今までに頂戴したありがたいご講説の数々は、つつしんでゴミ箱に叩っ込んでやろう

 目もくらむ放電と闇。

 死神さながらに破れた黒いコートの裾が、逆光と爆風に大きくひるがえった。

 直後、暗転。


 ニコルは呆然と立ちつくした。長期の監禁で萎えた膝ががくがくと笑っている。抱き取られていなければ、くずおれてしまいそうだった。


「どうして」

 かろうじて、喉の奥の声をふるわせる。

 うそぶくささやきが答えた。

「君を連れて逃げるためさ」

 強すぎる光に背後から照らされて、笑う口元以外の表情はよく見えない。


 まるで。

 いつかの青い月夜のようだった。

 慣れない女装とヒールにふらつき、下手なダンスを笑われ、陰口を叩かれ意地悪をされて。不恰好にも転びかけたところへ。

 かつて敵だった男は、ためらいもなく手を差しのべて。

 他には誰もいないふたりっきりの星空の下へと連れ出してくれた。

 噴水の泉が映す月影と、水音と。

 やわらかな夜風が吹き抜ける、ありのままの自分でいられる自由の空の下へと。


 色も、猛々しい雰囲気も。そのときとは全く違う。漆黒と瑠璃色のうす汚れた敵国の軍装。うなじでひとくくりにした金色の髪。

 この期に及んでまだ正体を隠すつもりなのか。義賊の仮面みたいな、片眼だけを覆う黒い帯を斜めに結び、長く余らせた端きれをひょうひょうとなびかせている。


 聖域内に決して存在してはならない、異端の侵入者。


「見たところなんとか大丈夫そうだな。……と言いたいところだが」

 口の端がなおいっそう皮肉に吊り上がる。ぶしつけな視線が上下した。


「それはもしや花嫁衣装か? うむ、まあ、君が着るには少々エっ……大人びていすぎるんじゃないか? 俺としては以前、夜会でレイディ・ニコラが着ていた、見た目に反してやたらと脱がしやすい清純派ドレスのほうがよほど」

「チェシーさん」

 この状況下で、平然とへらず口を叩く神経がわからない。ニコルは愕然とした。言い返す。


「こんなところで何してるんです。なんで放っておいてくれないんです。どうして、こんなところにまで来てわざわざ……あんなひどいことをしたのに。なんで、どうして!」


 チェシーは親指を立て、ニヤリとした。ぐいと横に引く。

「だいぶん気がしっかりしてきたようだな。そんな顔じゃあ、せっかくの貸し衣装が台無しだぞ。目くらましが効いてるうちに、とっとと退散だ」

「無理……」

「心配には及ばない。花嫁強奪こそ男の浪漫」

「だめ、手を離して」

 ニコルはかぶりを振った。身体の半分がまだつめたく重い鉛にひたっているかのようだった。白い息がたちのぼる。

「いくらチェシーさんでも今のザフエルさんには敵わない」

「あぁ? まだそんなこと言ってるのか」

 チェシーは憎々しく鼻で笑い飛ばした。ぞんざいにあごをしゃくる。

「誰があんな往生際の悪いヤンデレ性職者ごときに遅れをとるものか。好きな女ひとり守れもしない男になど」

「そうじゃない。どこに逃げたって無駄なんだ。もし《虚無》がまた覚醒したら今度こそチェシーさんやみんなを、僕が……また……!」

 ともすればあきらめようとする思いが、救いの手にあらがう。

 なのに、口をついて出る言葉に反して、自分の手が、想いが、チェシーの手を必死につかんで離さない。

「この期に及んで、嫌よ嫌よも好きのうちってか。やれやれ。相変わらず面倒くさいな君は」


 破壊された星空の投影機は、衝撃で引きちぎられた電線を床に引きずったまま、斜めにかしいで転がっていた。いまだに放電が収まらない。青白い火花と同時に、断末魔の悲鳴じみた光をまき散らしている。

