文系脳数学者と理系脳小説家

吐影

第1話「文系脳数学者」

カナダでの滞在の最終日。

日本に帰ること自体には大して抵抗は無いものの、それでも二週間という長い滞在の間に、なんとなくこの大地に愛着がついてしまった私は、現地時間で深夜一時という深夜営業の店以外の店はほとんどその照明を落としているような遅い時間帯に、宿泊しているホテルから三キロも離れたポートジャクソン湾の展望台に徒歩で来ていた。

水面に写って見えたのは、日本でも見ることのできる星空の反射像とほとんど一緒、というか私にはその違いが判別できなかっただけだと思うけど、少なくとも伊勢湾からの景色と全くと言っていいほど似ていたと言って差し支えはない景色だった。

見える星座も、その動きも、ここカナダでしか見られないかと問われればその答えはNOだけれど、それでも不思議とここにずっと居たいという思いが私にはあった。

プラネタリウムもあれはあれで人口の星にも特有の美しさがあるのだが、それとはまた違う迫力を持った、ここカナダの夜空に目を奪われ、肌寒さも感じなくなったのは二、三分もあれば事足りた。

だからなのか、私はこちらに近づいてくる足音に、その足音の主から声を掛けられるまで気づかなかった。いや、声を掛けられてもしばらくはぼーっとして、その存在を完全には脳が理解していなかったかもしれない。

その人物は女性だった。

カナダでは珍しい日本人のような豊かな黒髪を腰まで垂らしてはいたものの、瞳の色はやはり生粋のヨーロピアンを思わせる藍色の色彩を放っていた。

日本ではまずありえないことかもしれないが、西洋の人たちは心の壁がないと言っていいほど薄い。

道端ですれ違った赤の他人に「やあ、今日はいい天気だね!」と陽気に話しかけたり、はたまた「君は日本人かい? ジャパニーズサムライはクールだね!」と、いきなり話を振ってくるのなんてざらだ。つまりはコミュ力が高い。

そんなことはカナダに二週間もいた私は最初の三日くらいでもう気づいたわけで、その後日からは開き直って私から話を振りに行ったりしたもんだ。まあ、たまに喧嘩になりそうな時もあったけど。

そんな私は、こうして今、いきなり話しかけられたその女性には動じなかった。

こんな時間に何してるんだろうという思いは少なからずあったけれど、それでも肩をびくつかせるほどの畏怖は感じなかった。

その女性は私にこう切り出した。

「やあ、こんばんわ。君も散歩かい?」

私はすぐさま、その女性に、

「うん、まあね。今夜は寝付けなくって」

と、返すと、再び夜空と、その夜空を映すポートジャクソン湾の水面に目を戻した。

「奇遇だね、私もだよ。なんか今日は不思議と眠れなくってね。なんだろう、感覚としては遠足に行く前の子供みたいな感じかな」

女性は「ははっ」と笑った。ユーモアのあふれるカナディアンらしい饒舌な語り口調は、少々なりとも感じていた私の緊張感をやんわりとほぐしてくれた。

「遠足にでも行くの?」

私は聞いた。

「いや、遠足っていうか、旅に出るんだ、明日から」

「それはまた。いい旅になるといいね」

「ああ・・・・・」

私は、そう返事をしたときの彼女の表情を見てはいなかったけれど、それでも声のする方向が変わったことくらいは私の耳で感じ取れた。

たぶん、その時の彼女の表情は翳っていたと思う。声のする方向が下に下がったことが、私にそう察しをつかせた。

「まだ時間はあるかい?」

彼女は言った。

「うん、私は大丈夫だよ」

「そう、ならちょっとしたゲームをしないかい?」

彼女は私の返事にうなずくと、人差し指を立ててそう提案した。

「ゲーム?」

と、小首を傾げる私に、口角を少し持ち上げるだけの微笑を浮かべて見せた彼女は、少し歩いて私のすぐ横まで来ると、

「じゃあ質問するよ? 君の『悪』だと思うことに対してさ、なぜ?って問い続けられたら、君は最後まで答えを出し続けられる? もちろん内容の重複は無しだよ?」

と、私の顔に自身の顔を近づけてそう言った。

私は、

「・・・というと?」

と言う風に聞き返し、私のその言葉と同時に乗り出していた身を彼女が引いたことにほっと胸をなでおろすが、彼女の次の動作が再び私のびっくり箱に悪戯を仕掛けた。

彼女は左のポケットから取り出した小さなたばこの箱の中から、一本を口でくわえて引きずり出すと、同じように右のポケットから取り出したジッポーでパシュッと先端に火をつけた。

彼女の体格からしてまだ未成年であることが私の中では前提条件となっていたため、私はその動作を見て、ここカナダの無法地帯っぷりを改めて再認識した。

彼女はたばこを中指と人差し指の間に挟んで口から放すと、「ふぅ・・・」と口をとがらせて煙を吐いた。

自分の吹いた煙を数秒見つめていた彼女は、たばこのフィルターを、展望台の手すりにトントンッと軽く弾ませ灰を落とすと、

「えっとさ、例えば人殺しでもいいけど、君は人殺しは『悪』だと思う?」

と、再度私に問いた。

私は肌寒さに、自身を抱きしめて肘を摩りながら、

「もちろん、人殺しは『悪』に決まってる。だって人を殺してるんだよ?」

と答え、風に流れてきた彼女の口から吐かれたたばこの副流煙を吸わないように、肘に添えていた手で口元を覆った。

彼女は私のその答えを予想していたようだった。

たばこを人差し指と中指の間に挟み、手すりに寄りかかりながら目をつむり、すまし顔を決め込んでいるその様子は、少なくとも私にそう感じさせる力のようなものがあった。

「うん、じゃあさ、なんで人を殺しているからそれが『悪』なの?」

彼女は再度質問をした。

その言葉が、彼女が私の言葉を予想していた、という私の予想をさらに肯定していた。

だが、私にはその問いにどんな答えを用意すればいいのかわからなかった。

それゆえに、その時私が口にできたのは、

「は?」

という一文字と疑問符だけだった。

「それが内容の重複。同じ答えを繰り返すのは幼児が駄々をこねるのと一緒だからね。で? なんで人を殺しているからそれが『悪』なの?」

彼女の口調は相変わらず軽快なリズムを踏んでいたものの、私にはその口調は問い詰められているように聞こえてならなかった。

私は、彼女の目線から逃れるように、目をそらし、再びポートジャクソン湾の水面に反射する星空に目線を合わせると、

「・・・・法律に違反しているから?」

と、稚拙な答えを、むりやり口からひねり出した。

『無理がある』ということには気づいていたが、それでもそう答える以外に私にはなす術がなかった。

「なんで法律に違反しているからそれが『悪』なの?」

その答えを私は予想していた。

『なぜ? って問い続けられたら』の意味が、その時私にはようやく理解ができたものの、だからこそ、この先の質問の答えに私はいっそう困惑していた。

「・・・法律は守らなくちゃいけないもの・・・だから?」

またしてもひねり出した稚拙な答えに、私はうんざりしていた。

次の彼女の質問からは、どうこたえようか。と、私は無理難題を自分自身に押し付けていた。

「うん、じゃあなんで守らなくいちゃいけないものを守らないからって、それが『悪』なの?」

「・・・・・・」

私はついに答えられなかった。

無言を貫くことは西洋では『無視』ととられることが多いので、私は何かしら答えようと頭をフル回転させるが、やはり答えは自分の中にはなかった。

「なんで?」

彼女は迫った。

私には、

「・・・・そんなものに理由なんていらない・・・・」

と答える以外なかった。

「なんで? なんで理由なんていらないの?」

私は再度頭をフル回転させた。

その質問にできる限りの言葉を尽くして答えようと構築された私の脳内の台本は、数秒と立たないうちに私の口にそれを語らせようと、指令を出した。

「そもそも法律の存在意義というものがそういうものだから、かな。法律は数式でいう仮定と一緒。絶対的で確立されたものを作っておくことで、人は理由を追い求める手間、すなはち考える手間から解放される。・・・・宗教と一緒」

