光の鎖、光の鈴、光の枷

 音が消えた。声が消えた。存在が消えた。代わりに血の匂いがまとわりつく。


 ニコルはかぶりを振った。ゆらぐ陽炎めいた記憶とともに、忌まわしい束縛を振り落とす。

 眼を閉じ、再び開けば、そこには何もない。

 虚無がすべてを侵蝕してゆく。世界が、ゆがむ。おぞましい影がのたうち出る。

 刹那。


 疾駆する暗黒のいばらが、めきめきと空間をへし折って現れた。枝分かれし、増殖し、膨張して、牢獄を内側から破壊する。

 石の床に無数の棘が生えた。突き破りながら隆起する。

 神渡りの轟音が、逃げるイェレミアスの背中を追った。


「お、お、おまえ、上官の盾になるのが底辺の役目だろうが! 逃げるな! 守れ、ぎゃぁぁあっ!」

 無駄に長いマントに足をもつれさせ、階段を上から下まで転がり落ちる。

 身代わりに突き飛ばされた衛兵の絶叫が響き渡った。潰れた音が壁に叩きつけられる。


 のたうち回るつるばらが、鉄格子をへし折った。

 横薙ぎに壁を砕く。

 瓦礫ごと串刺しになった何かから、暗黒の飛沫が飛び散った。

 ランプが割れた。炎が上がった。逃げ遅れた兵が窓の外にまで引きずられ。

 投げ捨てられる。


「……!」

 誰かの叫び声すらも、《虚無ウィルド》の闇にかき消される。


 何人をも寄せ付けぬ拒絶。

 薔薇の瞳が、その色をみるみる濃く、暗くしてゆく。


 虚無が、裸身を取り巻く。淡く輝く無数の点が、鈴の音を鳴らして凝集し、虹の同心円を描き出した。

 現れた封印が、全身を束縛する。

 眼をふさぎ、喉を絞め上げ、手足を拘束し、光の鎖、光の鈴、光の枷となって。

 無垢なる闇を薔薇の十字架にかけ、永遠の隷属へと縛り続けようとする。


 手が、光の鎖に触れた。

 愛おしむように撫でる。

 宝石を奏でるにも似た小さな音が、指先から火花となって跳ねた。

 引きちぎる。

 鎖の輪が粉々に霧散した。

 見覚えのある深紅の光が、切迫を告げる明滅を放った。続いて青い光。藍色の光。紫の光。緑の光。黒い光。そのどれもが、たやすく破り捨てられる。

 悲鳴。崩壊。轟音。溶岩が赤く照らす魔都の空に、けたたましい半鐘が鳴り渡る。


 すべてが、耳障りだった。



「うう、おはようございますアンドレさん。今朝もまた随分とお寒い限りで」

 アンシュベルは、顔だけを出したミノムシ状態でぴちぴちと地面にはねた。

「売れない芸人みたいに言うな」


 よほど朝晩の冷え込みが骨身にこたえたのだろう。こんなかわいい女の子が野宿なんてもう絶対に無理無理無理無理ィ! と泣き事をほざくアンシュベルを、頭からあざらしの毛皮の寝袋でくるんで転がしたのが昨夜のこと。


「少しは眠れたか」

「全然。寒すぎてアンドレーエさんがヨシヨシしてくれた時しか寝れませんでしたです」

「人聞きの悪いことをいうな。あんまり寒い寒い言うから、《静寂イーサ》を発動させてやっただけだ」


 その隣で、女商人のアル・バシードは眼をつぶったまま堂々と聞き耳を立てていた。小さく肩が笑っている。


「見張りの交代に行ってくる」

 アンドレーエは首にマフラーを何重にも巻きつけた。女商人に声をかける。白い息がたちのぼった。


 空を見上げる。今にも雲の蓋が堕ちてきそうな天気だった。冬しかない極北の地は、常春の海に慣れた南国育ちにはつらすぎる。

 早暁の霧氷が薄煙となってたなびく。

 針葉樹ばかりがくろぐろと波打つ森。視界の大半を覆い尽くす稜線は、酷薄なまでに白く凍り付いている。

 その彼方に。

 漆黒の台地と、山腹を取り巻く溶岩の川があった。


 最果ての地、魔都ベルゼアス。

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