「貴方さえ、現れなければ」「貴方さえ、邪魔しなければ」「貴方さえ、閣下に真実を教えたりしなければ」

 漆黒の刃がうっすらと白く霜におおわれた。吸いつけられた氷塵がきらめく。

 青白い燐光がたなびき。

 霧となって渦を引く。


「《虚無ウィルド》の守護騎士フラターたる真の聖騎士の名において、にのみ仕える守護のさだめを、高貴なる義務を、今こそ」


 ザフエルの眼は、うとましい現実など何ひとつ見てはいなかった。漆黒の瞳の深淵から、宿るはずのない《叡智アンサズ》の輝ける白い十字がにじみ出る。


 すべてをつかさどる神の知恵ソフィア

 すべてを教え、導く神の言葉ロゴス

 あまりにもきよらかで美しいがゆえに、何の思索も働かせることなく諾々として受け入れ、わずかに浮かんだ疑惑すら洗い流す──薔薇十字ローゼンクロイツの支配と狂信の光が。


 ザフエルの声ではあっても、どこか他人事に聞こえた。あたかも別人がザフエルの口を通して語りかけているかのように。


「救済だと」

 チェシーは眼を見開いた。あらがおうとして、がくりと膝を落とす。

 腕を伝い、軍衣の裾を伝って、足下に点々と青黒い血が散る。顔が苦痛にゆがんだ。

「いったい、何を言ってるんだあんたは」

「神の御前に己が身の潔白と忠誠を」

 ザフエルの指先が聖なる印を結んだ。


 まとわりつく羽虫を祓い退けるにも似た所作。朗々と奏でられる聖呪が、きらめきとなってサーベルを取り巻く。


「やべえ。敵味方関係なしかよ」

 アンドレーエは剣に巻きつけていた鞭をゆるめた。軽く振るう。鋼剣鞭ウルミは、ぜんまいが戻る音を立てて元の鞘に収納された。

 反動でチェシーの足がふらついた。

 破れた黒翼が、煙をかき分けてばたついた。風にあおられ、裏返る。今にもちぎれそうだ。


 視界が染み入る純白に変わった。

 悪魔の影が、くろぐろと地面に引きのばされてゆく。


 アンシュベルが何かを叫んでいた。聞きとれない。

「全員、眼ぇつむれ! 茹だるぞ!」

 声のする方向へ突っ走る。

 すれ違いざまにアンシュベルを引っ抱え、瓦礫の陰へ頭から転がり込んだ。少しでも調伏と浄化の粛清を浴びぬように、陥没した穴に身を伏せる。


「貴方さえいなければ」

 チェシーの背中を、ザフエルのサーベルが襲った。

 刃鳴りが煙を断ち割る。衝撃で大太刀がもぎ取られた。地面に跳ねる。


「貴様がニコルを見捨てさえしなければ!」

 チェシーは返す刀が降ってくる前に身をひねり、取り落とした剣へと走り寄った。

 膝を落として滑り込みざまに拾いあげる。


「こんなことにはならなかった」

「こんなことはせずに済んだ!」


 追撃の斬突が連続で攻める。

 チェシーは立ち上がれない。そのままの場所で片膝をついたまま切り結んだ。白閃がめまぐるしく斜めに交差する。つばめがえしの残像が縦横無尽の火花を散らす。

 刃が噛み合った。押し込まれる。足下の石畳が砕けた。


「貴方に閣下の何が分かるというのです」

「貴様にあいつの何が分かる!」


 剣戟の残響が高く鳴り渡る。

 チェシーはザフエルの剣を膂力で跳ね返した。即座に立ち上がる。

 右から斬ってつばぜり合う。左から押して跳ねあげる。互いに決して退けぬ攻防が続く。ぎりりと噛み合い、受け流す刃から、火花が流れ星となってせせりこぼれた。

 息つく間もない。土煙がたなびく。

 ザフエルの黒い瞳に、感情とも激情ともつかぬ光が色をなして映り込んだ。


「私は、ただ、取り戻したかった。閣下を」

「あいつを、じゃない。取り戻したかったんだろう、あいつから!」


 チェシーは、瀕死の息を吐いた。

 ザフエルの攻撃を弾くたび、背中の傷から青黒い魔性の血が噴き出す。まともに戦える状態ではないのは、傍目にも明らかだった。


「あいつが何者なのか、本当は知っていたんだろう。知っていて、知らぬふりをして、あいつの力を、虚無ウィルドだか何だか知らんあの力を奪おうとした。貴様がアルトゥシーで俺たちを見捨てたときのように、。違うか!」


