第6話 アカリの場合
カフェ「菓子と麦酒」では、サロンでのケーキとビールの会、と称して、作家たちが集う会が催された。
「k社文藝選賞どうでした?」
「『桜の芽ぐんでいまだ咲かず』。 ダメダメ、かすりもしないよ。」
「僕なんか落選は茶飯事だからちっとも驚きませんけど、田坂さんぐらいの方でも落選かぁ。やっぱり文藝は厳しいなぁ。」
「そう『落選、落選』言わないでくれる? これでも一応傷ついてるんだから。」
「因果な商売よね。小説家って。」
「何故?」
「だって、名の通った雑誌の賞を頂こうと思ったら、多少信念を曲げてでも、その時代のトレンドに合わせないといけないんだもの。」
「読者の求めているものが、真のZeitgeist―ツァイトガイストだと良いんだけどね。」
「時代精神ね。」
「千一夜物語のシェヘラザドのように、一千日、一千話を無からひとつひとつ紡いで書くことが出来たらと思うわ。」中年の女流作家が溜息をつく。
「俺なんかひと月にせいぜい一話のペースがいいところ……」
「ところで、千年以上まえを題材にしようと思ったら君たちならどうする?」
「ありとあらゆる資料を集めて、丹念に調べる。」
「正気か?お前、さては、本の怖さを知らないな。」
「知るもんか。」
「俺なんか、この間、寝てる最中に積んであった本が崩れてきて、翌朝女房に助けられたんだぜ。」
「本の怨念……」
「本の遺恨、情念……」 皆が笑った。
「心理描写を駆使して、読者に謎解きをさせるってのはどうかな。」
「寝不足にさせ、自己崩壊のパターンを狙う、か?」
「例えば、戯曲なんだけど。一千年以上前のことなんて誰も正確には知る訳ないんだから、いちおう、それらしい事は書くが、後は読者の想像力に任せることにして。」
「いやいや、お前、いい加減、本当のことを書けよ。あれはまったくの出鱈目ですって、歴史家から出版社に苦情が来ていたらしいじゃないか。」
「差し止めぎりぎりを行くんだ。」
「あきれた。」
さっきから押し黙ったままのアカリという女に、司会者のヒロトは話すよう差し向ける。
「アカリさん。ファンレターを下さった方のお話をお聞きして良いですか?」
「精神的恋愛、いわゆるプラトニック・ラブなのに、彼女の相手に対する想いがとても強いって話?」
「そのファンレターを下さったお手紙の主には、今日のサロンで公表することの了解をいただいているの?」
「はい。」
―――親愛なるアカリ先生
お返事をありがとうございました。
先生からの優しいひと言ひと言でどうにか救われている私です。
たえず降り注ぐ窓辺からの光、しかしそれは今の私にとっては闇です―――
「光と闇の対比を、自分の因縁因果ととらえる女性の苦しむ心境が見て取れるわね。」
―――相手を思う気持ちはまぎれもない真実である反面、人が守るべき道としての理性が互いに
――見たくないのに、見て
聞きたくないのに、聞いて
知りたくないのに、知って
思い出したくないのに、思い出して
考えたくないのに、考えてしまうのです。これが、思考の滅びなのです。
――食べたくないのに、食べて
飲みたくないのに、飲んで
泣きたくないのに、泣いて
叫びたくないのに、叫んでしまうのです。これが、肉体の滅びなのです。
私はすでに思考と肉体の隷属となってしまいました。
いつ何時でも、あの人のことを……思ってしまう愚かな私です。
「―――とまあ、こんな内容です」
「書簡としてこのまま作品になりそうなんだけど、テーマにしては……」
「ありふれてるかなぁ……」
「まぁ小説の大半は、悲恋がテーマだからね。ロマン主義なんか、大団円で終わった試しがない。」
「もっとも永く続く愛は、報われぬ愛である。」
「俺はなんとなく分かるな。彼女の悩みが。キリスト教でいうところの七つの大罪のひとつに匹敵する罪になると思えば、苦悩もひとしおだぜ。それを拠り所にしている者にとっては。」
