「……てめえだけは絶対に許せねえんだよ」


 がらり、また、がらりと。

 もろくなった瓦礫がくずれて落ちる。

「貴方に、閣下は渡さない」

 土煙が舞い立った。視界を薄暗く覆う。

 ザフエルは、立ちこめる煙の彼方を見つめた。


 呼んでいる。

 同じルーンの血が、共鳴を始める。


 ザフエルは呼ばれるがままに踵を返した。

 大きく割れた石畳の横を通り過ぎる。黒衣が突起に引っかかった。糸を引いてほつれる。

 それでも顔色ひとつ変えない。歩みも止めない。

 襟元に手をやり、破り捨てる。戦塵で汚れた黒衣が風に舞った。


 下からあらわれたのは純白の法衣だった。

 精緻なローゼンクロイツの紋章を赤く胸元に染め抜いた、聖職者の礼装。紅と黒と金の紐を腰に結び、薔薇の装飾に彩られた聖帯を肩にかけ、墨染めのストールを風になびかせる。

 ティセニア軍が用いる美しい海の色だけが存在しない。


 がらり、と。

 また、何かが転がり落ちる。

 うめき声が聞こえた。ザフエルは気にもとめない。鉄の薔薇に呑み込まれた宮殿めがけて歩き続ける。

 後ろ姿が、いばらの森に消えた。



 瓦礫の下で目が覚めた。完全に埋もれている。


「げほっ、ほっ……!」

 どれぐらい意識を失っていたのだろうか。アンドレーエはうつ伏せ状態から怒りにまかせて跳ね起きた。

「ホーラダインの野郎少しは手加減しろってん……いってぇ、クソったれ!」

 身体のあちらこちらがズキズキ痛む。頭に乗っかっていた瓦礫が、ごとんと音を立てて地面に落ちた。


 目の前に乱れた金髪が広がっている。


 身体の下で、気を失ったアンシュベルが倒れていた。

 頰が青白い。びくりとも動かなかった。

「おい……?」

 あわてて揺すぶろうとして、くにゃくにゃと柔らかいところを全力でつかんでしまい、泡を食って手を引っ込める。どうやら、降ってくる瓦礫から身を挺してかばったつもりが、そのまま一緒くたに埋もれてしまったらしかった。


「しっかりしろ」

 手袋をくわえて脱ぎ、口元に指先をそろえて当てる。ゆるやかな吐息を感じた。大丈夫だ。

「う、うーん」

 桜色のくちびるが震えた。

「アンドレさん……?」

「気が付いたか、よかった」

 アンドレーエは安堵の息をついた。思わず笑顔になる。

 アンシュベルはまつげをふるわせた。視線の定まらない青い眼が、ぼんやりと宙を泳ぐ。

「ああん、やさしくして……うぅん……」

 アンドレーエは硬直した。

 アンシュベルは眼を閉じ、くちびるを何とはなしに物欲しげな様子で半開きにさせつつ、うっとりと身を任せようとする。

「な、な、何言って……!」

「あれま」

 アンシュベルはひょこんと身体を起こした。

 眼をぱちくりとさせる。

「あわよくばちゃっかり玉の輿と思ったのに。違ったですか。ちぇっ」

「怖っ!」


 そこで、声が喉に引っかかって止まった。

 ふと横を見れば地面がない。

 おそろしく巨大な丸い陥没穴が、切り取ったようにぽっかりと開いている。

 地面を半球形にえぐった形。

 漆黒の岩石、いくすじもの金鉱脈が描くまだらの縞模様、それぞれ色の違う斜断層があらわになっている。


(やれやれ、悪魔の顔もまでだ)


 陥没穴の底で、何かが動いた。

 唇に人差し指を立てて、アンシュベルに目配せする。

 身を低くしたまま、穴の縁に這い寄った。見下ろす。

 岩肌の石が剥落した。

 生きているものの気配はない。

 からり、と、また。

 穴の縁から、あまりに軽い音を立てて小石が転がり落ちる。


 どこからともなく、ひねた声でちいさく笑う声が聞こえた。

(やあ、アンシュベル。元気だったかい? でもさよならだ)

 青黒い光の玉が視界を横切った。

「悪魔さん?」

 アンシュベルはびくりと肩を震わせた。ル・フェの声だ。奇妙に遠い。


「どこにいるです? なんで、さよならって……」

「気をつけろ。油断させておいて、襲ってくる気かもしれねえぞ」

 アンドレーエは四方に目を配る。

(やれやれ、疑り深いね。これだから人間ってやつは)

 声はどこか楽しそうに笑ったあと、ふいにかすれた。

(紋章の悪魔ともあろうこの僕が、これしきの光でくたばっ)


「悪魔さん」

 アンシュベルは穴の縁へと駆け寄った。黒いぬいぐるみの姿を探して崖の端を掴み、今にも飛び降りんばかりの勢いで身を乗り出す。

「悪魔さん、どこにいるです。返事してくださいです」

 穴の底に向かって叫ぶ。

 声が反響した。


(千の魂を持つ悪魔が……死ぬわけないんだ……ちょっと……)

 自嘲気味の嗤い声が、吹き消される寸前の火のようにゆらいだ。遠ざかってゆく。

(眠いだけさ)

