もう、間に合わないよ。絶対に
「わあい悪魔さんだ。お久しぶりですう」
アンシュベルが手を振る。
手ぶくろの悪魔はチェシーから何とか逃げようと暴れ回っていたが、アンシュベルの声が届くや、ころっと態度を変えて愛想良く反応した。
(やあアンシュベル、ごきげんよう。元気だったかい?)
挨拶を終えると、再び元の大騒ぎを始める。
(……でもアレだけは無理! やだ! 帰る! 悠久の時を最凶最悪の魔王として生き続けてきたやんごとなきこの僕が! 君らと関わってからというもの繊細なガラスのハートと悪魔の誇りをバッキバキに折られまくって、気づけば魂のロウソクがもう九千九百九十六本しかないんだぞ!)
「それだけあれば問題ない」
(鬼! 聖職者! 人間!)
「お褒めに預かり光栄至極」
(褒めてないッ!)
「そんなことよりさ。あれ見てよ。早くしてくれないと《
ニコルは親指を立てて頭上を示す。ル・フェは顔を伏せて地面を叩く真似をしながら号泣した。
(だから嫌だって言ってるだろ。もう絶対に関わりたくない、こんな悪魔より凶悪な連中となんて!)
「悪魔の分際で俺から逃げられるとでも思ってるのか。黙ってさっさと従え」
チェシーはぬいぐるみの悪魔を空中へ放り投げた。青黒い炎に包まれる。足元の水面に巨大な悪魔の影が反射して写り込んだのは目の錯覚か幻影か。
(こんちくしょう覚えてろ!)
ぬいぐるみの悪魔がおもちゃの指を鳴らす。
一瞬にして周囲は銀の悪魔の軍団に埋め尽くされた。妖艶な金属光沢の肌。互いに頬を寄せ合い、腰をくねらせ誘う仕草。豊満な肉体に渦巻く鉄色の髪。
「うおっ」
アンドレーエは背筋をこわばらせた。むちむちと乳を揺らして押し寄せる銀の悪魔に絶句する。
「本当に大丈夫なんだろうな、こいつら。いきなり爆発とかしねえよな……?」
「うわあ、すんごくえっちなおねえさんがいっぱい!」
アンシュベルはぽかんと口を開けたまま、眼を輝かせた。早速銀の悪魔の首根っこにかじりつく。
「いや、だめだ。こいつらの力を借りるなんて……」
アンドレーエは顔の半分を嫌悪にゆがめ、かつてノーラス城砦を自爆攻撃で破壊し尽くした銀の悪魔を睨みつけた。
銀の悪魔は、うっとりとふしだらに微笑み、背後から腕を回してしなだれかかる。
「うほっ……」
悪魔の胸に抱き寄せられ、身動きひとつできない状態におちいる。アンドレーエはそれ以上もがくのをやめ、真顔に戻った。咳払いし、きりりと居住まいを正す。
「じゃなくて、ゴホゴホ背に腹は変えられん。しょうがない。悪魔どもめ、今だけは勘弁してやる」
「すみませんザフエルさん。浅はかでお気に召さない作戦だとは思いますが」
ニコルは背後を振り返った。ザフエルは悪魔に頬ずりされながらお姫様抱っこされていた。口がへの字どころかMの字に曲がっている。
「まったく、論外ですな」
全裸の悪魔に運び出される恥辱がよほど身にこたえたらしい。横を向いてむすりと言う。
ニコルは思わず吹き出した。
ザフエルの鉄面皮を凹ませるなどなかなかできることではない。
「準備はいいな」
チェシーが全員の状態を確認した。皆、悪魔にしっかりとつかまっている。
合図の手を振り上げた。
「振り落とされるなよ。よし、飛べ!」
銀の悪魔たちが一斉に羽ばたく。
一匹が水の底に潜った。自爆する。
湖底の水が一瞬で沸騰した。熱水が強い上昇気流を巻き起こす。爆発する水蒸気に押され、銀の悪魔はぐんと加速した。
直後。
聖呪《
乱反射する無数のプリズム光が、地底の聖域をなぎ払った。
純白の轟音が壁面の天球図を削り取った。ほとんど水没していた鋼の薔薇十字が、凄まじい火花を散らしながら飴細工のように歪み、ひしゃげ、水しぶきを砕きながら倒れ込む。青白い光がつんざいた。
はるか下方で、逃げ遅れた銀の悪魔が爆発した。真っ赤な炎がふくらむ。
赤と黒の爆煙が、壁を割り砕きながら上昇してくる。
ふいに背中が熱くなった。下を見ると煙が長い白い尾を引いている。
ニコルは上昇する悪魔の風圧に耐えつつ、煙を眼で追いかけた。出どころを探す。
真後ろで、ぼっ、と火が上がった。ぎょっとする。燃えているのは自分だ。
銀の悪魔の羽が真っ赤になって溶けかけている。
ニコルは反射的に悪魔の手を振りほどいた。
「ごめんっ……!」
空中で身をよじり、悪魔を蹴っ飛ばす。
銀の悪魔はニコルを上空へと放り投げた。反動で失速。半ば溶解しながら離れてゆく。
落盤の向こう側で爆発した。
ニコル自身も落下を始める。
「しまっ……!」
上空の闇に向かって必死に手を伸ばす。
助けを求めようにも、声そのものが崩落の轟音に吹き飛ばされた。爆風が襲いかかる。
燃える闇。渦巻く煙。降りしきる瓦礫。浄化の光。
灼かれる。
落ちる――!