「生きるか死ぬか―――それが問題だ。」
「思考と肉体の滅びね。中世から現代に蘇る理想主義的、破滅的純愛。テーマとしては、割といいんじゃない?」
カフェ「菓子と麦酒」のマスターが、たった今、焼けたばかりのメイズ・オブ・オナーを皿に山盛りにして、三つのそれぞれのテーブルの真ん中に置いた。
鼻の赤い著述家は、レモン・カードがご自慢の髭についても、そっちのけで頬張っている。
「新芽が好まれるのは、今の時期ならではなんだけど、何でも旬ってあるよなあ。」編集者は、ダージリンの
「そうそう、旬ね。」
「旬が過ぎれば、見向きもされなくなるものさ。」
「そんな恐ろしい事言わないでよ。」
「何がさ。」
「男の旬、女の旬のことよ。」
「紅茶の旬の話から、男女の旬に飛躍するところが恋愛小説家、岸田えりの凄いところ。」
「自分が筍や鰹のバイヤーだったら、売れ残りゼロに出来る自信はあるわ。」
「人間の男女を、筍や鰹と同列に?」
「だって、しょせん売り買いでしょ、恋愛なんて。男はそそられる女を見定めて、女は誰が一番自分の価値を高く見積もったか、で成立よ。」
「そうかなぁ。たぶん男女って、見た目とか理屈じゃなく、魂レベルで惹かれ合うものと思いますけど。」ヒロトはアカリをちらと見る。
「ソウル・メイトのことね。写真家、岡島ヒロト氏はスピリチュアルにも造詣が深い。」
「岡島くんは特定の彼女はいるの?」
「残念ながら。ここ最近、仕事が忙しいし、後輩の指導も任されているから、女性と付き合う暇なんてないですよ。」
「ふうん。」
アンティークのウォール・クロックが、その重たい短針をVの文字盤に載せた時には、すでにアカリの姿はなかった。ヒロトは彼女が駅のほうに歩いていくのをブラインド越しに見た。日傘は規則正しい動きをしながら、遠く離れて行く。彼の体は自然に動き出していた。港に掛かる橋の真ん中でアカリは立ち止まる。潮風に柔らかく棚引くスカートの裾を気にしている彼女の頬には一筋の涙の跡が見える。沈みゆく太陽はあらゆる全てを紅く染めて、入り江の
「何か見えますか?」
「……ポートタワーに、今、灯りが。」
「きれいだ。あのタワーは世界で一番美しい構造と言われていますね。」
アカリは今、誰かのことを想って泣いていたのだと彼は思った。
「でも、
それを聞いた彼は、心を突き動かされた。そして聞かずにはいれなかった。
「……ひょっとして今のあなたの心には、思いを寄せる男性がいるのではないですか。」
アカリは驚いたような目で一瞬彼を見たが、否定はしなかった。そして表情は雲間に隠れる月のようにすぐに陰った。西の空に輝く
――――あの時こうすれば良かった、ああすれば良かったとただそんなことを繰り返すだけです。私はあの人の過去を知りませんし、どんな環境で育ち、どんな青年期を送り、その人格を形作ったのかも知りません。何に怒り、何に失望し、何に嘆き悲しむのかも分かりません。ただあの人が笑い、私に甘え、優しいことばを囁くとき私は天にも昇るような心持でした。今でもなぜあの人を好きになったのか。私の思考の大半をあの人が占めるようになったのか。寝ている間も夢に見るあの人のことがこんなにも愛しく思えるのか分かりません。キーツの詩にマーラーの曲が叙情に乗せてあきらめずに前に進むことを決心させる時、私は確かにあの人に恋をしているのだと実感するのです。」
ヒロトは以前アカリの著した「嘘と言う真実」という本の一節にあった内容を思い起こしていた。再び二人の視線が合った。
「アカリさんは、ご自身の書いた本の内容がどのように読者に伝わるか考えた事はありますか?」
「何が仰りたいのですか?」
「『嘘と言う真実』の一読者である僕は、あなたの書いた文章を律儀に……読み取ろうとします。……あなたという作者の火種が、感情が、静かに燃えている様子を。」
