たったひとつの絆だったもの
(監視の目があるからこそ、逆に自由でいられると思いませんか)
以前、ツアゼルホーヘンにて執り行われた花誕祭のさなか。
訳知り顔のアーテュラスが口にした言葉だ。甘やかされてばかりの、単なるお飾りでしかないボンボン元帥だとばかり思っていたのに、その一言で目が覚めたように思ったものだった。
「アーテュラスは、あんたが監視役だってことをちゃんと分かってたぞ。もしかして、本当は最初から知ってたんじゃないのか。あいつの正体を」
「国防より、正義より、ルーンの血脈を絶やさせぬことが重要なのだ」
「クソでもお食いあそばしやがれ」
アンドレーエは鼻に剣呑な皺を寄せた。酒臭い息を吐き出す。
「そうやって薔薇の瞳を持つガキを探し出してきては、おありがたい聖女さまでござい、みたいな顔をして神殿に連れ込んでたんだよな。てめえらは」
ザフエルは火から眼をそらした。
漆黒の眼差しが、言い知れぬよどみを映し込んで揺らぐ。
「私はルーンの血を受け継がなかった。薔薇の系譜に列せられぬ者に、ホーラダインの名を継ぐ資格はない。一族の名誉を存続させるたった一つの方法すら絶たれた今となっては、《
アンドレーエは拳の背で口元を拭った。
「てめえらのお家事情など知ったことか。《静寂のイーサ》はなァ、もともとが盗っ人界最大の秘宝だぞ」
また酒をあおり、酔いの勢いに任せて続ける。
「俺だって、由緒正しい山賊一味の御曹司だ。ところが、取り上げた《
「誰もが、貴公ほど自由自在の身ではない」
アンドレーエはわざと薪をザフエルの目の前の火に放り込んだ。灰が飛び散る。
汚れひとつなかったブーツのつま先が、うっすらと灰をかぶってくすんだ。
「本当にあいつを助けたいなら、聖騎士なんてやめちまえ。今のままだと、アーテュラスを連れ戻すのは殺しに行くも同然だ」
ザフエルは答えなかった。出陣前、無事を祈って戦地へと送った万年筆とほとんど同じ──今となってはもう、たった一つの絆だったものを、手中に握りしめる。
沈黙が続いた。
消えかけの焚き火が、風に吹かれて赤い炭の粉を散らした。吸い込まれるように小さくなる。残るは灰色の山。
夜が、明ける。
「私には」
ザフエルはつぶやいた。らしからぬためらいに声がくぐもる。
「他に、何も」
突然、冷たい風が背後から吹きつけた。燃え残りの灰をちりぢりに吹き飛ばす。
北の空が、いつの間にか湧いて出た黒雲に覆い尽くされていた。
青黒い稲妻が、雲塊の内部に走った。ひらめく。
雷鳴がとどろいた。
直後、小石ほどのひょうが降り始めた。白い氷が音を立てて地表で跳ね返り、転がってばらばらに砕ける。
「きゃあぁぁあ何ですかこれはああアイタタタタ痛い痛い冷たい痛い助けてえ!」
ガラスの割れるけたたましい音がした。アンシュベルの悲鳴が続く。
「何だ?」
アンドレーエは思わず腰を浮かせた。背中に冷気が入り込んだ。蛇のように這いのぼる。
一瞬、硬い音を立ててまたたく。
「気をつけろ。ルーンの様子がおかしい」
ルーンがたたえるきよらかな命の光に、走馬灯めいた影がかぶさって揺らめいた。火花が飛んだ。暗く濁る。
耳には聞こえない不協和音が高まった。
本能が警鐘を鳴らす。
「どうしたってんだ、これは」
背後から風に吹きあおられ、アンドレーエはつんのめった。
愕然と空を見上げる。
天空に悪魔の目が出現していた。
巨大な雲の渦を描いている。漆黒の台地に、黒い竜巻が上昇してゆくのが見えた。
竜巻に何かが吸い込まれた。チカッと閃光を放つ。爆発した。噴出したはずの炎と煙もまた、螺旋を描いて吸い取られる。
雷撃が伝い走った。
「何だありゃ。すごい勢いで全部吸い寄せられてくぞ」
アンドレーエは口をぽかんと開けた。腕をかざし、飛んでくる木っ端や氷のかけらを防ぐ。
眼では見えているのに、どうしても頭が状況を理解しない。
ザフエルが身を起こした。立ち上がる。黒い外衣が、狂ったようにはためいた。
「覚醒だ」
「へ?」
目深に下げたフードがはだけた。冷たくこわばった表情があらわになる。
黒い瞳に、暗く渦巻く北の空が映り込んだ。
ひょう混じりの突風が横殴りに打ち付けてくるのも構わず、いきなり歩き出す。
「ちょっ……ホーラダイン、おい待てコラいきなりどこ行く……ありゃあ何なんだよ!」
アンドレーエはくしゃくしゃの髪の毛を押さえた。風に押し飛ばされそうになるのを何とかこらえてザフエルの後を追う。
「《
ザフエルは立ち止まりもしない。見上げる漆黒の瞳が、狂乱の空を映し取って暗鬱に光った。
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