「ほう、なかなか即興にしてはいい答えだね。私好みだよ。法律は数式の仮定と一緒ね・・・うん、なかなか面白い! さすが職業が数学者なだけあるね!」

彼女はまたしても「はっは」と笑った。

私はここでこの質問攻めから解放されたいという思いを、

「・・・・これで終わり?」

と、言葉にして彼女に伝えたが、残念ながら彼女は意図をくみ取ってはくれなかったようで、

「あ、ごめんごめん、話が逸れるところだった。続けるよ。じゃあなんでそれが『悪』なの?」

と言う風に、再び質問を始めた。

「・・・・ごめん、もう少し言葉を使ってくれない?」

私は質問の意味は分かっていたが、それでも考える時間を稼ぐためにあえて質問をした。

「えっと、君が言ってるのはつまり、存在意義が自分の求めるものと同義であれば、それに従うのは良いことであり、ギブアンドテイク。それがこの場合は『法律』で、法律が自分たちのしたくないこと、すなはち『考える』という手間をやってくれて、考えて出した結果、『人殺しが悪』だったらそれは確かなもの。って事だよね?」

「・・・・まあ、そうかな、大体あってる」

「うん、じゃあなんでその考えてくれて出してくれた答えが『人殺しが悪』だったら、それが『悪』なの?」

だめだ。考える時間が足りない。

そう思いつつ、恐らくどれだけ時間があったとしても、私にはその問いに答えられないという察しがついていた。

故に私は焦ったのだろう。

久しく覚えがなかった『感情』の熱い感覚が喉の奥からこみあげてきた。

「・・・・・それは、だって!」

「だって?」

「・・・・・・」

その沈黙は答えを見つけられなかったからではなく、答えを見つけることを諦めたが故の沈黙だった。

諦めるということが大嫌いな私であったが、諦めさせられた自分を客観的に見て、わずかながらも心で泣いていた。

「そんなものだよ、追及って。最終的には全部無価値なものだってことに気付く。もちろん自分自身さえも。法律も」

「全部・・・無価値?」

「うん、全部無価値で無意味で不明瞭。きっとだれもがそれをわかってるんだと思う。もちろん、無意識でね」

「・・・・・」

「でも、それは怖いでしょ?自分に意味がないなんて、無価値なんて。で、人間はそこで考えてだした結論を拒絶しちゃう。無価値なのはいやだ。無意味なのはいやだ。自分はそんな人間であるはずがない、自分はもっとすごい存在のはずだってね。」

「・・・それは・・・・」

「『滑稽』でしょ?、でも人間ってそんなものだよ。物質に期待をかけすぎている哀れで無様な生き物。物質は物質に過ぎないのにね」

「・・・・・」

「確かなものなんてどこにもない。ていうか、確かなものが多い世界ほど、その世界は優しく甘いものになる。君の言った通り、『考えなくていい』からね。でも人はよく「世の中は厳しい」とか「世界は残酷だ」とか宣うよね、君も含めて」

「・・・・・」

「そう、世界は厳しく残酷。だからこそ、確かなものなんて無いってことがわかる。断言も証明も確信もない。あるのは仮定だけ」

ならば。私達は・・・。

その先は自然と口に出た。

「・・・・・じゃあ・・・・私達はなにを信じて生きていけばいいの?」

「さあね、確かな答えはないよ。でもできることと言えば、自分に問い続けることくらいじゃないかな?」

「・・・・でも、辛くない? それって?」

「うん、辛いね。でも、考えることを放棄してその甘さに酔いしれるなんて、そんな酒臭い真似をするよりかはマシだと思ってる。まあさっきの話に戻るけど、『なんでそれがマシなの?』って問い続けられたら、私も最終的には黙っちゃうんだろうけど(笑)」

「・・・・・」

「でもいいんだ、それで、きっと」

「・・・・じゃ聞こうかな、なんで?」

「確かなものがない中にいるってさ、何だろう・・・水の中に漂ってるっていうか,空を浮いてるような、そんな気分になるんだ」

「・・・・・自由?」

「たぶんそんな感じ。昔の私が、鳥を見ながら『飛びたい』って願ってたその願いが叶ったような、そんな気もするんだ」

「・・・・・・・・」

「さてと、今日は終わり。また話そう。暇な時にでもさ」

「・・・・うん」

「それじゃあね」

「・・・・・・」


そう言って彼女は消えた。

彼女の背中を目で追ってるうちに、私は夜空の星がいっそう鮮明に美しくなっていることに気が付いた。

夜空の星は綺麗だった。

気付かなかったが、さっきまで薄い雲が空には張っていたようで、私たちが話している間に、夜風はその薄雲を拭い去ってくれていたようだった。

私は彼女の背中を追うように、ホテルに戻る帰路についた。

交差点で信号待ちをしている間に、

「また会おうって言うなら連絡先くらい教えても・・・」

とつぶやきつつも、私は興奮とはまた違う感覚で、ワクワクしている自分に気付いていた。


―――― あれ、私あの人に私の職業が数学者だって教えたっけ?


ふと頭をよぎったそんな疑問は、数秒と立たないうちに、冬の残り香を纏った涼風に拭われた夜空の薄雲のように、私の脳裏から高揚感によって拭われていった。



:  *   *   *   :



ホテルに戻ってきたときにはすでにあの不可思議な会話から二時間が経過していた。

一階のフロントに隣接している深夜営業の店のネオンが光り始め、奥からはオトナな雰囲気と、女の人の髪の毛からするような嗅ぐだけで何とも言えない心地よさを誘う香りが、むんむんと漂い、私の鼻孔を刺激していた。

エロスは技術であるという前提がある私は、多少興味をひかれつつも、あの中に入ってしまったらたぶん朝まで出てこないなということはわかっていたので、ムラムラする気持ちをなんとか抑え、フロントのお兄さんから鍵を受け取ると、逃げるようにエレベーターで三階を目指す。

三階の五号室ってことで305号室の前で立ち止まった私は、今時珍しい鍵穴に差しこむタイプの鍵を回して中に入り、後ろ手で内鍵を閉める時のパタンッという音で自身のムラムラをシャットアウトすると、奥へと足を進めていった。

そこには裸の少女がベッドの上ですーすーと寝息を立てている光景があった。

私は少女の頬に軽く指先を触れさせ、

「風邪ひくよ?」

と、ベッドの脇に腰を下ろしながら囁きかける。

返事は無かった。

「ふぅ・・・」

軽いため息を吐いて、横たわっているその少女―伊伏 ヒトミに優しく毛布を掛けてやる。

すると、

「んん・・・・清・・・・ちゃん?」

起こしてしまったようだ。

「悪い、起こした?」

「ううん、大丈夫だよ。・・・・・どこ行ってきたの?」

「ちょっと夜風にあたりに、ジャクソン湾まで」

「夜風にあたりにって、まだ冬じゃない、寒くなかった?」

「まあまあ寒かったかな、でもそんなに気になりはしなかったよ」

「そう? ならいいんだけど・・・身体だけは壊さないでね?」

「分かってるって」

私がしたのは空返事だった。

ニコリと笑うヒトミの額に、私は軽く唇が触れる程度のキスをする。

いつものことなので、お互い恥ずかしがったり動揺したりはしなかった。

「ていうか裸で寝てた人に言われたくないし」

「ふふっ♪ 悩殺されちゃった?」

「かもね」

「やった」

「冗談冗談」

「むう・・・・」

「シャワー浴びてくるよ」

「私も浴びるー」

「もう寝なさい」

「うう・・・目がさえちゃったよぉ・・・」

「私もこの後一緒に寝るから、ね?」

「・・・・分かった」

「よし」

他愛のないやり取りのあと、シャワーを浴びた私は裸のヒトミの横に身体を横たわらせた。

ジャクソン湾での彼女とのやり取りを思い出していたからだろうか、目を閉じた後もなかなか夢の世界に落ち入ることはできなかった私は、フィボナッチ数列を頭のなかで唱えていた。

だが、たぶん寝返りだと思うが、なかなか眠れない私をヒトミが抱きしめてくれたおかげで、私はその日も幸せな安眠をすることができたのだった。

おっぱいは人を安心させる効力があると思う。今度『美しいおっぱい』を数式で表してみようかな。

愛してるよ、ヒトミ。 



:  *   *   *   :