「笑止」


 ぎりぎりと刃こぼれさせながらも、十文字にしのぎを削る。


 サーベルの切先が、ふっと下がった。

 重量感に勝るチェシーの剣の下を、ザフエルは滑るようにかいくぐる。

 懐深く踏み込んだ。漆黒の柄頭でチェシーの顔面めがけて、打突の一撃を突き入れる。


 チェシーはのけぞってよろめいた。致命傷寸前で手のひらをかざし、防御する。

 防戦一方だった。たまらず大太刀に風をまとわせる。真空が風を生み、剣に収斂した。星空の色の光がルーンからこぼれる。

 だが、その光は虚しく消えた。大太刀に装備していた《天空のティワズ》と《栄光のティワズ》、双子のルーンのどちらもが色を失った。濁ってゆく。急速に力がしぼんだ。


「どうなってるんだ。何で反応しない!」

「愚かな」


 ザフエルはサーベルを引いた。構え直す。

 腕に嵌めた《破壊ハガラズ》が、不穏にゆらめく。


 地面が振動する。風が喨々たる聖歌を歌った。光闇相打つ悲劇の曲を奏でる。

 ザフエルはふと、哀憐の仕草で手を差し伸べた。チェシーの大太刀を指し示す。


放逐ほうちくせよ」

 ぐいと掌を返し、ひねる。《破壊ハガラズ》が黒い閃光を放った。


 大太刀が、根元から砕けて折れ飛んだ。内部に仕込んでいた《零式れいしき》のカードが、一瞬で塵と化す。灰が風にまき散らされた。


 彼我の力差を見せつけられる。チェシーは愕然と眼を押し開いた。

 乾いた音を立てて、折れた刀身が石畳に転がってゆく。

 ザフエルは無表情にチェシーを見やった。


「今のは、何、何が起こったです……?」


 物陰に身を潜め、戦いの行方を見守っていたアンシュベルがぽかんと口を開けた。いつの間にか隣にアルトゥーリとレディ・ブランウェンもいる。

 最強同士の一騎討ちを目の当たりにして、全員が固唾を呑んでいた。


「あれが《破壊ハガラズ》の力だ。俺もこの眼で見るのは初めてだが……いや、やっぱりおかしい」

 答えるアンドレーエも同様だった。やにわには信じがたい光景だった。

 《破壊のハガラズ》。

 アンドレーエの《静寂のイーサ》が不可視の異能を有し、ニコルの《封殺のナウシズ》が魔召喚を無効化するのと同様に。

 ザフエルが保有する《破壊のハガラズ》もまた、固有の力を持つ。


 自らの前に立ちはだかり、害を成す意をもって振るわれる《カード》を強制的に排除する。

 断罪と放逐の異能力。


「……何で、奴の《破壊ハガラズ》だけが《虚無ウィルド》の影響を受けない?」


 漆黒の瞳が、無慈悲にチェシーを見つめた。


「貴方さえ、現れなければ」

 滅びゆくものへの追憶も、憐憫も。

「貴方さえ、邪魔しなければ」

 嫌悪の念すら、その瞳にはない。

 天啓のごとき一瞬の閃光が、陰影にいろどられたザフエルの半身をまざまざと照らし出した。


「貴方さえ、閣下に真実を教えたりしなければ」


 足下に濃くわだかまる罪の影。


 ──‡ 悔い改めぬ者に神の怒りを ‡──


 光が放たれた。

 すべてを灼き尽くす輻射光があふれ出す。


 ──‡ 開け、《天国の門ガルテ・カエリス》! ‡──


 のような光芒が、天から地へ一直線になだれおちた。

 絶対の讃美を歌う無数の合唱。響き渡る調和の音色。燦爛さんらんたる白金のきらめきが大地に突き立つ。


 石畳が同心円状にめくれ上がり、浮き上がった。

 相反する光の圧力に爆散する。周辺に残っていた魔物や鉄のいばらの切れ端もまた、瞬時に蒸発。


「決して叶うことのない希望ゆめを見ずに済んだのに」


 浄化の白い十字光が、チェシーの姿を完全に埋め尽くす。

 一拍遅れて、爆風が吹き抜けた。

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