何もしなかった今日の続きの、今日よりもっと無力な明日

 ニコルはとっさに両手でアンシュベルを抱きとめた。頭の上から覆いかぶさって防御結界を張る。

 だが、生成した端から剥ぎ取られた。《先制エフワズ》の魔法耐性だけでは精神攻撃を防ぎきれない。ガラスの割れ砕ける音が響き渡る。重力が肩と首にのしかかった。動けない。重い。息ができない。心が折れる。

 闇よりも重たい超高圧の光が落ちる。視界が真っ白に塗り込められた。他の二人はどうなったのかを確かめるいとまもない。

 幻影が見えた。熱くもなく冷たくもない、どこまでも平坦な雪原が広がっている。足跡ひとつついていない無人の荒野にただ、ひとり。

 誰かがいる。

 たぶん、動けないのだった。

 道しるべのない新しい雪に足跡をつける勇気も、その場から立ち去る勇気も持てず。完璧なはずの世界を、自分を、失敗という名の泥靴で汚したくなくて。

 何もしない。ただ。立ち尽くす。


 最初は小さな勘違い。小さな疑念。小さな嘘だった。それがいつの間にか大きな嘘になり、ほんの些細な行き違いすら嫌悪するにまかせた。相手の言葉さえ信じることができなくなり、ついには取り返しのつかない距離にまでお互いが離れてしまった。ひとつひとつは針で刺したほどの微小なかけらでしかないのに、痛みはガラスの毒となって、心臓から全身の血管へと回って。

 少しずつ。心をむしばんでゆく。

 凝り固まったつまらない自尊心と、弱い自分を認めたくないだけの臆病な片意地。

 分かっていて、何もしなかった。寂しくても。苦しくても。もう会えなくても。平気な顔をして、心に蓋をして。何もしなかった今日の続きの、今日よりもっと無力な明日へと流される。

 悪いのは自分じゃない。

 優しくしてくれない誰かのせい。

 だからなぐさめが、忘れさせてくれる存在が必要だった。

 何も見なければいい。外で誰かの悲鳴が聞こえても。扉を閉めて。窓を閉じて。鍵をかけて。眼を閉じて。すこしふるえて、耳をふさいで。何も考えず。見えないふり、知らないふり、気づかないふりをして。動かずにじっとしていれば今だけは傷つかない。

 ただ運命に身をゆだねて。

 波に揺られる木の葉のように。

 ゆっくりと。


 沈む。


 でも。

 それで。

 本当に——


 


 光が晴れたあと。

 立っていたのはザフエルひとりだった。

 口元がゆるりと吊り上がる。みだれて覆い被さった黒髪が半分色を失って、火を反射する銀の色に変わっていた。

 総主教ローゼンクランツと同じ色に。

「片付いたか。他愛もない」

 鷹揚と周囲を見渡す。


 爆風で飛ばされたのか。チェシーは壁にもたれ、瓦礫に埋もれて半ば水に沈んでいた。アンドレーエは頭上の薔薇の鎖にだらりとぶら下がったまま動かない。ニコルとアンシュベルは両手を取り合って抱き合い、聖女像の台座の下に倒れていた。

 波がほのかに青く揺れる。


「虚無の魔女に関われば皆、死ぬ。《虚無》こそがすべての元凶だ。そのようなものを世に放ってはならぬのだよ。神の力が及ばぬ存在など、あってはならない」

 水をかき分けて前へと進む。ザフエルの手には銀のナイフが握られていた。切先がわずかにふるえる。


「さあ、ザフエル、我が息子よ。その手で虚無の魔女を殺せ。奪われた神の恩寵を取り戻すのだ。心臓をえぐり、喉を掻き切り、栄光の左手をかかげて薔薇の血を逆杯さかづきに受けよ。そして。その女さえいなければ、もはや恐れるものは何もない」


 ほんのわずか、口元がひきつれた形にゆがむ。饒舌な声と、無言の間で二つの意思がぶつかり合ってでもいるかのようだった。

 そのまま近づいて、ニコルの頭上に立つ。


 足でアンシュベルを蹴り除ける。表情とは裏腹に、左腕だけが糸で吊ったように振り上げられた。恐ろしい力がこもる。

 一方の右手が別の何かを探して自分の胸元を探った。爪を立て、ボタンを引きちぎる。内ポケットの中の、心臓の位置にあるものを強く握りつぶす。

「……」

 ナイフの刃が白く反射する。鏡面のように磨き上げられた刀身に、したたる喜悦の笑みが映り込んだ。

 反対側から見えるザフエルの表情は変わらない。麻痺した無表情のまま、ニコルめがけてナイフを突き立てる。


「やっぱりね。さすがはザフエルさんだ」

 くすっと低く笑う声がした。水が強く跳ねる。足元に打ち寄せる波が海ほたるの色に染まった。

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