あれー? おかしいなー? びびってますー?

 さすがのチェシーも表情を固くする。

「おい、君、まさか」

 ニコルはこの上もなく悪どい顔で、指先を口元に添わせた。くふっと息をもらす。

「ゾディアック第五獅子宮師団サリスヴァール将軍への命令。ただちに魔召喚を行い、全員を上方へ輸送せよ」


「冗談だろ」

 チェシーは愕然とあとずさった。足場から落っこちかけ、あわててかぶりを振る。

「やれっつったらやれってんですよ」

 ニコルはにべもない。

 チェシーの片腕に残る《悪魔の紋章》に眼をやり、続けて上空へ視線を飛ばす。

「爆発には爆発をぶち当てるしかない。のはチェシーさんだけなんです」

 ザフエルが横を向いた。鼻を鳴らす。

「ざまあですな」

 チェシーはこぶしで薔薇のつるを叩いた。

「めちゃくちゃだ。俺は、これを壁に打ち込みながら登っていくとばかり思っていた!」

「体力的に無理ですし走ってちゃ間に合いません」

「はあああ!? 良くあるシーンだろ、崩れ落ちる階段を駆け登っていくとか!」

「今の会話で早くも一秒を無駄にしました」

「やかましい! どうかしてるぞ、君! おい、お前らも同じ意見なのか。考えてもみろ、この絶体絶命の状態で、火に油を注ぐどころか信管の抜けた爆弾かついで特攻まがいの脱出とか、正気の沙汰じゃ……」


 ニコルは眼をまるくした。あひる口を作って、天真爛漫に首をかしげる。

「あれー? おかしいなー? びびってますー? ゾディアックの皇子ともあろう者が、うそー? まさかあー? ありえなーい」

「うそーまさかあーありえなーい、了解」

 ザフエルが表情筋をぴくりとも動かさずに復唱する。


「やかましい!」

 チェシーは怒髪天をつく勢いで振り返った。こめかみに血管が浮かび上がる。


 光と巨岩が頭上に迫る。無数の岩の雨が降った。割れて砕けた破片が水面を突き刺す。巨岩が落ちた。

 大波が水の壁となって迫る。

 また壁が崩落した。水面をほぼ覆い尽くすほどの大きさだ。真っ赤に熱せられた岩が地底湖に落ち、そのたびに熱泉となって蒸発する。


 湯気と蒸気が立ち込めた。少し離れたところにいるはずのアンドレーエの顔も見えない。ニコルはチェシーの燃える眼を見た。軽く微笑む。

「ここにいるみんなの命だけじゃない。街にいる人たちを救うためには、チェシーさんにお願いするほかないんです」

「悪魔どもの爆弾に吹っ飛ばされて黒焦げになっても知らんぞ!」

 ニコルは片目をつぶった。

「僕は貴方を信じます」


 チェシーは青くきらめく隻眼を見開き、あきれ果てた笑い声を立てた。

「えい、もうどうにでもなれだ。この貸しは魂のひとつやふたつじゃとうてい足りん。一生かかっても払ってもらうからな。後で泣きべそをかくなよ」


 チェシーは手袋の指先をまるで噛みちぎるようにして引いた。すっぽ抜ける。

「あっ」

 ニコルははっとした。膝下まで水に濡らしながら深みに手を伸ばす。

「何やってんだ。んなもんどうでもいいだろ。ほっとけ」

 アンドレーエが怒鳴る。

 大波が手袋におおいかぶさる。

「でもっ!」

 押しやられて沈む寸前、指先が引っかかった。すくいあげる。即座にザフエルがぐいと手を引いてニコルを釣り上げた。


「どうするおつもりです」

「慣れた形の方がいいかなって思って」

 手袋を逆さまにして中の水を捨てる。人差し指と中指の部分だけを残して、残りの指は内側へ折り込む。手首を裏返し、くるりと丸める。

「その形……」


 チェシーは歯で軍衣の袖口をぐいとたくし上げた。

 手の甲が剥き出しになった。青黒い光が明滅する。《悪魔の紋章》だ。


「血の盟約に従い、練成した悪魔の紋章を触媒に、我が真名の言霊をささげ、紋章の悪魔を召喚する。降り来たれ、ル・フェ!」

 何もない空間から青黒い雷電が走りついた。旋風がコートのすそと濡れた金髪を巻き上げる。


「チェシーさん、これ!」

 ニコルは空中に手袋を放り投げた。


 チェシーの腕が青黒く燃えた。めきめきと音を立てて腕が変形する。肘から先がどろりと溶け落ちた。骨が剥き出しになる。

 チェシーは苦悶に唇を噛んだ。溶けた腕が、魔性の青黒い血肉に覆われる。


「さっさと……来い! 俺の片腕をくれてやる!」


 真横に巨岩が落ちた。熱水が飛び散る。衝撃でチェシーはよろめいた。

 水面が激しく乱れる。まるで全身の血が流れ出したかのようだった。青黒く染まっている。

 地鳴りが空気をふるわせる。

 蒸気の向こう側に、悪魔の影がくろぐろと伸びた。ばさりと羽ばたく。


(フフ……愚かな。よりによってこの僕、悪魔中の悪魔、背徳と暴虐の王たる神魔ル・フェを目覚めさせるとは何という愚かな人間ども……)

 空中にあった手袋が、竜巻に吸い寄せられたかのようにいきなり動き出した。

 手袋で作ったうさぎ人形に、小さなコウモリの羽が生える。

 黒いボタンが眼になり、鼻になり、顔になり、続いて小動物めいた手足が突き出した。ほそくとがった矢印のしっぽがちょろりと伸びる。


(ん? 何か見覚えのあるこの……)

 ル・フェはうさぎ手袋の顔をきょろきょろさせた。チェシーを見て、ニコルを見て、ザフエルを見て、それから。

「口上はいいから上見て。上」

 ニコルの指の向く先を見た。


 真っ青になる。


(うわあああなんでまたあの聖呪がやだヤダヤダ死ぬぅう!!!)

 両手を手ぶくろの顔に当て、凹ませながら身悶えする。

(きっきっきっき君らとはもう縁もゆかりも断ち切ったはずじゃなかったのか! なんでこんな死ぬ寸前にび出すんだよう!)

 羽をばたつかせて速攻逃げ出そうとしたところを。

「逃げるな」

 即座にチェシーがしっぽをつかんだ。強引に引き寄せる。

「今すぐ眷属どもを呼び出せ。今すぐだ」

 凄みのある表情をぬいぐるみに寄せて。

 ぴしゃりと命令した。

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