羽ばたきの音が聞こえた。前方に、青黒くねじれ飛ぶみちびきの光が細く伝い走る。
次の瞬間、背骨が折れそうなほどの凄まじい衝撃が来た。振り子のように全身が揺すぶられる。ニコルはおずおずと眼を開けた。かすむ目で四方を見渡す。
「振り向くな。涙目になるぞ」
チェシーの引きつった声が頭上から聞こえた。
異形の腕が腰にからみついている。
「た……助かった」
ニコルは悲鳴として吐き出すはずだった息を、安堵の息に変えて長々と吐いた。
「死ぬかと思いました」
「しっかり俺につかまってろよ」
チェシーはニコルを引き寄せ腕に抱き込んだ。
螺旋の軌跡を描く光めがけて、青黒の翼を羽ばたかせる。
行く手を阻む落盤が続けざまに襲いかかってくる。周囲の壁が砕け、割れる。土煙と炎、轟音に呑まれて、ほとんど何も見えない。
足元から爆炎が迫り上がってくる。逃げおくれた悪魔が次々に爆発しているのだった。
爆風と熱気に押されてさらに飛ぶ。
闇の彼方に小さな光が見えた。
先導するル・フェの放つ青い光線を追い、炎を突っ切って飛び続ける。猛煙渦巻く前方に、黒く風の吹き抜ける縦坑の門が見えた。
「見えたぞ! 行け!」
チェシーは怯むことなく煙の充満した螺旋階段へと飛び込んだ。光を追い、どこまでも羽ばたいて翔け上がってゆく。
轟音と風の音とガラスの砕ける音が交錯し、反響した。
上へ、ただひたすら上へと続く、地表へ出られるかどうかすら分からぬほど絶望的に連なる地獄の穴。
地下の聖域が真っ白な光の海に呑み込まれてゆく。
先頭の悪魔がガラスの天井を突き破る。真っ赤な炎が爆発となって大聖堂の身廊を突き破った。華やかなモザイク画が描かれた交差天井が吹っ飛ぶ。砕け落ちる。
沸騰した熱水と水蒸気と噴石が撒き散らされた。
爆発の圧力に耐えきれず、地下を掘り抜いた大聖堂そのものが崩壊してゆく。
壁に彫り込まれた聖女像が一面にひび割れた。顔が剥がれ、砕け落ちる。
崩壊の寸前、光に照らし出されたその顔は、薄闇の中に見えた恍惚の表情ではなく、迫害への恐怖と理不尽な運命にむせび泣く苦悶の形相だった。
ようやく大聖堂の上空に達する。
チェシーはぐるりと周囲を見渡した。
自分たち以外の銀の悪魔に抱きかかえられた姿を三つ確認する。全員無事だ。
「チェシーさん、あれ!」
ニコルはツアゼルの聖堂を擁する丘陵の山腹を指さした。
そこかしこに真紅の亀裂が走っている。
巨岩が谷に沿って転がり落ちてゆく。
噴煙が上がる。直後、爆発した。無数にほとばしる光の柱と破局めいた爆炎とが噴出する。
「もうだめだ。山が、山が……崩れちまう……!」
アンドレーエが絶望の叫びをあげた。
地底湖の水が大量に噴出した。水に触れた溶岩が水蒸気爆発を起こし、斜面もろとも山腹をえぐる。
どす黒く濁った土石流が流れ出した。
崖を乗り越え、岩を巻き込み、煙を上げ、森をなぎ倒し。絶望と悲鳴と怒号の牙で噛み砕きながらツアゼルホーヘンの街に迫ってゆく。
「お願い。ル・フェ。銀の悪魔であの土石流を吹き飛ばして!」
ニコルは悲鳴を上げ、眼下の災厄を指さした。
(だめだね)
奇妙に落ち着き払った声でぬいぐるみの悪魔が答えた。
(もう、間に合わないよ。絶対に)
「そんな」
ニコルは息を呑む。
「……せっかくここまで来たのに……!」
死力を尽くして戦い抜き。
やっと、みんな、無事に脱出できたのに。
最後の最後でこんなことになるなんて。
「くそっ! どうしたら……いったいどうしたら……!」
真っ赤に燃える溶岩が。家よりも巨大な岩が。街全体を埋め尽くすほどの瓦礫や土砂が。
何百、何千人という人々が住まうツアゼルホーヘン市街地の目前に。
迫っていた。
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