【完結】 exile 異端《ウィルド》の血を引く魔女であることを隠すため、性別を偽り男装して聖騎士となったのに付き従う部下は超女ったらし亡命者と無表情にグイグイ迫る黒髪黒瞳の鉄血参謀
何もしなかった今日の続きの、今日よりもっと無力な明日
何もしなかった今日の続きの、今日よりもっと無力な明日
ニコルはとっさに両手でアンシュベルを抱きとめた。頭の上から覆いかぶさって防御結界を張る。
だが、生成した端から剥ぎ取られた。《
闇よりも重たい超高圧の光が落ちる。視界が真っ白に塗り込められた。他の二人はどうなったのかを確かめるいとまもない。
幻影が見えた。熱くもなく冷たくもない、どこまでも平坦な雪原が広がっている。足跡ひとつついていない無人の荒野にただ、ひとり。
誰かがいる。
たぶん、動けないのだった。
道しるべのない新しい雪に足跡をつける勇気も、その場から立ち去る勇気も持てず。完璧なはずの世界を、自分を、失敗という名の泥靴で汚したくなくて。
何もしない。ただ。立ち尽くす。
最初は小さな勘違い。小さな疑念。小さな嘘だった。それがいつの間にか大きな嘘になり、ほんの些細な行き違いすら嫌悪するにまかせた。相手の言葉さえ信じることができなくなり、ついには取り返しのつかない距離にまでお互いが離れてしまった。ひとつひとつは針で刺したほどの微小なかけらでしかないのに、痛みはガラスの毒となって、心臓から全身の血管へと回って。
少しずつ。心をむしばんでゆく。
凝り固まったつまらない自尊心と、弱い自分を認めたくないだけの臆病な片意地。
分かっていて、何もしなかった。寂しくても。苦しくても。もう会えなくても。平気な顔をして、心に蓋をして。何もしなかった今日の続きの、今日よりもっと無力な明日へと流される。
悪いのは自分じゃない。
優しくしてくれない誰かのせい。
だからなぐさめが、忘れさせてくれる存在が必要だった。
何も見なければいい。外で誰かの悲鳴が聞こえても。扉を閉めて。窓を閉じて。鍵をかけて。眼を閉じて。すこしふるえて、耳をふさいで。何も考えず。見えないふり、知らないふり、気づかないふりをして。動かずにじっとしていれば今だけは傷つかない。
ただ運命に身をゆだねて。
波に揺られる木の葉のように。
ゆっくりと。
沈む。
でも。
それで。
本当に——
大切な人を救えるのか?
光が晴れたあと。
立っていたのはザフエルひとりだった。
口元がゆるりと吊り上がる。みだれて覆い被さった黒髪が半分色を失って、火を反射する銀の色に変わっていた。
総主教ローゼンクランツと同じ色に。
「片付いたか。他愛もない」
鷹揚と周囲を見渡す。
爆風で飛ばされたのか。チェシーは壁にもたれ、瓦礫に埋もれて半ば水に沈んでいた。アンドレーエは頭上の薔薇の鎖にだらりとぶら下がったまま動かない。ニコルとアンシュベルは両手を取り合って抱き合い、聖女像の台座の下に倒れていた。
波がほのかに青く揺れる。
「虚無の魔女に関われば皆、死ぬ。《虚無》こそがすべての元凶だ。そのようなものを世に放ってはならぬのだよ。神の力が及ばぬ存在など、あってはならない」
水をかき分けて前へと進む。ザフエルの手には銀のナイフが握られていた。切先がわずかにふるえる。
「さあ、ザフエル、我が息子よ。その手で虚無の魔女を殺せ。奪われた神の恩寵を取り戻すのだ。心臓をえぐり、喉を掻き切り、栄光の左手をかかげて薔薇の血を
ほんのわずか、口元がひきつれた形にゆがむ。饒舌な声と、無言の間で二つの意思がぶつかり合ってでもいるかのようだった。
そのまま近づいて、ニコルの頭上に立つ。
足でアンシュベルを蹴り除ける。表情とは裏腹に、左腕だけが糸で吊ったように振り上げられた。恐ろしい力がこもる。
一方の右手が別の何かを探して自分の胸元を探った。爪を立て、ボタンを引きちぎる。内ポケットの中の、心臓の位置にあるものを強く握りつぶす。
「……」
ナイフの刃が白く反射する。鏡面のように磨き上げられた刀身に、したたる喜悦の笑みが映り込んだ。
反対側から見えるザフエルの表情は変わらない。麻痺した無表情のまま、ニコルめがけてナイフを突き立てる。
「やっぱりね。さすがはザフエルさんだ」
くすっと低く笑う声がした。水が強く跳ねる。足元に打ち寄せる波が海ほたるの色に染まった。
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