 日本に戻ってきたのは久しぶりだった。

二週間という長くもなく短くもないカナダでの滞在だったが、その間祖国日本を想わなかった時がなかったといえば嘘になる。

バンクーバーでもそうであったように、羽田空港の出口から出ると、そこには雪景色があった。

道路上の雪は安全面を考慮して溶かされるか洗浄されてはいるものの、生垣や植木の上に降り積もった雪は観光者向けに『雪化粧』として売りものとすべくわざと残されているように見えた。

「ん〜っ ひっさしぶりの日本だー!」

ヒトミが羽田空港の出口から出た途端、大きく背伸びをしながらそう言った。

肩にかけてあるお土産の紙袋ががさりと音を鳴らし、その多量さを物語る。

「うん、二週間ぶりだからね、久しぶりといえば久しぶりか」

「このまま帰る? それともどこか寄ってく?」

「う〜ん・・・あ、ちょっと大学寄ってもいい?冬休み明けの課題がたぶんデスクの上に置きっぱなしだから」

「オッケー!」

元気よく返事をすると、ヒトミは手を挙げてタクシーを停車させる。

乗り込むと、運転手さんが「何処までですか?」と聞いてくれたので、私は、

創府州そうふしゅう大学の・・・えっと、A棟ってわかりますか?」

と、聞き返しながらも答えた。

「あ、分かりますよ、A棟ですね、それじゃあ出発するのでシートベルトをお締めください」

運転手さんはそう言ってタクシーを発車させる。

ヒトミと手を繋ぎながら、窓越しに後方へと流れていく外の景色をぼーっと見ていた私だが、ふと、あることに気がついた。

(あれ、こんな道だったっけ・・・?)

羽田空港に向かう時に通った道を思い出しても、今私が窓外に見ている景色は思い当たらなかった。

私は運転手さんのシートの横にあるナビと、運転距離に応じて加算されていく料金の電子メーターに目を移す。

その時私の喉の奥でストンッと何かが落ちたような感覚が走った。

それは数学の問題で行き詰まった時に、答えに行き着くまでの解き方をポンッと閃いた時と少し似ていた。

「あ・・・」

「ん?どうしたの清ちゃん?」

「いや・・・・なんでもない」

私は、今私が何を見ているのか、私が何を考えているのか悟らるのを避けるように、目を逸らしながらそう言った。



カナダに出発する日も、私たちは大学のキャンパスからタクシーを使って羽田空港に向かった。

その時の記憶が確かなら、私たちは親切な運転手さんの計らいによって最短ルート、最安値で羽田空港に到着できたはずだ。

だが、たった今、私たちが運転手さんに支払いを求められている値段は、その時の値段よりも格段に高い。

それでも「それは高いっすよー」とは言えない私は、運転手さんに「二千三百円でーす」と差し出された青いトレーの上に、言われた通りの金額を「はーい」 と呑気にのせてしまう。

私はNOと言えない日本人なようだ。

降車後、私たちは繋いでいた手を離して校舎内へと足を踏み入れる。

冬もそろそろ空けてくるのに、相変わらず暑いと言っていいほど館内の暖房は効きすぎていた。

階段を登って二階へと向かう。

二人分の足音がリノリウムの床にかつかつと音を鳴らし、やがて『研究室w』という看板が扉の上にある部屋の前にたどり着いた。ちなみにこのwに大した意味はない。笑ったりとかはしなくていい。小文字になってるのはこの研究室の管理人の趣味というか悪戯心というか、まあそんなところなので気にしなくていい。

私は木目調のビターな扉をノックする。

コンコンッ

「失礼します」

「失礼しまーす」

私に続いてヒトミが入室すると、扉はわざとらしくキーッと軋む音を立ててバタンッと閉まる。

そしてガチャリッと自動で鍵が閉まった。

「相変わらず凄いねー、ここの設備は」

ヒトミが閉まった扉を見ながら言った。

「まあ無駄に金かけてるだけあるしね、食堂のメニューが不味いのは否めないけど」

「今度からお弁当にする?」

「いや、いいよ。ヒトミにばかり負担かけちゃ悪いし」

「えー、別に気にしなくていいのにー」

「気にするって、ていうか気にさせて」

「むぅ・・・」

ヒトミはほっぺたを膨らませていじけたようにプイとそっぽを向いてしまう。

そんな仕草も可愛らしいヒトミに、私のハートはズキュンッと撃ち抜かれそうになってしまった。

いけないいけない、平常心平常心。

「そういえばさ」

「ん?なに?」

「さっきタクシー乗ってるとき、なにか様子が変だったけどどうしたの?」

「ああ、それね、やっぱり気づいた?」

「当たり前だよー、清ちゃんの呼吸の乱れ一つ気にしないで恋人が名乗れますか!」

「名乗らないで下さいね」

「それは分かってるー、もー、話を逸らさないでー」

ヒトミは駄々をこねる子供のように追求してくる。

私はそんなヒトミを見て小さく「はぁ・・・」とため息をついた。

「いや、別に大したことじゃないよ。ただ私はカナダに二週間も居たのに、結局NOと言えない日本人のままなんだなって思っただけ」

「・・・・どういうこと?」

「・・・・いや、まあなんていうか・・・」

「ん?」

「あれだよ、ぼったくられたってやつ」

「嘘!?」

「ほんと。まあ、あからさまなやつじゃないけどね」

「全然気づかなかった・・・」

「短距離で行けるのに、あの運転手わざと長距離運転してた。まあ正規というかよくあるタクシーのぼったくりの手口だよ」

「ほんとはもっと安くすんだの?」

「まあ、四割くらいは」

「Oh my god!!」

「here is Japan!!」

「・・・英語癖が抜けないのよね」

「カナダでは日本語癖があったしね。ルー語とか久しぶりに聞いたよ。世代違うでしょうに」

「・・・ルーゴ・・・ってなに?」

「ああもう・・・忘れてくれ」

ちなみにルー語とは、という風に説明する気などさらさらない私は、そこで口を噤むと、いつも私が使っている茶色い木目調のデスクの前に来る。

黒いクリップボードに挟んである途中書きのレポート用紙は、散らかったデスクに積まれた書類の山の中に埋もれていた。

書類をかき分けてクリップボードを乱暴に取り出すと、肩にかけていたポーターバッグの中にそれを押し込む。

中に入っているものがガサガサと音をたて、奥の方でバサッとなにかが潰れる音がしたが、気にしないでおいた。

「わー!、なにこれ、すっごーい!」

「なんだねサーバルちゃん」

私はヒトミの声を聞いて振り向く。

するとそこにはめちゃくちゃ汚い字で書かれた数式が大部分を占める黒板を、興味深そうにまじまじと見つめているヒトミの姿があった。

私は「ああ、それね」と言って、ヒトミの元に歩み寄る。

するとヒトミは「これもお仕事?」と言って小首を傾げた。

「うん。まあ基礎理論っていうか、概念の再構築っていうか、そんなところ」

「なんの理論?」

「・・・・ちょっと危ない系の商品・・・かな」

「私にも言えない?」

「・・・まあ・・・うん」

「如何わしいナニかだったりして?」

「ちっ、違う!、そうじゃなくてだね!」

「ふふっ・・・冗談よ、昨日の夜のお返し♪」

「もう・・・」

私はヒトミの額にデコピンをして、ヒトミの「いたっ」という可愛いらしい声を耳に納めると、「もう行こ」と提案して、研究室を出た。



タクシーに懲りた私たちは、市内を巡回する市バスを利用して自宅に向かっていた。

同乗者の皆様は車内の天井にあるホロパネルの基礎設計をした張本人である私が一緒に乗っているなんてことには全く気づかずに、そのまま二、三十分がのらりくらりと過ぎていく。

おかしいな・・・一応テレビには出たんだけどな・・・。そんなに陰薄いかな?私。

騒がれなくてよかったという安堵と、まったく気にかけてくれない疎外感が積み重なって、私は複雑な感傷に浸されたのだった。


自宅に着いた時にはすでに空には茜が差していた。暮合いの夕景が私たちの住む無駄に大きな屋敷を照らし、漆喰の白が橙色の光を反射して疲れた私たちの動向を刺激する。

立派な門構えの白い支柱が私たちを出迎え、柱の両端についているセンサーが私たちの固有生体反応を認証。ピピッと電子音が鳴って、柵状の門が私たちを受け入れるべく、ガチャンッと無骨な音を立てて開かれた。