 ふっと消える。


 唐突に穴の底が持ち上がった。瓦礫が崩れ落ちる。

 腕が突き出した。

 続いて土に汚れた金髪、ぼろぼろの軍衣が現れる。


「くそっ、相変わらず本気で殺しに来やがる」

 墓場にも似た地面の下から、チェシーが亡者のごとく這い出してきた。

「准将さん」

 アンシュベルは、握った手を口元に吸い当てた。

 ぼろ切れの様相だった。引きちぎられ、焼けこげた軍衣は、もはや原形をとどめてすらいない。チェシーは声に反応して顔を上げた。隻眼と目が合う。

「ああ、お前らか。無事で何よりだ。他の連中は」

 咳き込み、ふらつく。


 眼がかすんでよく見えないのか。濡れた前髪をかき上げようとする。血がしたたった。

 赤い。

 チェシーは呆然と自分の手のひらを見つめた。

 異形の腕がない。人間の手だった。

 信じられないといった様子で裏返し、すかし見て、やおら顔を上げて周りを見回す。

「馬鹿な。どうなってる」


 軍衣の袖をたくし上げる。腕に宿していたはずの悪魔の紋章が、唐突な光を放って剥がれた。宙に消える。

 代わりに、澄んだ音を立てて、ルーンが三つ。連続して地面に転がった。金砂を散りまぶした深い青のルーンがまたたく。

「どこだ、ル・フェ。戻ってこい!」

 チェシーは虚空を振り仰いだ。消えた悪魔の気配を探す。


 落ちたルーンのうち、ひとつはよわよわしい氷の微光をまとっていた。《封殺のナウシズ》だった。


 アンドレーエは声もなくアンシュベルの手を取った。有無を言わさず背後へと追いやる。

「片付けるぞ」

「で、でも、准将さんは……」

 アンドレーエは険しい眼で穴の底のチェシーを見下ろした。

「人間だろうが悪魔だろうが関係ない。やつは敵だ」


 チェシーは足下に転がる青いルーンに手を伸ばした。

 三つまとめてつかんだ。眼を閉じる。


 氷碧のきらめきが、息を吹き返す。生命の光を取り戻した《封殺のナウシズ》を、チェシーは無言で握りしめた。視線が暗雲の空をさまよい、やがて薔薇の鳥籠へと落ちる。

 決意のまなざしがアンドレーエを射た。

「ホーラダインはどこだ」

 冷静に聞く。アンドレーエは背筋に走るつめたさを噛み殺した。不敵に笑う。

「聞いてどうする」

 チェシーはもう、眼をそらそうともしなかった。

「奴を止める」

「断る」

「アルトゥーリ、すまないが頼みがある」

 チェシーが呼んだ。

「何」

 背後にアルトゥーリが立った。いつもの調子でうっそりと応じる。


「陛下には、宮殿の地下壕に避難していただいている。《虚無ウィルド》の影響が弱まっている今なら、外にお連れできるだろう。悪いがブランと一緒に救出に向かってくれ」

「了解」

「俺も後から行く」

「誰が行かせるかよ!」


 アルトゥーリが立ち止まった。けげんな顔で振り返る。


「俺たちとは協力してサリスヴァールがダメなのっておかしくね」

「うっせえ! お前らはさっさと陛下とやらを助けに行きゃあいいんだよ! 俺の邪魔をすんな!」

「ええ、ええ、分かったわ。ほら、行きましょ」

 レディ・ブランウェンがアルトゥーリの肩を押す。


「いいのかほっといて。まじで殺る気っぽいけど」

「気にしない。ああいう思い込みの激しい単純でバカ一直線の男なんて放っとけばいいのよ」

「それは言い過ぎ」

「どうせ、敵だの何だの言い出しちゃったせいで、引っ込みがつかないだけなんだから」

「指摘してやるなよ」

「あーもー嫌よねーホント。あー暑っ苦しい、あーめんどくさい、あー鬱陶しい」

「ひどい言われようです。アンドレさんにだって良いところはいっぱいあるです。考えなしに行動してくれるところとか」

「おまえら、面と向かって陰口を叩くな。さっさと行っちまえ」


 アルトゥーリを追い払う。アンドレーエは腰背の鋼剣鞭ウルミに手を回した。吐く息に、腹の底の煮えくり返るような熱が混じる。

 

「……てめえだけは絶対に許せねえんだよ、サリスヴァール」

 いつでも引き抜けるよう、柄に指を置く。

「もし、少しでもあやしい動きをすれば即座に頸を刎ねる」


 本気でそのつもりだった。


 ──あの、一寸先すら見えない豪雨のさなか。アーテュラスは。

 戻らないサリスヴァールをひたすら探して。ひたすら待って。ひたすら信じ続けて。

 絶望の撤退戦を支え、魔物を前にしてもなお最後まであきらめず踏みとどまり、戦おうとしていた。

 今思えば、あまりにもやせっぽちで。ひ弱で。どう見ても勝てる見込みのない戦いだった。どうしてそこまでする必要があったのか、ずっと分からずにいた。司令官を失い、ノーラスを失陥するぐらいなら、シャーリア公女ごと第一師団を見捨てた方がよほどましだっただろう。おそらくホーラダインならそうした。


 だからこそ。

 どうしても忘れることができなかった。

 どうしても、許せなかったのだ。

 無力だった──ヴァンスリヒトもアーテュラスも助けられなかった──なんの力にもなれなかったあのときの自分が。

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