あいつを、連れて行かないでくれ
太刀風が突き抜ける。大地が割れた。剥ぎ取られ、吸い上げられて宙に浮く。
鉄のいばらが一瞬で切り尽くされた。黒い粒子と化した灰が吹きすさぶ。
「な、何だ……?」
眼前の景色が、二つに割れる。
風圧でいばらの草原がなぎ倒されていった。復活する間もなく萎びて溶解し、霧散する。
「待て、ホーラダイン。行くな」
煙の向こうから、詠唱とはまるで違う、弱々しいしゃがれ声が追いすがった。
遥か前方の彼方で、ザフエルが立ち止まった。振り返る。黒い虹の結界に陽炎が反射した。微光を放っている。
アンドレーエは、呆然と声の主を振り返った。
ぼろぼろに破れた、漆黒と瑠璃色の軍衣。
金髪の悪魔は、大太刀を地面に突き刺してよろめいた。手を伸ばし、立っていられず膝をつく。
折れた黒い片翼。
醜く膨張し、つづらに折れる異形の腕。
青黒く光る血が、とめどなく足下に流れ落ちている。背中には突き刺さった何本もの剣。
血まみれの顔に、泥で汚れた金髪が貼り付く。妖輝を灯す重眼だけが、灼熱を帯びて燃えていた。
「サリスヴァール!
アルトゥーリが跳ね起きて、倒れているレディ・ブランウェンの傍らに駆け寄った。ぐったりとして意識がない。全身に巻きついたいばらを引きちぎる。
「あと一分遅けりゃあ、まじで全滅してたし!」
「無理を言うな。俺だって今日一日で三回は死んだ」
チェシーは血を吐いた。口元を拳でぬぐう。頰に青黒い魔物の色がこすれついた。
アンドレーエはようやく我に返った。
「サリスヴァール! てめえ、よくも!」
理性も何もかもかなぐり捨てて殴りかかる。
「どのツラ下げて出てきやがった! アーテュラスを元に戻せよ! 何もかもてめえのせいだ、この悪魔野郎ッ!」
力任せになで斬り、叩きつける。
甲高い風鳴りが空を裂いた。
チェシーは大太刀をかざし、一撃を跳ね返した。
「逃がすか!」
アンドレーエはさらに踏み込んだ。瓦礫を蹴って肉薄する。
鞭先が目にもとまらぬ速度で乱舞した。無数の残像を描き出す。
「やめろ、アンドレーエ」
チェシーはかろうじて連打を受け流した。苦しい息を吐く。
「こんなことをしている場合じゃない……」
「……准将さんの馬鹿あっ!」
涙混じりの甲高い声が耳に突き刺さった。アンシュベルが立ちはだかる。
「何でこんなことになるですか。師団長を返すです!」
両手に、真っ白い紙筒の
「えいっ! ……あれっ?」
すっぽ抜けた。全然、飛距離が足りない。紙筒がコロコロと明後日の方向へと転がる。
「
アルトゥーリが怒鳴る。アンドレーエは怒鳴り返した。
「てめえ、裏切る気かッ! 助けてやった恩も忘れて!」
「あんたに助けられた覚えはないし」
「ああそうかよ。短い間だったが世話になったな。あばよ!」
アンドレーエは
即座に右方向へ身を投げた。頭から地面に飛び込んで片手を突き、側転しつつ空中で軽々と身体をひねって転がり逃れる。
擲弾がチェシーの足下に跳ねた。
白熱の閃光がふくれ上がる。
瞼を閉じていてもなお、暴力的なほどの光の圧力が眼底にねじ込まれた。閃光弾だ。
まぶしすぎて何も見えない。強すぎる光は闇と同じ。
目がくらむ。
《
遮断したはずの光がふたたび視界を焼いた。
アンドレーエは乱舞する光の残像に目を眩ませながら突っ走った。
苦悶によろめくチェシーの気配をとらえる。
すくい上げるような地擦りの鞭を振るった。叩き込む。
鞭音を聞き分けたのか。チェシーはとっさに反応した。鞭を剣で打ち落とす。
鞭先が跳ね返った。大太刀に巻きつく。
とらえた。
狙い通りだ。アンドレーエはぐっと手首を返した。鞭を引く。
鞭先は、大太刀の根元に何重にも巻き付いている。
するどく研いだ鋼糸を縒りあわせ、鋼刃と鉄菱を編み込んだ鞭。触れたものすべてを指先一つの加減で細裂くことも、絞めあげることも可能な、伸縮自在の蛇剣。
たとえ大太刀が相手だろうと、容易くちぎれるしろものではない。
「サリスヴァール!」
挑発まがいに怒鳴りつける。だが、予想した反撃はない。
閃光が晴れ、視界が戻ってくる。
チェシーは、アンドレーエを見てもいなかった。
悪魔のまなざしはザフエルにのみ向けられ、怒りとも、苦悩ともつかぬ激しさにくるめいている。
「行かせてはならん。奴を止めろ」
漏れ出たのは、元の声とは似ても似つかぬ、血を吐くようなしゃがれ声だった。
「ホーラダインは、あいつを殺す気だ……!」
「黙れ」
アンドレーエはくちびるをゆがめた。
力ずくで鞭を引き寄せ、剣の動きを押さえ込みながら怒鳴る。
「そんな手に乗るかよ。ホーラダイン、さっさと行け。今のうちだ、アーテュラスを追え」
鞭に引きずられ、チェシーが体勢を崩す。
「やめろ。あいつを、連れて行かないでくれ」
懇願のうめきと一緒に、がらがらと強く咳き込む。
立っていられるのが不思議なほどだった。血にまみれた満身創痍の状態で、狂おしく
「うるせえっ!」
アンドレーエは唾棄せんばかりに吐き捨てた。なおいっそう力を込めて鞭をたぐり寄せる。
「てめえ、自分が何をしたのか分かってて!」
チェシーは血まみれのかぶりを振った。
「……あのままティセニアに残っていれば、聖騎士どもに殺されるだけだった!」
「あまりにも愚かしく」
低い、祈りにも似た呟きが場を圧した。
「あまりにも、哀れ」
乾ききった声が、すべてを打ちのめす静寂のようにいんいんと伝わってゆく。
ザフエルは黒衣をはためかせてチェシーを見やった。
冷淡なまなざしが、茫漠とした砂漠の月を思わせて底光る。
「もはや、異端でもない。人ですらない貴方に、この世界で生き長らえることを赦すいわれは、ない」
息を呑む鋼の音をつと滑らせ、漆黒のサーベルを抜き放つ。
闇に誘われるがごとき切っ先が風を切った。
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