しっかりと落ち葉の片付けられた枯れ木に覆われたレンガ道を進んでいき、やがて大きな木製の扉の前に行き着く。

そこで再び扉の取っ手についている生体認証センサーが私たちを認識すると、今度は電子音を鳴らすことなく扉のオートロックがガチャリッと解除された。

「ただいま」

「ただいまー!」

私とヒトミが扉を押し開けながらそう言うと、すぐにそれを聞きつけた当家の使用人兼番犬の一人が、タッタッタッタッと軽快な足音を立てて、無駄に広い玄関の真ん中にある大きな階段から駆け降りてくる。

相変わらず無造作に後頭部で結われたボサボサの赤毛を、まさに犬の尻尾のごとくなびかせながら、その小さな少女は琥珀色の大きな瞳を光らせて、

「おっかえりなさーい!!」

と、私たち二人に抱きついてきた。

「うわっ!、ちょいちょい重いってジェシュ!」

「あらジェシェルディちゃん、私たちのこと待っててくれたの?、ありがとうねー」

私達は抱きつかれた衝撃で尻餅をついたが、大量の荷物がクッションになったおかげで痛くはなかった。

私がジェシュと呼ぶその少女、ジェシェルディ ティファレットは、ヒトミのおっぱいに顔を埋め、ヒトミに頭を撫でられると、すぐさまバックステップで跳ね起き、ピシッと気をつけをする。

次いで両手を前に添えると、

「お帰りなさいませ、清河さま、ヒトミさま」

と、改めて形式張った挨拶をした。

「うん、ただいま」

「ただいまー」

私とヒトミは主人の立場である手前、その形式張った挨拶を当然のように受け入れる。

彼女ら使用人の立場から考えると、主人に同等の立場で接せられることは返って無粋だということが既に身にしみているからこその応答だった。

「お帰りなさいませ、清河さま、ヒトミさま」

私たちの帰宅を歓迎してくれたのはジェシュだけではなかった。

声のする方向に目を向けると、そこには階段を上った先の踊り場でほぼ直角に腰を曲げて礼をしている使用人が、その外国人らしい見事なブロンドヘアを肩から垂らしている。

私とヒトミは腰を持ち上げ、階段を静かに降りてくるその使用人にも「ただいま、圭」「ただいま、圭さん」と、言った。

続いてヒトミはワンテンポ遅らせて、「留守中の管理任せちゃってごめんなさい、大変だったでしょう?」

と申し訳なさそうに語りかける。

だが階段を完全に降り切ったその使用人ー能登 圭は、やんわりと微笑みながら

「いえいえ、そんな気になさらないでください。それが私の仕事ですから」

と、謙遜けんそんした。

「で? 留守中になにか異変はなかった?」

「二人ほど来客が」

「どのようにおもてなしを?」

「招かれざる客だったので、門のところでお帰り願いました」

「おとなしく帰った?」

「いえ、無理に侵入しようとしたので、カロンが撃退を」

「カロンが?」

「はい、あの子曰く、私だけに清河さまとヒトミさまの好感度を独り占めさせてたまるか。とのことです」

「ははっ、あいつらしいな」

私たちが留守中の談笑をしているうちにも、やはり体の疲れを忘れることはできなかった。凝った肩を持ち上げて「ふぅ・・・」とため息をつくと、なんとも言えない虚脱感に目が眩み、今日のこの後の予定が自然と頭に浮かんできた。シャワー浴びて寝る。終わり。

「申し訳ありません、お荷物お持ちします。どうぞ今日は旅の疲れを癒してください。ジェシェルディ、あなたは浴場の掃除をなさい。お湯は私が張っておくから給湯機には触れないようにするのよ?」

「分かった!」

気を利かせてくれる我が家の使用人たちは口々にそう言う。

「すまないな、圭、ジェシュ。ありがとう」

私はそんな使用人たちに、使用人としてではなく、一人一人の人間として礼をした。

「いえいえ、これが私の仕事ですよ」

だがそんな私の思いも伝わらず、相変わらず優秀な我が家の使用人は、謙遜を貫くのだった。


私の自室は案外狭い。

家に帰ってくるたびに、あれ?私の部屋こんなに狭かったっけ?と、ほぼ百パーセントの確率で床に落ちているチョークか、黒板消しに足をつまづかせる。

多分うちの優秀な使用人一同に頼めば掃除くらいはしてくれるのだろうが、私はこの散らかった自室をこうしてあえて維持している。

片付けが苦手というわけではないが、普段覚えることと考えることが仕事の私からすると、片付いている部屋にありがちな、ものが整理されている状態というのは自室としてすごく使用しづらい状態なのだ。

例えば、もし、私の携帯か何かが整理されてどこかの戸棚か何処かに安置されてしまったならば、私はその携帯のある場所を、使用するたびにいちいち思い出さなければならないし、私にはそんなことに思考力を費やしている余力はない。

無駄に思考力を浪費しないためにも、今のこの散らかっている状態は我が自室に必須なのだ。

だがまあ実のところ、これまで幾度となく私の部屋には使用人の手が入っている。

綺麗好きな使用人の一人が私の留守中に勝手に私の自室を掃除してしまうののだ。

でもすぐに散らかるので問題はない。

私は何を言っているのでしょう?

「ふぁ〜」

変な声を出しながら、私は自室の隅にある無駄に大きなベッドにばふっとヘッドスライディングを決め込む。

すりすりと顔を布団に擦り付けて、脱力感に身を委ねていると、もうそこから一歩も動く気は無くなってしまった。

顔をスライドさせて横に向けると、半分黒板で隠れた窓の外に沈み行く夕日が見て取れた。夕日は徐々にその御身を地平線の向こうに隠して行き、やがて星空と暮合いの見事なコントラストを生み出すと、数分と立たないうちに星空の勢力が夜空を満たし、夜という名の暗黒世界を引き連れて完全に地平線の向こうに沈んでしまう。

私の瞼はその様に釣られて瞳を覆い、同じようにゆっくりと沈み行く意識は、じき完全に眠りの地平線に消えてしまった。

―――――――

「お前はクズだ!!」

激しい怒号に意識が揺さぶられ、私は本当に意識が途切れそうになった。

倒れた私を見下しながら指差ししてそう言葉を飛ばす目の前の男性に、私は死の恐怖すら感じていた。

「お前の考えは社会では役に立たんわ!!社会は役に立つ人間しか求めてないんだよ!!お前みたいなクズな人間は世の中には必要ない!!役に立たないやつは生きてる価値ないんだよ!!死ね!!」

男は私にそう言って、息を切らしながら私の目を覗きこむ。

この男の口から死ねという言葉が飛び出したのは一体何回目なのか、と、私は無意識に頭で数えようとするが、天文学的数字なのでやがて数えるのは諦めた。

私の体は縛られたようにピクリとも動かなかった。口もガムテープが貼られているわけでもないのに、がっちりと、口内で忙しなく分泌される唾液を口外に漏らさないように堰き止めている。

男は相変わらず眉ひとつピクリとも動かさない無表情な私としばらく目を合わせていた。

そして息切れが収まるのを待つと、

「お前、次あんな態度とったら・・・」

と言い、食卓に並べられた食器の中からナイフを取り出して私の顎先にその先端を突きつける。

そして、

「殺すからな?」

と私を脅した。

それでも私は一声も発することはなく、ミリ単位の筋肉の動きも見受けられないほどの完璧なるポーカーフェイスを決め込み続けている。恐らくそんな私の様がいっそうこの男の怒りに触れたのだろう。男は納得いかないというような表情でチッと舌打ちをした。

「・・・お前」

男はそう漏らし、私の細首を両手で持って私を立たせると、怒気の迸るその瞳で私を睨みつける。

そして、

「まだ分からねぇのか・・・」

と低い声で言うと、次の瞬間私の動向が揺さぶられ、しばらく昇天が安定しない程の衝撃が右頬から脳へと伝わった。

「お前みたいな生意気な奴はな!!世の中に出ても人に迷惑かけるだけなんだよ!!」

男はまたしてもそんな怒号を飛ばす。

だが私にはそれに反応できるだけの気力は無かった。

殴られた衝撃で床に倒れた私は昇天が安定するまで数秒待った後、恐る恐る立ち上がる。恐る恐るとはいっても、それが悟られることのないよう、当然の如く私は顔に何かしらの表情が浮かぶのを必死に抑えていた。

