本名不詳。住所不定。無職。
真っ赤な夕日が山影に隠れる。
山腹を駆けくだる土砂と倒木の濁流が街に突き刺さる寸前。
街はずれの門が開いた。
軍コートに身を包んだ男がたったひとりで歩み出てくる。
「あれは……」
ニコルは涙目をこすった。息を大きく吸い込む。
長身痩躯。短く刈り上げた灰色の髪。酷薄なまなざしを隠すオレンジ色の色眼鏡をかけ、首には木製の薔薇十字。
左上腕に鉄の鎖を何重にも巻き、手甲がわりの小さな銀の円盾を帯びている。
男は鎖を巻いた腕をかざした。もう一方の手を籠手に添える。
「《
同時に、山の手の門という門、道という道、壁という壁から白銀の盾が迫り上がった。
光の盾は互いに光の鎖で連結し、組み合わされ、巨大な光の擁壁と化す。
土石流が地響きを立てて壁に激突した。みるみるかさを増して、光の壁の外側に盛り上がってゆく。
「ああっ、すごい、あんなのに耐えてるなんて……」
アンシュベルが感嘆の吐息をもらす。
街全体が揺れ動く。まっすぐに伸びていた石畳が波打ってたわんだ。城壁が折り重なって崩れ伏す。
家よりも大きな落石が、次々に街を避け、川沿いに回り込んで転がっていった。倒木と土砂と巨岩で埋めつくしたあと、なだらかな丘の手前でようやく、止まる。
いつの間にか、周囲は黄昏に沈んでいた。
薄暗くなった街のあちらこちらから不穏な火の手が上がっている。
緊迫の半鐘が鳴り続けていた。いくら土石流の直撃を堰き止めたと言っても、爆発の余波は相当なものだ。完全な無傷とは言えない。
土ぼこりが吹き流れる。生木と泥水の湿った臭いがした。
それでも、街の住民たちに甚大な被害が及ばなかったのは何よりの幸いだった。
ニコルは男の傍らへ駆け寄った。頭を下げる。
「ありがとう。本当に助かりました」
男は不興げな色眼鏡越しにニコルを見下ろした。
「何者だ、貴様」
「えっ、いや、あれ? エッシェンバッハさんですよね?」
「それがどうした」
「やだなあもう、とぼけちゃって。そりゃちょっとアレだけど分かるでしょ? ほら、第五師団のアー……」
「知らんと言ったら知らん。貴様のような、どこの馬の骨とも知れぬ小娘など」
無下に突き放す口ぶりで切り捨て、以降は完全に無視して視線をそらす。
「俺は護るべきものを護っただけだ」
未だおさまらぬ土ぼこりのツアゼルホーヘンを振り返る。
視線の先に、新作タルト発売中、と書かれたのぼりが揺れている。立て看板には交差したお玉の絵。
そこへ、空気などまったく読まないアンドレーエが横入りした。
「なんだよてめえ、最後においしいところだけ持っていきやがって、このむっつりすけべが……じゃなくて。はっはっは、ごきげんよう、貴卿なら必ずやってくれると信じていたよ! 友に相見えればまずは酒、仲間に会えばまずは酒、兎にも角にもまずは酒、いざ樽を持……え?」
いつものように気安く手を上げて、肩を叩こうとのこのこ近づきかけた、その。
あご先にぴたりと。
黒光りする騎兵銃の筒先が突きつけられた。
「うっ」
寄り目の冷や汗でアンドレーエは硬直する。
冷ややかな声が罪状を読み上げた。
「通称ヨハン・アンドレーエ。本名不詳。住所不定。無職。貴様には罪人
「何だと? まさかあんたまで《
「とぼけるな。逃亡の際の悪行ざんまい、いまさら忘れたとは言わせんぞ」
「うん、いや、それな、むしろ身に覚えがありすぎて、どれがどの罪状やら」
「……少しは尻ぬぐいする側の身にもなれ。極悪人が」
エッシェンバッハは銃から手を離し、肩掛けのベルトに吊ったまま背後に押しやった。
傷ついたザフエルの元へとあゆみよる。
「猊下、よくぞご無事で」
膝をつき、深々と首を垂れる。エッシェンバッハはザフエルの足元に点々と散らばる血の染みに眼を止めた。
肩がわずかに震える。
「アンドレーエ」
「何」
「……さらに不敬罪と危険物所持罪、外患誘致罪も追加。極刑に処す」
「は!?」
アンドレーエは眼を丸くした。じりじり後ずさりながら笑い出す。
「ふざけんな。てめえの冗談にはマジで付き合ってられねーわ。はいはい、足を洗うにゃあちょうどいい潮時だと思ってたんだよ。じゃあな、アーテュラス。いずれまた逢おう」
「ああん、あたしも行くぅーー」
あっという間に姿をくらましたアンドレーエを追いかけて、アンシュベルが走り出す。
