「閣下は私が何者であるかをご存じない」

 敵地は目前だった。

 毛皮の縁取りがついたポケットに手を突っ込み、荷車を隠してある林の中へと足早に向かう。

 焚き火と、その炎をさえぎってうずくまる人影が目についた。

 影は、微動だにせず炎を見つめている。


 アンドレーエは驚かせないようわざと枯れ葉を踏む音をさせて近づいた。声を掛ける。

「交代しよう」


 荷を満載した貨車のてっぺんに、鷹が一羽、止まっていた。毛羽立つ茶褐色の羽に赤と黄色の斑がちらほらと混じった色合いだ。黒い連絡筒を足に嵌めている。

 指を鳴らす。鷹が羽を広げた。飛んできて腕に止まる。

 筒を引き抜いて中身を取り出す。ユーゴからの密書だった。


 国からも神殿からも追われる身となったアンドレーエへ、忌々しいぐらいあっさりとティセニア国内の状況を知らせてくる。


「お変わりなし、だとよ。エッシェンバッハのおっさんもノーラス方面に張り付いたままだそうだ。追ってくる気はなさそうだな」

 仕留めておいた野ネズミを与える。鷹は空中でネズミをつかむと、どこかへと飛んでいってしまった。


「元帥が二人も失脚したのだ。防衛体制を維持するだけで精一杯だろう」

 ザフエルは振り返りもしなかった。

 昨夜差し入れた酒が、一口も付けられぬまま冷えて残されている。

 アンドレーエは何も気づかないふりをして、ザフエルの隣に立った。皮張りの折りたたみ椅子を引き寄せて座る。


「酒、もらうぜ」


 返事はない。元より期待したわけでもなかった。

 さっそく鉄の火箸を火にかざしてあぶる。

 アンドレーエは赤くなった火箸を酒壺に突っ込んだ。じゅっ、と一瞬沸騰する。かき混ぜる。

 一口飲んで、さらにもう一回。戦地で酒を温めるのはこのやり方が一番早い。

 揺らぐ火を眺める。


「いつまでアル・バシードと一緒に行動するつもりだ」


 アンドレーエはザフエルの手元に目をやった。金の飾緒の切れ端を握り込んでいる。

 先端につけた黒い万年筆が揺れた。

 ざっくりと深く傷の入った、壊れたペン。

 ザフエルは手の中で万年筆を転がした。黒い眼差しが地面をさまよう。

「宮殿へ入り込む確実な手だてが他にない」

「女連れで突入はできん」

 アンドレーエは薪を火中に放り込んだ。燃え残りの薪が崩れた。火の粉が派手に舞う。

「俺の見立てじゃ明日あたりから吹雪になる。あいつらに雪中行軍は無理だ。行動が遅れれば遅れるほど、状況はこちらの不利になる」

「言われずとも分かっている」

 心ここにあらずの指先が、万年筆の傷をそぞろにもてあそぶ。


「女どもはここに置いていけっつってんだよ、今すぐ! うるせえから! 黙って! おい聞いてんのか、この」

「聞こえている。明日は雪だ」

 アンドレーエは笑い、酒をあおった。

「何だこのポンコツ頭。マジでアーテュラスにしか反応しねえのな。よくもまあ、そんなんであいつの副官が務まったもんだ。化けの皮が分厚いにも程がある」

「閣下は」

 ザフエルは万年筆を握りしめた。


「私が何者であるかをご存じない」

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