「本当に殺すぞ。てめぇ・・・」

私はその瞳に込められているものが怒気から殺意へと変わる瞬間、背中に走る悪寒によって僅かに瞼をピクリと動かした。

やばい。

これは殺られる。

そんな生命危機を私は感じていた。

―――――――

「清河さま・・・清河さま!!」

「はっ!!」

朦朧とする意識を手繰り寄せた私の目の前に、心配そうな表情で私を見つめている圭の瞳があった。

圭は私の肩と腕に手を添えて私を起こしてくれると、

「大丈夫ですか?、随分と魘されていたようですが・・・」

と、私を気遣ってくれる。

だがまだ意識が覚醒しきっていない私は、相変わらずの汚い字で書き殴られた数式が綴られた黒板に半分隠れた窓の外に目を向けると、

「もう・・・夜か」

と、寝ぼけ半分で戯事じみたことを口走った。

そんな私を見て圭は、

「・・・清河さま?」

と、小首を傾げる。

「あ、だ、大丈夫。ちょっと悪い夢を見ただけ・・・」

我に帰ってははっと笑いながらそう言いつつ、私は、先程まで見ていた夢がなんだったのかと頭の中で記憶の足取りを辿っていくが、やはりと言うべきか私の中の何かがそうはさせるかと言わんばかりにそれを阻む。

「本当に大丈夫ですか?」

圭は震える指先を見つめている私にそう言った。

私はそっと指先から目線を離して、

「・・・大丈夫。それで、なんだった?」

と、話題を逸らす。

「・・・侵入者が二人、門の前に」

「分かった」

それだけ聞いて状況を瞬時に理解した私は、重い腰を持ち上げて立ち上がると、早足とはいえないまでも急ぎ足で屋敷の一番奥の部屋、使用人やヒトミから『制御室』と呼ばれる鉄扉で頑丈に塞がれた部屋へと向かった。

制御室が制御室と呼ばれる所以は数多くあると思うが、そのひとつとして監視カメラの映像が確認できることがあげられる。

作りそのものは私やヒトミの部屋と大差ないながらも、常に物が散らかっている私の部屋よりかは広く感じられるその部屋には、すでに壁に設置された時代遅れの匂いが漂う液晶パネル群を見上げ、手元ではホロパネルによって表示されたキーパッドで何やら操作をしている赤毛の小女、ジェシュと、黒光りする大きなゴーグルを頭に装着した銀髪の少女、カロンの姿があった。

カロンに関してもうちの優秀な使用人の一人という紹介が適切で、その優秀さは左利きながらも両手でホロパネルのキー操作をしている今の様子を見ても分かる。

頭に装着されたゴーグルにはあまり触れない方がいい。本人もあれはあれで気にしてはいるわけだから。

部屋の奥には中央制御盤が設置された少し特殊なデスクがあり、私は当然のごとくそのデスクに備えられた黒革調の椅子に腰を掛ける。

座ると同時に私は、

「現状は?」

と短くその場にいる全員に聞いた。

誰かが答えてくれることは分かっていた。

「六分前、大型のワゴン車が二台門前に停車。現在中から出てきた二人が門のセキュリティを破ろうとハッキングを試みています」

答えてくれたのはカロンだった。

その高く上ずったような声の持ち主は、両手のキー操作の忙しない指使いを停止させることなく、言葉を続ける。

「ハッキングについては私が対象していますが、ナイトカメラで見た限りでは彼ら、C4を所持しているようです。強行突破をしてくる可能性もあります」

「圭、私たちが留守中に来たっていうのと同じ連中?」

「はい、ですがあの時はワゴン車は一台でした。今回は二台で来ているあたり、なにかしらの対策をされている可能性があります」

「・・・・・」

この状況にすでに皆慣れているせいか、あまり緊迫感は無いように見える。だがそれは皆が、緊迫して焦っている素ぶりを見せてしまえば余計に不安を煽り、場の運びに支障が出るということが分かっているが故の態度だった。

そしてそれは私も同じ。本当は銃器を持った男達が家に群れて襲ってきているなんていう今の状況から逃げたくて仕方がない。だが、少なくともこの子たちのいる前では、主人である手前逃げるわけにはいかない。

私とこの子たちとの間には主従の関係こそあるものの、その中には相互保護の関係もあるのだ。

相補的に保護し、保護される私たちの関係は主従の関係として如何なるものかと思うかもしれないが、それは私たちの望んだことであり、それを受け入れてくれたからこそ彼女たちは私たちに仕えてくれている。

だからこそ、私はもう逃げるわけにはいかない。

逃げれないように自分で自分の足首に枷をつけたのだ。

「カロン、ハックの対象はもういい」

私が落ち着いた口調でそうカロンに言うと、カロンはピタリとキー操作を止めて手を下げる。

空中に表示されていたホロパネルがさっと消え去った。

「掃討せよ」

「了解しました」

「圭じゃない。カロン、君だ」

カロンは私がその言葉を発した瞬間、ピクリの反応する素ぶりを見せた。

目がゴーグルで覆われていてその様子は伺えないものの、私には不思議とカロンが今感じているのは『驚き』だということが分かってしまった。

「清河さま、それは難しいかと」

圭が言った。私は目線をカロンのゴーグルに固定したまま、

「なぜ?」

と圭に疑問符を浮かべる。

「カロンはまだ戦闘に慣れていません。武器の扱いは多少上達したてきましたが、それでも人を相手にするにはまだ早すぎます」

その圭の語りに少し焦りめいたもの感じた。常に冷静沈着な圭のイメージにそぐわない饒舌な口ぶりだった。

「前にあいつらが来た時もカロンが撃退したんでしょ?」

「はい、ですがあれは私も援護に加わったからこそ成し得たことです。もしカロンに掃討させるなら、私も共に」

「だめ」

私は圭の言葉を否定の一言で粉砕すると、「カロン?」と、未だ立ち尽くしているカロンに呼びかけた。

「行きたくないなら行かなくていい」

「・・・・・」

カロンはそのまま四、五秒静止すると、少し下を向いて小さく息を吸った。

数ミリ持ち上げられた小さな肩がストンと落ちて、カロンは拳を握り締める。

「行きます」

そしてそうはっきり言った。

「行け」

私はカロンの返事に間髪入れずに、すぐさまゴーサインを出す。

カロンは綺麗に回れ右をして鉄扉の暗唱キーを解除すると、すたすたと部屋から出て行った。

その後を追おうとジェシュが足を半歩前に出したが、私の顔色をちらりと横目で伺って次の一歩を打ち止める。

「圭、ヒトミの護衛を」

「・・・はい」

不満を濁らせた返事をした圭は、ゆっくりとその足を動かして、カロンの軌跡を追うように部屋から出て行く。

その背中を目で追う私は罪悪感めいたものを感じてはいたが、そんな素ぶりは仕草に、はたまた表情にも寸分たりとも表さなかった。

「ジェシュ」

私は赤いカーペットの敷かれた広い床を見据え微動だにしないジェシュに話しかけた。

突然の呼びかけに肩を鳴らすということはなく、ジェシュはゆっくりとこちらに目線を向ける。

金色の瞳は私に罪科を訴えていた。

「・・・なんでしょう?」

「軽蔑した?」

「いえ、その・・・」

「大丈夫。あの子たちならやれるさ」

「・・・・」

ジェシュは普段のテンションとは打って変わって、沈んだ表情を浮かべていた。そこに込められているのは私への不満というよりも、彼女らを信頼しきっていない自分自身に対するもののように思えた。

