世界でも首相がアヘの国際競争自由化交渉しにいって見事に不利な条件飲んで帰ってきたみたいですよ」


「……アヘの国際競争自由化ってなんだよ」


「さあ?ニュースの映像で見ただけなのでなんともいえないですね、ただ首相はすっかり向こうさんにやられて『やっぱり……○○には勝てなかったよ』状態になってましたけどね、もうテレビの向こうでアヘガオダブルピースなんて目じゃない勢いでしたよ」


「……! ま、待て……その状態をテレビで放送したのか?」


「ええ、しましたよ……」


 はい、それが何か……? と言わんばかりの反応に閉口する。         

 それに気づいたのか、愉快そうに田所が口を開く。


「ああ、こっちではそうでしたね……向こうではこれなんて普通だからさ」

 

 髪をいじり、おどける様にダブルでピースをする。 

 

「どこの外国かぶれだ……しかし中年のおっさんのアヘ顔ダブルピースなんてだれが喜ぶんだよ」


「まあ確かに山から降りて、電機屋のテレビで見たその映像は衝撃的でしたけどね……ああ、それと祐造さん、ダブルピースじゃなくて『トリプル パーフェクト ピース』ですよ」


「ト、……トリプル……なんだって?」


 聞き返すと、  


「『トリプル パーフェクト ピース』ですよ、つまり手は二つじゃないですか?だから足もピースして負けちゃったよ という意思表示をみせることを言うんです。つまりこんな感じですね」


 そういって田所はベッドのシーツを除ける。 そしてまずアヘ顔を作り、ダブルピースする。


「まずこれが普通のアヘ顔ダブルピース……そして、これが……」


 俺と向き直り、田所は両足を広げてそのまま高く掲げる。 そうすると右手と左手、そしてピンと広がった両足によって、それらは三つのピースとなる。


「つ、つまり……それが……」


「はい! トリプル パーフェクト ピース 通称 『TPP』です。もっともこれを一国の首相がやったことは完全敗北を表しているので、街の人々は軽蔑していますよ……あ、でも本人は強気で、まだ完全に○○に負けたわけじゃないもん!とかツンデレみたいなこと言ってましたけど」


「な……なるほど、しかし向こうも向こうで大変なんだな~、あちらも選挙とかあるのか?」


 いつの間にか『向こう』という言葉を使っていることに気がついた。 田所があまりにも楽しげに話すものだから、最初は妄想に付き合っているつもりだったのに夢中で質問をしている。


「たしか梅雨が終わる頃にあるみたいですよ、街の人は日本のアヘが終わるとか粗悪なアヘが出回るとか言ってましたね」


「粗悪なアヘってなんだよ……萌えないアヘみたいなもんか?」


「どうなんですかね?今となってはわからないですよ……おや、もうこんな時間なんですね」


 ふと時計を見るとすでに夕方と言っても差し障りない時間になっていた。 

 俺がここに来たのが昼過ぎだからずいぶんと話しこんでいたようだな。

    

「それじゃ今日のところはもう帰るよ」


「ところで今日は埼玉に帰るんですか?」


 やや寂しげな田所にガイドブックを取り出してみせる。


「いや、せっかく仕事から解放されたんだから観光がてらここに泊まるよ」


「そうですか……そういえば祐造さんは『マヨヒガ』って聞いたことありますか?」


「……なんか聞いたことあるような……無い様な……それがどうしたんだ?」


 帰り支度を始めながら問いかける。 何かしながらも油断なく話を聞き逃すことはない……前の仕事で会得した特技だ。


「いえね……たしか迷いこんだ家の人がそう言っていたような気がして……行き倒れの方言だったのかな」


 ブツブツと考え事を始める田所、俺も病院の白い壁を見つめながら沈黙する。


「……まあいいや、祐造さん明日もまた来てくれるんですよね?まだ向こうの世界のこと話し足りないんですよ」


 ニカっと出会った初期の初期に見せてくれた心底からの笑みをする。


「とりあえず午前中は少しは観光するけど、また昼過ぎにくらいにも来るよ……俺もアヘ世界については興味がある」


 無言でアヘ顔とダブルピースして別れを告げる。 田所は『TPP』で返してくれる。


「あっ……そういえば」


 病室から出ようとしたところで振り返る。


「お前、どうやってアヘ世界からこっちに帰ってきたんだ?」


 確か田所は市内の路上で倒れていたと聞いていたんだが……。

 俺の問いかけに田所は弱りきったように頭を掻いた。


「いや……それが覚えて無くて……たしか首相の『TPP』を見て気分が悪くなって……だんだん……意識が遠くなって……気がついたら病院だったんです……やっぱり夢を見ていたんですかね?」


 不安げにこちらを見る田所。 そんな彼に俺は一瞬考え、満面のアヘ顔で返す。


「きっと本当だったんだろうさ……俺もアヘの世界に言ってみてな、アヘリスト的に考えてさ」


 それだけ言いのこして病室を出て行く。 扉が閉まる際にチラリと見た田所の表情はなんだかホッとしているようにも思えた。


 病院内を歩きながら俺は考える。 

 田所が見た世界は本当に夢で見た空想なんだろうか? それとも……いや……あるいは……。


 答えなど出ない問いかけを楽しむ。 そしてある種の諦観と共にそれはどうだっていいことなのだと心の底では気づいていた。


 消耗品のように扱われ、心が潰されてしまった後輩は今は元気にアヘ顔が出来ているし、少なくとも見舞いに来て嬉しいと思われる程度には慕われていたことも心を軽くしてくれる。 


 そして多少の不安はあろうとも自分自身も社畜の身分から解放された。 


 病院から出て、外の空気を胸いっぱいに吸う。


「世は全て事もなし……ってか]


 解放された喜びを胸いっぱいに感じながら、明日も後輩がしてくれるであろうアヘリストの理想世界を楽しみにしながら俺は歩き出す。 


 そういえば明日が楽しみだなんて仕事をしていたときには思ったことはなかったなと、自嘲するような笑いを浮かべて俺は遠い野を目指すように街を進んでいく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『アヘの国から帰還した後輩』 中田祐三 @syousetugaki123456

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