 向こう側は煙がかってほとんど見えない。苦く焦げた臭いがただよう。


 心臓が、ぐっ、と掴まれたように収縮した。早まってゆく。


など、放棄すればよかった。君は、自分の幸せを、平穏を、身の安泰だけを考えていてくれればよかった。君が幸せになれるなら、たとえ国が滅びようと誰も君を責めたりはしなかった」


 チェシーの冷徹な視線が、煙の彼方を見すえる。

 肉眼では見えなくとも、巨石が迫り来るのにも似た轟音の幻聴と重圧がみなぎってゆく。


「なのに君ときたら、自己犠牲がいちばん手っ取り早い解決だと考えてしまった。馬鹿にも程がある。かくいう俺も、映えある馬鹿軍団の筆頭であるわけだが」

 チェシーは、ニコルを抱く腕をゆるめた。


「逃れられない宿命なんて存在しない」


 間延びした天球図が、床にぼんやりと映し出された。

 極北の星が従える黄道帯の天球図。もはや、星座の形を成していない。にじんだ光の霞を、星くずの火花が横切った。いくすじもの流星となって伝い落ちる。

 割れた光芒の指先が、一筆書きめいた動きで頭上をなぞった。

 くずれた天井、ひび割れた壁、折れた梁、先のない階段。

 上へ、上へと伸びる闇は、果てなき宇宙のようでも、底しれぬ深海のようでもあった。その行く先はついぞ見えない。


「この地下聖堂へ下ってくる通路は一本のみ。どうやら、あなた方は騒ぎを起こすのに夢中で、唯一の逃走経路を自らの手でつぶしてしまったようですな」


 煙の向こうから、感情の欠けた声がひびく。

 アンシュベルがぐるんとロール髪を揺らしてアンドレーエを振り返った。

「はうあっ!? アンドレさん、なんということをやらかしてくれちゃってるですかぁっ!」

「犯人はお前だが」

「ふえっ!? いっ、いつの間にっ?」

「凶悪犯の自覚が足りねえぞ……」


「最初から結末ゴールの見えてる道なんてつまらんよ」

 チェシーは腰に手を当て、冷ややかにいなす。


 巨大な騎士像が、もやを透かして浮かび上がった。

 台座のたもとに、人影が立ちつくす。

 まるで壁面に映し出された相似の影のようだった。

 爆発の衝撃で、騎士像の胸から上に深いひび割れが生じている。伸ばした手は肩ごと欠落。手首から先だけが残っていた。

 聖女像の心臓をつらぬく剣を握った手だけが。


 帯電の光がもやを照らした。浮かんでは消え、巡り、経巡り、ゆらめき墜ちてゆく暗い影。つめたく滅びた石の匂い。


 チェシーはひくい吐息をついた。大太刀を抜き滑らせる。鋼の刃が血気をはらんで鳴った。


「聖女を護るのが、守護騎士の誓いではなかったのか」

 大太刀を水平にかざす。切先がザフエルの喉元を狙いすました。ザフエルの顔色は変わらない。


「死こそ、永遠の愛。それが薔薇十字ローゼンクロイツの教え」

「くそったれが」

 チェシーは顔をそむけた。口汚く吐き捨てる。ザフエルはわずかにあごをそらした。見下げた眼差しをくれる。

「裏切り者に説教されるとは思いませんでしたな」

「今までに頂戴したありがたいご講説の数々は、つつしんでゴミ箱に叩っ込んでやろう」

 チェシーはニコルを背後へと押しやった。視線をザフエルに固定したまま、振り返りもしない。

「アンドレーエ、ニコルを頼む」

「はいですっ」

 すかさずアンシュベルが駆け寄った。

「師団長、こっちへ」

 アンシュベルが手を引っ張る。ニコルはよろめき、足を引きずって下がった。

「誤解しないで。僕が……ザフエルさんに頼んだんだ……」


「君さえ」

 チェシーは振り返らなかった。ザフエルだけを睨みつける。肩が怒りでゆらめいているように見えた。

「無事でいてくれるなら。もう二度と逢えなくてもいいと——本当は、そう思ってさえいた」

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