「ジェシュ、こっちおいで」

「え?・・・は、はい」

私がジェシュを手をこまねいて呼ぶと、ジェシュは私が言った通り私のすぐ横まで来る。

そしてジェシュの脇の下に手を通して、「よっこいしょ」と持ち上げると、ストンと自らの膝の上に座らせた。

「え!?、ちょ、ちょっと!?清河さま!?」

「おとなしくして、落としちゃうから」

私が耳元でそう囁くと、ジェシュは途端におとなしくなってその身を私に預ける。お腹に手を通してジェシュが落ちないように固定した私は、右手だけをデスクの上に置いてカチッと銀色のスイッチを押した。

「さて、どうなるか・・・」

デスクの上に表示された紙で言うA4コピー用紙サイズ程のホロパネルには、今まさに玄関から出てきたカロンの姿が映っていた。

空挺ドローンで捉えられるカロンの豊かな銀髪をナイトセンサーは光源と勘違いしたようで、銀髪に反射する夜光が少しばかり軽減されていた。

カロンが玄関から離れると『制御室』の扉のセンサーが起動した。

ピピッと電車音が鳴り、外から圭を後ろに連れた波がかった茶髪の少女が現れる。

「清ちゃん!」

「ヒトミ・・・?」

私はヒトミの背後で控えている圭を、連れてこいとは言ってないぞ? という風に、目で問いただす。

するとうちの優秀な使用人はやはりその意味を汲み取ってくれたようで、すぐに、

「お仕事中でいらっしゃいました」

と、答えてくれた。

「どうしたの?」

ヒトミが言った。

「侵入者、かな。いつも通り」

私は視線を逸らしてそう答えると、再びホロパネルに目を落とす。

表示されているのは私たちが帰って来た時にも通ったレンガ道を歩いているカロンが、着ているメイド服のスカートを少しばかりめくり上げ、膝に括り付けてあるホルスターから無骨な黒い銃を引き抜いたところだった。

「あれは・・・?」

膝の上で一緒にホロパネルを見ていたジェシュが首を傾げてそう呟いた。

呟くと同時に自分の膝をスカートの上からそっと撫でたのは、自分のひざ下にも同じ黒い銃が入ったホルスターが括りつけてあるものの、いまだかつてそのトリガーを引いたことがないからだろう、と予想した私だったが、毎度発砲の機会がありながらも、あえて撃たせないようにしているのが自分だということは自覚していた。

それは意図してのことだったのだが、それでも一度はホルスターから抜く機械くらい与えてもいいかもしれないな、と思いつつ、私は、

「AC−GUN」

と、今カロンが引き抜いた黒い銃の正式名称を答えた。

「エーシーガン?」

「ヒトミの発案で私が設計した光学兵器。効き目の程は・・・・まあ見てるといいよ」

いずれ君も使うことになるからね。という言葉を省略して、私はもったいぶると、不安げな顔で部屋に入ってきたヒトミがすでに私の後ろで一緒にホロパネルを見ていることに気付く。圭はすでに壁際で目を瞑りながら手を前に添えて待機していた。

パネルに映るカロンはレンガ道を渡りきり門の前まで来ていた。

この時点での対敵を予想していたのだろうか、AC-GUNのグリップを握りしめて電源を入れているカロンだが、ハッキングの対処を中止させてから今に至るまでの時間は門のセキュリティを突破するのに充分な時間だったらしく、先程まで門のセキュリティをハッキングで破ろうとしていた敵の姿はもうそこにはなかった。

恐らく敵はすでに敷地内に入り込んでいることだろうと、私は予測するが、特殊な光学迷彩を使っているからか空挺ドローンのナイトセンサーでもその姿形までは捉えることができない。

あとはカロンに任せるしかない状況に自然となり得てしまった。

「カロンちゃん、大丈夫かな?」

「大丈夫。多分ね」

私とヒトミは言い合うとホロパネルで映し出されている状況の変化に気づく。

カロンはAC-GUNを肩の高さと並行に横向きに構えていた。

そして数秒間その姿勢を維持すると、何の前触れもなく慣れた手つきで引き金を引く。

AC-GUNの黒光りする銃身に彫り込まれた筋が青白く光を放ち、突き出した二つのシリンダーが高速で回転始めるが、それだけでまだ発砲には至らなかった。

そして数秒間の静止の後、指を引き金から離したカロンは眩い光に照らされ、その美麗な白肌とピンク色の唇が青白い光を反射した。

光源はカロンが構えているAC-GUNの銃口だった。

AC-GUNのマズルフラッシュは通常の火薬を用いた原始的なタイプの銃とは違ってその光は青白く、同時にプラズマの放たれる電気的な音が、通常の銃の爆発のような発砲音の代わりとなっていた。

銃口から放たれた青白いプラズマは一瞬で空を切ってフロントサイトの延長線上に向かっていく。そして数秒と立たないうちにその先で爆発が起こった。故障した光学迷彩で姿をちらつかせた敵の特殊部隊の一人が空中に巻き上げられ、カロンの目の前のレンガに打ち付けられる。

「・・・ん?」

その様を見ていた私は少し疑問に思った。

AC-GUNの設計者である私にはAC-GUNの放つプラズマに爆発を引き起こすほどの威力はないことが分かっていたからだ。

だがそんな異質を発案者であるヒトミがきづかないわけもなく、私が黙って思考を巡らせているあいだにその疑問の答えを出してくれた。

「カロンちゃん凄い・・・C4を狙ったんだわ」

「ああ、なるほど」

「どういうことです?」

私は膝の上で訝しげな顔をしているジェシュの顔を見ると、ホロパネルに映し出されている映像のナイトセンサーをオフにする。すると、街灯やAC-GUNの銃身に彫り込まれた青白い光の筋以外はほぼ全て夜闇に溶け込んでしまい、とても現状が分かるほどの光量ではないことが視覚で理解できた。

「今見ているこの映像の光量。これが今実際カロンを取り巻いている状況だけど、これじゃあ普通は敵の影なんて見えやしない。よほど夜目の効く人間じゃないと、敵のベルトにぶら下がっているC4爆薬にピンポイントで当てるなんて到底出来ないよ」

「じゃあ・・・カロンはそのよほど夜目の効く人間・・・て、ことですか?」

「いや」

私はそう言うと、ホロパネルの端にカロンが常時装着しているゴーグルの詳細図を表示する。

「ジェシュのゴーグルにナイトセンサーのタイプドルフィンを搭載した」

「タイプドルフィン?」

「イルカはエコーロケーションと呼ばれる音波を用いたコミュニケーションを取るんだ。音波を利用した技術は漁船のレーダーやソナーとかあるけど、あれはすごく効率の悪い使い方なんだよ。イルカの素体から直接出した研究結果に基づいた超高周波による状況認識ができるように、あのゴーグルを改造した。」

「じゃあカロンは今・・・」

「うん、夜闇の中は彼女の独壇場だ。そう簡単に殺られはしないさ」

私がそう言うと、その場には沈黙だけが長い尾を引いて残った。

ジェシュは驚いたような表情でまじまじとホロパネルを見つめ、圭が何も言わずに壁際で立って目を瞑っているのには変わりなかった。

ヒトミはと言えば相変わらずその分析眼を働かせてホロパネルの映像に目を釘付けにしている。

それでも私たちの沈黙がカロンを取り巻く状況をも沈黙足らしめることはなかった。

次の変化は初弾の発砲から数秒後、わずかに銃口の方向を変えたカロンのAC-GUNは再びその青白いプラズマを今度は爆発を引き起こすことなく敵の喉元に食らわせ、敵の低く呻く声を夜の闇に靡かせた。

「二人目」

「うん」

AC-GUNを持つカロンの腕は未だピンとまっすぐに伸ばされ、次の敵の見つけた頃には二、三発発砲していた。

これで計五人か六人か、といったところだが、ここで今までの私の唯一の不安要素であった敵の反撃が起こってしまった。

できれば敵が打ち返して来る前に掃討できることが理想だが、それでも人を相手にするのが初めてのカロンにしては今回の戦闘成績はかなりいいものだといえよう。賞賛に値する。

結局のところ、死ななければどうと言うことはないということは誰もが分かっていることだし、その考えには私も大いに賛成だ。

だからこそ、私とヒトミは彼女たちにアレを与えた。

どんな困難があろうとも私たちの身を守れるように、そして何より自分たちの身を自分たちで守ることができるように。

そしてまさに今、カロンに渡したアレはやっとその効力を発揮するということが、私には直感的に分かった。

カロンの背後で光が轟いた。

その光はカロンの持っているAC-GUNのプラズマのように青白いものではなく、うるさい爆音とともに発射された金属の弾丸を押し出したえんじ色のマズルフラッシュだった。

