第5話 エリの場合
「いいのかな?店のほうは。」
マスターはカウンターに突っ伏したまま動こうとしない若い女に声を掛ける。
「―――今日は店じまい。」
花屋の女が観賞用のヤシに霧を吹きつけながら、
「店じまいって。エリちゃん。これから忙しくなる時間帯じゃない。」と笑う。
お茶屋のご隠居が、あんたねと熱いほうじ茶をすすりながら、
「どんな事情があろうと、そこに商品がある限り、毎日店に出て、客の要望に沿ったものを仕入れて売ることは商いの基本だと思うがね。」
「ご隠居。」
エリは鬱々とした表情でスマホを弄っている。
「―――?」
「口コミサイトのコメント。」
皆がスマホを覗き込む。
―――さびれた遊園地にある売店のチョコの味がした
―――10円の駄菓子のチョコのほうがおいしい
散々な書かれようである。エリは再びカウンターに突っ伏した。
大阪湾に掛けられた鮮やかな橋のアーチの先端からクイーン・エリザベスⅡ世号のキャビンが垣間見える。お茶屋のご隠居は、優雅な真白いデッキを遠目で見ながら、
「エリさん。あんたのその自慢のチョコを、ここにいるわしたちに作ってくれないかね。」
「……」
「わしは人生半分以上過ぎた味覚を持っているが、その代わり、あの豪華客船の客たちが好む菓子に必要な、繊細で深い……そういった味はたぶんよく分かると思うがね。」
「……」
「すぐに作って、持っておいで。」
「エリちゃん……」
「……」
エリはうつむいたまま、
「分かったわ。作るわ。出来上がりは3時。」 そう言い残し、店に戻って行った。
「ご隠居が食通なのは知ってたけど、チョコレートもいけるクチなんだ。」
あの船には、とご隠居はソーサーを7つの海に見立て、指を左から右へゆっくり動かして行く。
「その日その日のデザートを作るために、乗客の嗜好はもとより、寄港地の自然や歴史、民族や言語なども頭に入っておるショコラティエが乗っておる……」
「確か、フランスでのショコラティエの社会的地位は医者と同格と聞きました。」
「その通り。超一流のショコラティエが作るデザートは、乗客の体調や、日々の船での生活も考えて作られる。」
「ほほう。」
「そこまでではないにしても、エリさんが、客の何を思いながら作るのかにより、彼女の味というものは自然と決まって来ると思うがの。」
「なるほど。ご隠居がおっしゃる言葉。僕も参考になります。」
エリがチョコレートに興味を持ったのは、短大の食物栄養科に在籍していたとき、たまたま友人らとインドネシアに旅行をしたのがきっかけだった。インドネシアはカカオ豆の生産が世界第三位である。南アフリカでしかとれないと思っていたカカオ豆である。ぐっと身近に感じられたのは言うまでもない。その後もエリは、日本とインドネシアを行き来した。農家の家に住み込んでカカオ農園を手伝っては、農民の収入源に対する厳しい現実も垣間見る。
どうにかして、良質のカカオ豆を現地で調達して加工し、日本に輸出することはできないか。いわゆるフェアトレード(自由貿易)である。
(天候や土地の条件などに左右されるカカオ豆の品質を、どうすれば均一に保つことが出来るのだろう……)
エリの作るチョコレート菓子は、その品質の良し悪しがあらわになるもので、その年のカカオ豆の出来が良ければ、チョコレートの味にも反映される。エリは限界を感じ始めていた。
午後1時。
歩き疲れてここにたどり着いた若いカップルは、眺めの良い窓際の席に座る。チキン&マッシュルームパイにするか、ミート&オニオンパイにするかでメニューを穴の開くほど見つめている。
年配のカップルは、丸テーブルの端に寄り添うように座り、ローストビーフ&ホースラディッシュのサンドイッチを食べている。
キャロル・キングの「君の友達」のメロディが流れる。
エリは今、昼食もそこそこに、チョコレートと格闘している頃だろう。
時間は刻々と過ぎて行った。ご隠居は小千谷縮の袷に絽の羽織をまとい、10分前にカフェ「菓子と麦酒」に現れた。大きな橋が見えるいつもの席に座り、「マスター」と呼びかける。
「何でしょう?」
「エリさんが入ってきたら、アールグレイを
「アールグレイ……ですか?」
「うむ。」
約束の時間の3時は過ぎた。
アールグレイの茶葉はゆっくり螺旋を描くようにティーポットに沈んでゆく。
エリの好きな、ネコの模様のついた手編みのティー・コゼーをかぶせたポットからは、芳醇な香りが漂っている。
開け放した窓からカフェの出入り口へ、さーっと潮風が流れた。そこにはエリの姿があった。
「遅くなってごめんなさい」頬は上気して、呼吸も乱れているようだ。
「どうしても、最後のほうで手間取ってしまって……」とうつむいた。
エリは小さなクーラー容器をマスターに手渡す。
「……よく頑張ったね。」マスターは、額に汗のにじむエリをねぎらった。
よく冷えた容器から取り出したショコラには、そのひとつひとつに小さな
”E”のイニシャルが施されている。
「クトゥンバル・ガナッシュです。」
「ほう。」
「コリアンダーのチョコか。」
「周囲の温度でチョコが解ける時間を計算して配合しました。」
たちまちカフェ内は甘い薫香に溢れ、客たちはその香りの行方を見つめる。
ご隠居とマスターはエリにすすめられるまま、その塊を口に含んだ。
「ほう。ココナッツミルクと生クリームがコリアンダーのスパイシーさをまろやかにしている。」
「なかなかいい味だ。」
ティー・カップにはアールグレイが注がれた。再度マスターは芳香の塊を口に含んでのち紅茶を飲んだ。
「チョコも紅茶もお互いの個性を消さずにいる。スパイス・チョコとアールグレイは相性が良いのですね。」マスターは感嘆して言った。
「えりさん、どうやらあんたの戦略は、見当違いだったようじゃの。」ご隠居は凝視したままのエリにそう言った。
「売る相手を間違えていた、ということですね。」マスターは穏やかに言う。
「この味なら……」
「あそこに停泊している豪華客船の乗客にも堂々と出せるだろう。なんなら今から皆で売り込みにでも行くかね?」
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