きらきら光る金髪ロールが背中に揺れる。アンシュベルは軽快に飛び跳ねながら振り返った。大きく手を振る。
「師団長、すぐにお手紙書きますからねえっ! エッシェンバッハさんは今度ちっちゃなレイディと一緒にスイーツ巡りしましょうねえっ! ああん、待ってよアンドレさあん!」
「おい」
チェシーがひそかにニコルをひじでこづいた。
ニコルはきょとんと振り返る。チェシーはにがり切った表情であごをしゃくった。
「ぐずぐずするな」
「何を」
「しっ。声を出すな。バレる」
ニコルは小首をかしげた。どうも話が噛み合わない。
「何が?」
「相変わらず能天気なやつだ。このままだと、俺たちはどうなると思う」
ニコルは人さし指をあごに当て、上目づかいでぼんやりと思案をめぐらせた。
「どうなるって、えーと……」
敵国の皇子でありながら亡命者を装い、ぬけぬけとティセニアに侵入、ニコルを拉致。手薄になったノーラス城砦を悪魔による空爆で灰燼に帰さしめた不倶戴天の仇敵。この男、まさしくゾディアックの悪魔——
言われてみれば先だって敵国の間諜をあぶり出したことがあった。そのときにザフエルがとった処置は、確か……
「粛清」
親指を首に添えて、ピッ、と横に掻っ切る。自分で言っておきながらニコルは目の色を変えた。青ざめる。
「待って、やばい」
「勘違いするなよ。言っておくが、おそれ多くも総主教ご本尊を完膚なきまでにぶちのめしたのは俺じゃあないからな」
「えっ。誰」
「君だ」
「ふへゃあぁっ!?」
「デカい声を出すな」
チェシーはあわててニコルの口を封じる。即座にエッシェンバッハが反応した。銃の引き金に指をかけ、ぎろりと睨む。
「動くな、サリスヴァール。手を上げろ。貴卿には
「知るか。話ならそこのたんこぶ野郎に聞け。俺は逃げるのに忙しい」
チェシーはニコルの首根っこをつかんだ。身をひるがえす。
「あと、どうせ要らんだろうから、この馬の骨もついでにもらっていくぞ。ではな。さらばだ」
「そうはいくか」
エッシェンバッハは逃げるチェシーの足めがけて引き金を引いた。
銃弾が明後日の方向へとそれる。
なぜか塀の上に置いてあった戦闘糧食の缶詰に命中した。破裂した缶詰が、ブリキの音を立てて転がり落ちる。野良猫が群がった。
「ええい、ねこなど放っておけ。ものども出合え出合え! 逆賊を捕らえよ。絶対に逃すな!」
ねこにたかられながら、呼子を高々と吹き鳴らす。配下の神殿騎士が槍を並べ、鎧を鳴らして集結した。
中の一人が、やけに俊敏な走りで行列を飛び出した。
口元を迷彩布でおおい、メガネをかけている。男は周囲の制止もきかず、塀を飛び越え、わざと神殿騎士の行手にねこ缶の中身をばら撒きながら逃走した。
はるか上空を自由の鷹が飛び去ってゆく。
ザフエルは足を踏み出そうとしてよろめいた。その場に膝をつく。
「衛生兵を呼べ。猊下をお連れしろ」
エッシェンバッハが背中を支える。ランタンを持ったティセニアの司令部将校が衛生兵をともなって駆け寄った。
「参謀長、医務室へ。ビジロッテ中尉、閣下に肩をお貸ししろ」
「レゾンド大尉か。構うな。大事ない。それよりもサリスヴァールを追え。あやつを街から出すな」
言いつつザフエルは頰に手をやる。あざに軽く触れただけで、口元がゆがむ。
「よくもやってくれた」
うつむいたまま肩を揺らす。笑っていたのだった。
その頃。
「こっちだ」
異形の腕にニコルを抱き、チェシーは城壁の側防塔に駆け寄った。
扉を蹴り破って中へ転がり込む。
「ここならしばらくは時間が稼げるだろう」
石の螺旋階段を一気に駆け上がる。
光が見えた。切り抜かれた四角い窓から月の光がしらじらと差し込んでいる。こことは違う別の世界を見上げているかのようだった。
出口に近づく。反響する足音が変わった。
チェシーは行く手を遮る最後の扉を蹴り飛ばした。広い屋外に出る。
山から吹くつめたい風が、さあっと吹き寄せた。
抜けるような星空が広がる。風の音。木々の揺れるざわめき。ねぐらへ帰る鳥の鳴き交わす声。命の息吹を含んだ風が、頬を撫でる。
どこからか水の流れる音が聞こえた。
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