脳筋も悪くない
風圧で法衣のすそがひるがえる。裏地の赤がやけに鮮明だった。
「これ以上の深入りは推奨しない。手を引きたまえ、ゾディアックの皇子」
切り混ぜた手中のカードから光が伸び、身の丈以上もある錫杖に変わった。銀輪が重なり鳴る。
「異端の魔女ごときが。死すべきさだめにそむき、己だけが身の程知らずの幸せをつかもうなど」
石突を強く突き鳴らして、杖を振るう。
「赦されるとでも思っているのか、本当に」
ザフエルの手から続けざまに黒い炎弾が放たれた。赤黒い影が一直線に水面を走る。水柱が白く爆ぜる。
「どうやら、むさ苦しい泥試合は苦手らしいな。案外、脳筋も悪くない」
チェシーは大太刀に地下水をまとわせ、炎を斬り払った。沸騰した蒸気が金属に触れて一瞬で冷え、白い霧にかわってたなびく。
「おかげでやっと諸悪の根源のお出ましだ。待ちくたびれたよ」
にやりと笑う。
「根源……って」
ニコルは別人の口調に変わったザフエルに見入った。
いくら敵対しているとはいえ、先ほどからまったく周りを見ていない。眼を合わそうともしてくれないのだった。それまでの戦い方、痛みに耐えて心を殺す子どものような、自暴自棄の反応とはまったく異なっている。
「いったい、どういうこと……?」
強いて言えば、無関心。
チェシーは濡れて貼りついた前髪を粗暴にぬぐう。
「おそらく、どうあってもホーラダインでは君を殺せないと見て、強引に精神を乗っ取ったんだろうよ」
「乗っ取るって、何を、どうやって……?」
「《
ザフエルの足元を波が洗った。他人事のようだった。
幾重もの波紋が広がる。白い、淡い、無数の同心円が描き出された。呪術めいた指の動きが繊細な印を結ぶ。
突き下ろした錫杖が、床の水を割った。
三角に盛り上がる波しぶきがチェシーを押し流す。
「くそっ、近づけん……!」
水位はすでに膝上に近い。押しては壁に跳ね返って引く流れに翻弄される。立っているだけで精いっぱいだ。
「《
蒸気が地下聖堂に白く充満する。
熱気が蒸気を生み、蒸気が上昇気流を作り出す。
ザフエルはひとしきり笑った。ひずんだ声が反響する。
「笑うな。何がおかしい!」
ニコルは唇を噛んだ。目の前に立っているはずなのに、ザフエルは眼を閉ざしたまま誰の姿も見ていない。それどころか誰の声も聞いていなかった。
「そして、《
言葉を燃やすかのように火弾を撃ち出す。炎の渦が燃える螺旋の柱を作り出した。たかだかと闇を噴き上げる。振り乱した女の髪のようだった。
「まどわされるなよ」
それまでずっと《
「我らが参謀どのは、畏れ多くも第十七代ローゼンクランツ総主教聖下のありがたい《
「さすがだな。自然現象なら何でも遮断できるとは」
チェシーは感嘆の声と同時に波を蹴った。
床に転がったままの投影機に駆け寄り、真っ二つに断ち割る。赤く剥き出しになった銅線が垂れ下がった。切り飛ばす。
火花が飛んだ。
最後の電撃が水面を伝って、水びたしの床全体に広がる。
当のアンドレーエ含め、他の全員が漏電をくらって悲鳴をあげるさなか。
チェシーはすでに空中にあった。瓦礫と鉄くずと薔薇のとげの螺旋階段を駆けあがり、ザフエルめがけて大上段から斬り下ろす。さながら金色の獅子が躍りかかったようだった。
「何度挑んでこようが結果は同じだというのに。なぜあやまちを繰り返す、ゾディアックの皇子よ」
ザフエルもまたすばやくは動けない。だが、かろうじて杖にすがって倒れ込むのを防ぐ。
頭上に手をかざした。手のひらを中心に多重結界が発生する。またたく間に分裂、拡大する。
と見えた瞬間。
「チェシーさん、だめだ、攻撃しちゃだめ……!」
ニコルは叫んでいた。
《
罠だ。
ザフエルの身を護る結界が、ふっと消えた。
「何っ……!」
太刀筋を変えようにも間に合わない。
直下にはくろぐろとした影。無数の光点が水面に乱反射する。地下聖堂全体を覆い尽くすほどの同心円が、つらなる曲線の幾何学文様を無限に描き出した。
むき出しの手のひらが刃を受ける。慈愛に満ちた微笑みがチェシーを見上げていた。
「……同じ攻撃は効かぬと言ったが?」
「この野郎、自爆……!」
光の滝が、朗々たる混声合唱となってチェシーの声を飲み込んだ。瀑布がなだれ落ちる。白煙と熱風とが裏返りめくれ上がって壁に激突した。
「ゃぁぁぁぁぁっ耳が、痛い……頭が割れそう……!」
アンシュベルが悲鳴をあげた。身をよじってニコルにすがりつく。
「声を聞くな!」
アンドレーエが遠くで怒鳴る。
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