貴女の代わりに、すべての罪を私が犯す

「積もる話は後にして、今は早く逃げるですよ師団長」

 アンシュベルが、半分笑い、半分涙混じりにせかす。


 記憶にある、おしゃまな仕草でくるくる変わる表情、いつも笑ってばかりの元気いっぱいなメイド服姿とはまるで違う——汚れ、くたびれてすり切れたエプロンに、穴の開いた長靴下。

 遙か極北の地ベルゼアスからツアゼルホーヘンまでは、どれだけ急ぎの馬車を走らせてもゆうに半月はかかっただろう。

 それほどの距離を、いったいどんな思いを胸に秘めて駆け戻ってきたのか。


 引き裂かれた花嫁衣装の裾を引きずる。ニコルは首を振った。

「だめだ、歩けない」

「あきらめちゃだめですっ」

「無……」

「無理って言うから無理なんです。そんなめそめそする師団長なんて全然師団長らしくないですっ」

 アンシュベルは両手をぎゅっと固めた。何度も首を横に振る。

「第五師団では師団長の命令は絶対です。絶対って言ったら絶対なんですっ! 絶対に戻ってくるって、ノーラスに、あたしたちのところに絶対帰ってきてくれるって約束したじゃないですか。最高司令官たるもの、一度くだした命令は絶対にひるがえさないようにしてもらわないと……えうっ……ひっく……」

 アンシュベルの眼に、みるみる涙の粒がふくらんだ。

「ぐすっ……だめなんです……!」

「呑気にくっちゃべってる場合か」

 闇から唐突に手だけが伸びた。ぐいと腕を取られる。アンドレーエの声が耳元で怒鳴った。

「ずらかるぞ。来い、アーテュラス」


「そこの二人。脱出するなら、上ではなく下向きに穴を掘った方がよろしいかと」

 ザフエルが口を挟んだ。

 アンドレーエはつんのめった。疑わしげな目つきで振り返る。

「なぬ? まさか脱出用の抜け穴がこの下に」

「墓穴を掘る手間が省けます」

「なるほど、そりゃあ助か……ふざけんなーッッ!!」


「そう急くな。まだ取りの演目が残っている」

 チェシーは下唇をしめらせた。肉食獣めいた形に口の端に吊り上げる。隻眼に獰猛な光がきらめいた。

「あんたにも最高の見せ場を用意してやった。華々しく散る、一世一代のをな」


「おい。調子に乗って、うぇいうぇい煽るんじゃねえよ」

 アンドレーエが物陰からひそひそと《静寂イーサ》の遠話を投げてよこした。

「この様子だとアーテュラスは援護のアテにもなんねえ。どうすんだよ、こっから先。勝算あんのか」

「ない」

「ですよね! そんな予感してました!」

「気に入らないから殴りに来た。それだけだ。悪いか」

 チェシーは堂々と開き直る。


 ザフエルは数歩戻って、銀の杖を拾い上げた。

「最悪の結末をもたらしたのは貴様自身だ。貴様さえノーラスに現れなければ、閣下の御心が揺らぐこともなかった。虚無に飲まれることも、死の連環に取り込まれることも」

 白大理石を削り出したかのような、つめたく整った無表情で振り返る。

「最初から、目障りだった。貴様の存在そのものが」


 チェシーは肩をすくめた。鼻で笑う。

「そいつは光栄だ。もしあんたが本当にニコルを救うつもりだったのなら、俺は自分が犯したすべてのあやまちを——友を裏切り、仲間を見殺しにし、ノーラスを滅ぼした——罪をつぐなって去るつもりだった。が、そんな殊勝な心持ちはつい今しがた、きれいさっぱり消え失せたよ」