弾丸がゆっくりに見えたのは私だけではあるまい。

金色の弾丸はその延長線上にカロンのしなやかな脚を捉えてまっすぐとその間合いを詰めていく。

着弾するまでに数秒とたっていなかったはずのその時間が、私には数秒のように思えたことなど驚きの片鱗に過ぎなかった。

弾丸はカロンのしなやかな脚に間違いなく着弾した。だがその弾丸の本来の役割であるはずの、カロンに傷を負わせるといった任は果たされることはなかった。

着弾と同時に、カロンの着ているメイド服にAC-GUNの銃身に伺えるものと同じような青白い光の筋が浮かび上がり、敵の銃口から放たれた5.56×45ミリNATO弾はまるで鋼鉄の防弾壁にぶつかったかのように無骨な金属音を火花と共に散らして粉々に砕けた。

立て続けに放たれた敵の弾丸は計4発だった。

四発の弾丸はカロンの肩、背中、脚、腕に間違いなく着弾したが、やはりカロン自身には傷一つ負わせることはできなかった。

「これが・・・」

ジェシュが感慨深いというような顔で漏らした声には驚きの意が込められていた。

「そう、これが君たちに与えたメイド服の力だよ。でもこんなもんじゃない」

私の言葉を肯定するように、画面内のカロンは足を地面にめり込ませて大きく跳ねると、空中で一回転して枯れ木群の中にスタッと静かに着地する。

カロンの着地点は敵のすぐ目の前だった。

いきなりのカロンの登場になのか、それとも人間離れした凄まじい跳躍力を目の当たりにしてなのか、はたまたその両方かは分からないが、カロンの着地と同時に、敵は上ずった高い声を発して後ろにバックステップで逃げようとする。

が、地面に溜まった落ち葉に足を取られて、間抜けで派手な転倒を披露してしまった。

敵が態勢を整える前に、カロンはAC-GUNのフロントサイトをその転んだ敵の額に合わせ、そのまま間を空けず二発撃った。

プラズマの青白い光が再びカロンのシルエットを夜闇に映し出し、その姿を見た後方のもう一人の敵は、銃による攻撃が有効ではないということを理解したのか、腰に下げていたサバイバルナイフを素早く抜き取りその短い刀身を中段に構えた。

カロンは未だ自分の殺した敵のぐったりとうなだれた死体を見ていた。

どうしたものかと探るような間が空いたかと思えば、次の瞬間にはナイフの刀身がカロンの背中に襲いかかっていた。

だがまたしてもその攻撃がカロンに損傷を負わせることは無く、カロンはナイフが背中に到達する前に素早くその身を翻してナイフを避けると、その必死の攻撃を嘲笑うかのように、無駄のない余裕の伺える動作でスカートを少しめくり上げ、左脚の膝下に括り付けられている二つ目のホルスターから第二の武器を取り出した。

「黒い剣・・・」

ジェシュがその武器の名前をぼそりと呟いた。

カロンがその刀の柄に二つのトリガーがついたようなその黒い棒を、敵のナイフをかわす動作に合わせて地面に向けて勢いよく振りかぶると、シャキンッという金属同士の擦れる音と共に、収納されていた刃渡り七十センチ程の黒い刀身がその姿を表した。

夜闇の中でも一際暗黒の濃さが伺える、その漆黒の刀身の、日本刀と大差ないほどの美しい金属光沢は、デタラメとは言えないまでも、冷静さを欠いたが故の不格好な敵のナイフ捌きを写していた。

カロンが黒い剣を斜めに振り上げると、その過程でカキンッと軽い金属同士の接触音が暗い枯れ木群に鳴り響いた。

「よし」

発したその言葉を肯定する光景がホロパネルには映し出されていた。

黒い剣の刀身に弾かれた敵のナイフは空中で何回転かした後地面に突き刺さり、それ以降動きを見せることはなかった。

場の硬直が訪れたことには私は疑問を覚えなかった。

絶体絶命のピンチというのはある意味でそのピンチを与える側に隙と余裕、そして安堵を生み出すことが、私には経験から推して分かっていた。

長い、とは言えないが、私にとってのその二、三分は通常の時軸上の経過速度よりも遅く感じられた。

二、三分後に起こった変化はただ一つ。

今ホロパネルを見ている誰もが予想したであろう、この状況の終末だった。

カロンは片足を浮かして一回転しながら、黒い剣の柄に二つ並んだトリガーのうち一つを引いた。

その一回転という動作が無駄な動作であることは私たちのみならず敵も分かっていただろうが、私たちにはその余裕ある無駄な動作が、敵の余裕をさらに無くす役割をはたしていることに気がついていた。

回転に伴う遠心力に任せたその横振りは凄まじい威力だった。

それは黒い剣の横振り攻撃をまともに食らった敵が、肩から腰に掛けてまっすぐの血のラインを走らせているところを見ればすぐに分かった。

敵はしばらく立ち尽くし、落ち葉の上に膝をつき吐血すると、そのまま横向きのベクトルにしたがってゆっくりと横転した。

黒い剣の刀身に着いた血を振り払ったカロンは、その様を見届けると、

「状況終了」

と、短く言い、まっすぐ屋敷の扉へと向かっていった。

「終わった」

その時まともに喋ることができたのは私だけだったかもしれない。

暗闇での戦闘経験のないジェシュは、未だ目を丸くしてホロパネルを見つめているし、ヒトミはその分析眼を休めはしているがその表情は翳り、口は動く様子を見せなかった。

圭は相変わらず壁際で突っ立っているだけだか、それでも喋らないことには変わりない。

私は俯いて黙っているヒトミが、組んだ五本の指のうち、親指だけをモジモジさせている仕草を見て、突っ立っているだけだった圭に声をかけた。

「圭、私の部屋から、私がカナダに持っていったポーターバッグ取ってきてくれない? 多分ベッドに置きっぱなしだから」

「了解しました」

軽くお辞儀をして踵を返した圭は、まっすぐ鉄扉に向かっていく。

私は圭が暗唱キーを解除する前に、膝の上でポカンとしているジェシュにも、

「ジェシュ、カロンを迎えに行ってくれる?」

と外出を促した。

我に返ったジェシュは振り向いて私の目を見上げると、「はい」と短く返事をして、ちょうど暗唱キーを解除し終えた圭の後ろをてくてくと追っていき、やがて二人とも部屋からいなくなった。

つまり、これでヒトミと二人きりになった。

「清ちゃん」

「ん?」

「これは清ちゃんの望んだこと。だよね?」

「うん、そうだね」

「・・・・そっか」

息を吐くように軽いその言葉には、呆れさえも含んでいたのかもしれない。

私の望んだこの状況に、ヒトミがどんな情を写しているのか、そんなこと私には分かりきっていた。

でもそれに、私は答えることはできない。

答えるべきじゃない。ということも、私には分かっていたからだ。


――――― カチャリ。


耳元で聞こえたその音には聞き覚えがあった。

他ならないAC-GUNを構えた時のその音は、その銃口が私のこめかみに向けられていることを教えてくれていた。

「・・・・・」

回転椅子を回転させて、私にAC-GUNの銃口を向けているヒトミと目を合わせた。

銃口のフロントサイトの延長線上にあるのが私のこめかみから額へと移り変わり、まっすぐ私の目の奥を見据えているヒトミの黒曜眼がよく見えた。

「その行動は、本心からなんだね」

使用者の意図しない発砲を、トリガーをロックすることで禁止する機能を備えたAC-GUNが、その機能を働かせている証拠である赤い光の筋をその黒い銃身に浮かばせていないという事実が、私にその結論を出させた。