「『嘘と言う真実』に書いた内容が、私事を表しているとでも?」
「いいえ、そうは言っていません。踏み越えて読むと見えてくるのです。あなたの観念そのものが。そこには深い苦悩が見て取れます。」
「私の本を読んでいただきありがとうございます。でも、こうして面と向って批評されるのは好きじゃないしそれに―――あれこれ細かく憶測されているようで、何だかいい気分ではないわ。あなたの意図がいったい何なのか分かりかねます。」アカリは突っぱねた。
いかなるレトリックを使っても、ある人物の見方によっては作者の本音は隠し切れないものとして文体ににじみ出てくる。これを認識出来るのは、他人がふいに落としたものを見逃さず、その場で拾い上げることの出来る写真家ヒロトの才能というべきか、それともただのアカリへの深い愛慕というべきか。
えび茶色の6両編成の電車は、櫛のような形のホームに滑り込んだ。盛り場に遊びに行こうとする明るく陽気な客と、今日一日の役目から解かれた客がそれぞれ入れ替わり、電車は三宮を後にした。アカリはヒロトの言葉ひとつひとつを思い出していた。彼は彼なりに誠実にアカリの著作を読み、心に感じたことを言ってくれたまでだ。心の奥深いところに置いた十字架が誰かの手によって触れられるのを恐れながらも、恐れの意味を知ることの出来る読者にそれを見出してもらいたかったのではなかったのか。ヒロトに感謝こそすれ、あのような酷い言葉を浴びせることは作家としては失格なのではないか―――
(シシュフォスが二度もゼウスを欺いたように、私は何度でもその泉の場所を知らないと言うだろう。陽の光が差し込んで来て、いよいよ本心があらわになることがあっても。立ち入ってはならぬ。恋という怠惰な泉を持つその場所へ――――)
アカリは小銭を彼の前に置いた。男は礼に代わるウインクをした。
恋愛という泉に立ち入ってしまった時、深い泉の底に体は沈められ、すでに理性という力では這い上がることは出来ないのだ。もがき、溺れ、苦しみ、苛み、やがて抜け殻のように打ち寄せられる運命。だからたやすく人を好きになることはしないつもりだったし、そう自分に言い聞かせて来た。それは数年前アカリの前から忽然と姿を消した男の記憶があったからに違いない。
男は画家で、世界各地を転々としていること、バイオリンが得意で、本当はバイオリニストになりたかったがなれないことなどを寝物語で語ってくれた。
ある時、この男が泉の底に沈む夢を見た。助けに行こうとするのだが、体が動かない。明くる朝起きてみるといなくなっていた。方々を探し回った。男が生まれ育った町までも行った。
しかし、彼のアトリエは閉じられていた。のちに彼の絵を美術館で見た瞬間、もう彼はこの世にはいないだろうと確信した。周囲の線を強調したクロワゾニスムが特徴の人物像だった。深い闇の淵で座り込んで描いたような物憂げな絵。この世には未練はないんだと叫んでいるような、やせた男の姿は自分自身だろう。しかし、横を見ると眩いばかりの女神の姿。女神は、苦悩の表情の男に救いの手を差し伸べていた。今まさに、女神は男をその胸に抱き飛び去ろうとしていたのだ。アカリはその絵に向い、「ヌ・パ・バリ(行かないで)……」 と呟いた。
―――彼はどこから来て、どこに行こうとしたのか。自分を打ち棄て、その魂だけを売る男。
アカリが愛した男の前に立ち塞がったのは、未来への焦燥であり、怖れである。男は眩いばかりの美を愛した。純粋な美を。神が創造したものの中でも、最も価値の高いもの。それは美。アルケー(初め) であり、 テロス(終わり) なのである。
カフェ「菓子と麦酒cakes and ale」へようこそ 夕星 希 @chacha2004
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