 眼の奥に猛々しい光が灯る。

 ザフエルは興味なさげに視線をそらした。爆風で乱れた黒髪を撫でつける。はだけた法衣のしわを、潔癖な指使いでひとつひとつ几帳面にのばす。

「前口上が長い。さっさと始めましょう」

 手にした銀杖が紫電をまとう。

 足元の影がほどけたように伸びて、壁と床の境目で奇怪な形に折れ曲がった。

 影から漏れた黒い冷気がたなびく。伏せた顔が濃い陰影に隠れた。


「来るぜ」

 アンドレーエが奥歯をぎりっと鳴らした。笑みが荒っぽく引きつる。

「アンシュベル、マジで余計なことすんなよ。脳みそが蒸発すんぞ」

「ひぃぃ、本気と書いてマジと読むの顔ですぅ……鬼やばいやつですぅ……」


「ルーンとは」

 ゆるやかに眼をほそめ、ザフエルは歩き出した。ただニコルだけを見つめて、一歩、また、一歩と距離をせばめる。

 踏みしめるその足元で、薔薇のとげのささくれる影絵が踊った。

 鈍色の切片が細かく散る。


「この世に遣わされた神の福音。光の中の光にして、闇の中の闇。薔薇の血の前では、人の血の濁りなどヘドロの沼に等しい」

 足を踏み出すたび、鉄の薔薇がうごめき、伸び、枝分かれし、狂い咲く花を濃密に匂わせてザフエルにからみつく。赤錆の花粉が吹き出す。


 チェシーは風切りの音を舞わせて大太刀を横に払った。不敵な笑みが刀身に反射する。

「いいねえ、その殺気。相変わらずイってやがる。背筋がゾクゾクするよ」


 肘を曲げて頭上に構え、刃先を背後に倒す。

 右手には、紺青の星を散り敷く《天空のティワズ》、左手に《栄光のティワズ》。装備した双子のルーンを発動させる。

 大太刀が空振のうなりを上げた。足元の小石が吸い寄せられ、土ぼこりの渦を描く。


「ルーンが……」

 ニコルは眼をみはった。

 《虚無》に力を吸い取られ、無効化していたルーンの加護が復活している。見れば、アンドレーエの腕にあるルーンもまた、見慣れた深緑色だった。ゆるやかに息づいている。

「あれ? 《静寂イーサ》も元に戻ってる。何で」

「にぶいな。今ごろ気づいたのか」

 アンドレーエは団子っ鼻をこすり上げた。にやっとする。

「《虚無ウィルド》の効果が薄れてるっつーことはつまり、お前が《虚無》に乗っ取られた状態を脱したってえ意味だろうがよ」

「ほあっ?!」

「感心してる場合か。千載一遇の好機なんだよ、今、この瞬間こそが」

「へえ……」

 ニコルは思わず感嘆の息をついた。これなら、遠く離れていながら覚醒の契機が察知できたのもうなずける。


「すごい。さすがアンドレーエさん。何の考えもなしにいきなり押し入ってきたわけじゃないんですね。ということは……」

「そんなアホみたいな真似、誰がすっかよ。無謀なのは俺以外の全員だけだ。どいつもこいつも頭のネジが百本以上もぶっ飛んでやがる」

 アンドレーエは声を立てて笑った。親指を立てて、チェシーとザフエルを示す。


「最初から、こうすれば良かったのです」

 ザフエルは杖を振り、先端の握りをねじった。差込をはずす。

 かちり、と。理性のタガの外れる音がした。

 仕込みのサーベルを、貴族的な所作で抜き払う。杖を投げ捨て、《破壊ハガラズ》を柄に嵌め込む。

 黒い翳が、にじむように手元を覆った。


「薔薇の血を、運命を、ただ、ただ、ねたんで。貴女を失うまい、貴女を奪われるまい、とそれだけを望んで。遠ざかってゆく貴女を恨んだ」


 感情を垣間見せることも、想いを馳せることすら忌避してきた黒い瞳が。

 ニコルを見つめる。

「例え死に等しい絶望が待ち受けていようとも。永遠の苦悶が我が身をさいなもうとも——それが、神の定め給いし運命であるならば」


 どこからともなく聖なる旋律が聞こえてくる。

「その、罰を」

 心狂わせるみだらな誘いの響きが、高く、低く。

 さながら戦場に打ち棄てられた死体の埋み火のように、群がる烏のように、すべてを焼き尽くす殲滅の劫火のように。

「その狂気を、我が身に宿し」


 幾重にも重なり、互いを呑み込み。

 耳を聾する不協和音となって、地面を乱打する轟音が響き渡る。


 チェシーは眼の奥の薄笑いを消した。ブーツの裏側が削れた砂利の音を立てる。

 喉仏がごくりと上下した。口元だけが悠然として変わらない。

 星降る火花のきらめきが刀身に青く映り込んだ。刃の触れたところから、希薄な白い霧が裂けて分かたれてゆく。


 ザフエルの掌を中心に、暗黒の光が巨大な球となってふくれあがった。

「貴女の代わりに、すべての罪を私が犯す」

 禁断の血に汚れた手を振り払う。

 黒光りする金属的な衝撃波が、球形の力場の表面を走った。内部にうごめく影が、実体のある重みとなって破裂寸前の圧力を増す。


「薔薇十字への永遠の忠誠の証として、貴様ら全員の魂をルーンに捧げる。白き薔薇を贖罪の紅に染めて、神の前に魂の純潔を証明するがいい」

 伏せていた顔をあげる。満ち足りた笑みがそこにあった。

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