「うん」

頷くヒトミのその表情には苦悶など浮かんでいなかった。

無表情の奥にある冷たい氷気に気づいていながらも、私はいつも通りの柔らかな、口角を少し持ち上げるだけの爽やかな笑みを浮かべてみせた。

「でも、ヒトミに私は殺せないよ」

「分かってる」

「でも、私はヒトミに殺されても文句は言えないな」

「分かってる」

繰り返される同じ返事は、昨夜の自分がしていたような空返事などではなかった。

その一つ一つが思い意思を言の葉に乗せ、罪科の如く私にのしかかっているような、そんな圧迫感と重量感のある了解だった。

「ヒトミが欲しいものは手に入らないよ。・・・そして私も、欲しいものは手は入らない」

「・・・・・」

「私たちは恋人同士だけど、そこに赤い糸なんて無い。あるのは何処までも傲慢な支配欲と独占欲、あとは・・・」

「性欲?」

「それだ」

「・・・・・」

「何処まで行っても、私たちがそれ以上に進むことなんかあり得ない。少なくとも、君が欲するものが私の要らないもので、私の欲するものが君の要らないものであり続ける限りね。私たちが互いを求めている理由は愛なんて不確かなものなんかじゃない。ただ自分の欲するものが一人歩きをしていって勝手に消えてしまわないように、自分の側に置いておきたいだけだ」

「うん。・・・・清ちゃんになら、大好きな清ちゃんになら、私の全てを捧げてもいい。けど、私も、清ちゃんの欲しがっているものだけはあげられない」

「分かってる」

私がしたその返事は空返事だったかもしれない。

その証拠に、部屋にカバンを取りに行かせた圭が、その腕に私のポーターバッグを下げて帰ってきたことに危うく気づかないでおくところだった。

圭は驚きをモロにその表情に浮かべていた。

何歩が歩いて鉄扉から離れると、そのあとどうしたらいいのかわからないといった具合に、先程の待機とは性質の全く違う棒立ちをしながら、私にAC-GUNの銃口を向けているヒトミと、向けられていながらも微笑んでいる私を見ていた。

続いて鉄扉のロックが解除された。

次に入ってきたのは戦闘を終えたカロンを後ろに連れたジェシュだった。

ジェシュは圭と同じような反応を最初にしてから、そのあとは圭と違ってすぐに行動を起こした。

自分のスカートを少しめくり挙げ、そのしたの細く短い小枝のような脚に括り付けられたホルスターに収まっている自分のAC-GUNに手を添えると、すぐさま抜き取りその銃口をヒトミに向けた。

だが、やはりというべきか、ジェシュの構えたそのAC-GUNは、その銃身に赤い光の筋を浮かばせ、カチャリという音と共にトリガーをロックされていた。

やはりジェシュにはヒトミを撃つことなんてできない。恐らくそれは本人も分かっていたことなのだろう。

それでもAC-GUNを構えたのは、カロンの戦闘を見て自分の戦闘力に劣等感を感じたからかもしれない。

私は片腕を軽く挙げてジェシュに向けて手をひらりと下に下げた。

その合図の意図を、やはりうちの優秀な使用人は理解してくれたようで、圭はジェシュの構えているAC-GUNを優しく包み込むようにして銃身を手で覆って下げさせた。

ジェシュもその行動に抵抗するそぶりを見せないあたりは理解していたみたいだったが、今回先に体が動いたのは圭の方だった。

「圭、ありがとう。カバンかしてくれる?」

「・・・・はい」

圭はその表情に訝しさを浮かべながら、恐る恐る私のデスクの上に、肩にかけていたポーターバックを置いた。

パタリ、と少し本体と遅れてデスクに落ちたベルトの金具が音を鳴らし、私はその音を聞いてからベルトを持ち上げて本体を膝の上に乗せた。

寛大な心と温和な性格を併せ持つヒトミは私のそんな行動を見逃し、引き金を引くことさえしなかったが、私が、

「ああ・・・ちょっと潰れちゃってるなぁ・・・」

とつぶやいて、その言葉通り少し歪んだ形になってしまった小さな箱を中から取り出したときには、トリガーにかけている指をピクリとわずかに動かした。

私は、

「あの時かぁ・・・」

と、大学に課題を取りに行って、クリップボードを乱暴にカバンの中に押し込んだ時のことを思い出すが、まあ中身が大丈夫ならそれでいいかなと、妥協し、カバンの底から取り出した歪な小箱をパカリと開け、その中からもう一回り小さな黒いリングケースを取り出した。

「それは・・・・」

ヒトミがリングケースを見てつぶやいた。

私はリングケースを右手のひらに乗せて、左手でゆっくりとそのふたを開けると、そこに入っているものを見たヒトミの目に僅かながらも光が戻ったことに少々の安堵を覚えた。

「ヒトミ」

私はリングケースの中に入っているものを指で摘みながら続けた。

「愛してるよ」

恥ずかしいという感覚は全くと言っていいほど覚えなかった。

これがほんとうに『愛』のこもった「愛してる」ならばもっと恥ずかしいのだろうなと、私は自信の発した「愛してるよ」を天秤にかけた結果、その受け皿が簡単に持ち上がってしまったことに再三呆れ返った。

「・・・・ありがとう、清ちゃん。私も愛してる」

ヒトミは言葉を言い終えるに連れてその表情を徐々に崩していき、やがて言い終えたときには笑顔を作っていた。

だがやはりそこに並ぶ二つの黒曜の瞳に、私は、おおよそ生力と言えるようなものを感じ取ることができず、自信の感受性に問題があるでは、と一瞬疑ったが、原因はヒトミの方にもあるということはすでに理性がその結論を出していたため、少しばかり感じた罪悪感はぬるま湯が冷めるように、すっと消えていった。

リングケースに入っていたのは、当然指輪だった。

その頂にキラキラと輝く三カラットのダイヤモンドが埋め込まれたその一品を、チェアから立ち上がった私は、左手で優しくヒトミのAC-GUNを下ろさせた後、ヒトミの手を掴んで、右手でそのしなやかな中指に花を添えるかの如く丁寧に通していった。

「よく似合うよ」

「ふふっ・・・ありがと」

ヒトミは中指に通されたその指輪を見て幸せそうな笑みを浮かべながらそう言った。

私がヒトミの頭に手を乗せて撫でると、ヒトミは目を閉じ私の懐にその身を預け、顔を私の大して大きいわけでもないが小さ過ぎることもない胸にスリスリと、こすりつけた。

「愛してるよ、清ちゃん」

もう一度言ったことに何かしらの意味があったのかは、この時の私には分からなかったけれど、この抱擁は少なくとも雀の涙ほどの幸福感を私に与えてくれていた。

抱き返した私の目が、 青色の光を発していたことには、窓に反射した自分の像を見ていた私以外誰にも気付いていなかったと思う。だが、ヒトミの瞳さえもが青く光を放っていたことは、私には分かっていながらも受け入れたくはなかった。

私はヒトミの瞳から放たれる青色の光が漏れないように、抱きしめる腕の力を強めた。

ヒトミもそれに答えるように抱きしめる力を強め、そのとき初めて右手に持っていたAC-GUNを離し、無沙汰になったその右手は私の背中に回された。


温かい。ああ、温かい。


幸せか?


いや、幸せじゃないな。


           

何秒、いや何分抱き合っていたかは覚えていない。

けれど一つ言えることは、どれだけ長い時間抱き合っていようとも私がその幸福感を雀の涙以上に感じることはなかったということだ。

ここに、使徒ヨハネの記した黙示録の第一章八節を語ろう。




―― 今も、昔も、やがて来たるべき者、

         全能者にして主なる神が仰せになられる。

              「わたしはアルファであり、オメガである」――




そう、この状況を作った私自身がアルファであり、私はこの状況を終わらせることのできる鍵をヒトミに託した。

ヒトミはオメガだ。

来たるべき時が訪れた時、私が散々傷痕を残したこの子たちは解放され、私には罪科の通り贖罪しょくざいが与えられる。

私とヒトミはアルファでありオメガだ。

その本質は同一であるものの、表裏一体たるその御身を互いが伺えることなどあり得ない。

背中合わせに互いを愛し合う私たちの関係は、本当は恋人同士と呼ぶのに相応しくないのかもしれない。それでも私は皮肉をたっぷりこめて、恋人同士であることを自称する。

だからこそ、私は胸を張ってこう言えるのだ。


「――愛してるよ、ヒトミ」















                              To be Continued

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文系脳数学者と理系脳小説家 吐影 @amekoukou

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